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第291回 株式会社家族亭(英文 KAZOKUTEI CO.,LTD.) 代表取締役社長 乾 光宏氏
update 12/00/00
株式会社家族亭
乾 光宏氏
株式会社家族亭(英文 KAZOKUTEI CO.,LTD.) 代表取締役社長 乾 光宏氏
生年月日 1953年4月19日
プロフィール 神奈川県秦野市に生まれる。東京大学を卒業し、日産自動車に入社。社内留学制度で渡米し、MBAを取得する。帰国数年後、コンサルタントに転身したが、「良い戦略を持つ会社が良い会社になるのではなく、良い指導者のいる会社が良い会社となる」という仮説を検証するため、大手パチンコ・ホール会社に就職。その後、上場企業の役員などを経て、2002年、カッパ・クリエイトに入社。2003年、資本提携先である「家族亭」に出向し、業務改革部長に就任。取締役にも選出される。2005年、関連会社である株式会社得得の代表取締役社長となり、2006年、現職となる。
主な業態 「家族亭」「得得」「のぶや」「とくとく」「ぎおん」「花旬庵」「玄妙和楽」「三宝庵」「蕎菜」他
企業HP http://kazokutei.co.jp/

1953年、生まれ

女の子にモテるようになりたいと思って勉強した、と乾は小学生時代を振り返る。素直なコメントだが、ピントは少しずれていた。勉強はできるようになったが、いっこうにモテる気配はなかったという。
乾が生まれたのは1953年、出身は神奈川県秦野市である。秦野市は神奈川県の中西部に位置し、北部と西部に丹沢山地が連なっている。乾が育った当時は、まだ豊かな自然が残り、カブト虫なども飛んでいたそうだ。
乾が入学した中学校はいわゆる進学校ではない、普通の公立中学だった。中学生になったとき担任の勧めで、ボーイスカウトに入隊する。1、2、3年と続けてクラス委員長に任命された。当時は現在のように「良い指導者になる」という意識は薄く、2年の末に生徒会長の選挙に推薦されたときは、全く選挙運動をせず、ギリギリのところで落選できてほっとしたこともあった。
「当時は番長っていうのがいたんです。2、3年と連続でその番長のいるクラスで委員長をさせられた。つまり、番長とコンビで一つのクラスに振り分けられたんです。2年が大過なく終わり、次は落ち着いた学生生活が送れると思っていました。ところが、3年の始めに、担任がわざわざ私の家まで来て、『今年も○○と一緒のクラスだがよろしく頼む』って言うんです。ちゃんとガタイのでかい運動部のキャプテンクラスを大勢入れておいたからって(笑)」。「だから、うちのクラスには運動のできる奴が集まったんですね。そのおかげで毎月のスポーツ大会はいつも優勝。運動の苦手な私が、委員長ってことで胴上げされ、宙を舞っていた。中学時代は、私にとって一番楽しい時代だった気がします」。今でも乾が心の奥底に持っている不良(男も女も)への憧れと理解はこの時に芽生えたのかも知れない。

山への憧れ、大学の選定

典型的な秀才とはいわない。勉強一本ヤリではなく、勉強以外のことにも本気になり、時には本気が過ぎてユーモアとなった。しかし、自分ではあくまでも大真面目である。
中学時代にはいろんなタイプの生徒がおり、彼らとも付き合えたことが、「一番楽しかった」と振り返る理由の一つであろう。しかし、高校はいわゆる進学校に入ったため、周りは真面目な優等生ばかりでつまらなくなった。
代わりに山登りに夢中になった。毎朝早朝のトレーニングとして、ジュラルミンの背負子にコンクリート・ブロックをくくりつけて40〜50キロの重さにしたものを背負い、独りで、近くの神社の石段を何回も往復した。近所の人は変人と思ったかもしれない。しかし、本人は、「近所の目は気にはならなかったが、ときどき野良犬が吠え掛かってくるのには困った。逃げようとするとバランスが崩れてしまうから」と、当時を思い出す。
「当時は一流の登山家となることを目指していました。高校では山岳部にも誘われましたが、独りで登るからこそ、先鋭な登山をする土台ができると思い、断っていました。1ヶ月に3回は山に登る。単独行によって数々の登攀記録を残した『加藤文太郎』っていう登山家がいて、彼に憧れていたから、独りで登ることに意味があると思っていたのです。この『加藤文太郎』って人は、新田次郎の『孤高の人』のモデルにもなった人です。」
一方、勉強の方はどうだったんだろう。「一学年に400人ほどいるうち、だいたい上から20番が定位置でした。それより上にいけなかったのは数学が苦手だったからで、『私は文学青年だ』といって威張っていました。ところが、3年の2学期の受験校を決める大切な実力試験のとき、不思議と肩の力が抜け、数学でも1番になりました。このため、総合でも1番となり自信をつけました。」
「高校1年当時は、大学に入って何を勉強したいということもなく、近くに魅力ある山がある大学の山岳部に入りたいと思っていました。このため、最初の志望先調査には、第1志望、富山大学(剣岳があるため)、第2志望、信州大学(穂高岳)、第3志望、北海道大学(日高山脈)と書いたと記憶しています。」
「高校3年のはじめころより、なんとなく東京大学に挑戦してみようかという気がしてきました。その頃は、合格できるレベルにはいなかったのですが、一校だけしか受けないと最初から決めていました。『背水の陣』をとりたかったのと、カッコつけたかったんだと思います。運よく、それから成績があがり、一校だけ受けて合格できました。」
「大学ではワンダーフォーゲル部に入りました。スキー山岳部に入りたかったのですが、私が入学当時、スキー山岳部のパーティーが北アルプスで遭難し、部をあげて捜索中だったためなかなか先輩に会えなかったんです。スキー山岳部の部室の前まで行き、扉が閉まっているため引き返すというのを何回か繰り返しました。相当にうんざりしていた頃、隣に部室のあったワンダーフォーゲル部の先輩に、『うちでも本格的な山に登れるよ、うちに来なさい、これからちょうど新入部員歓迎パーティーがあるところだ』、と強引に誘われました。フラフラとパーティーに参加し、加藤文太郎の話などをしているうちにワンダーフォーゲル部に入部することになっていました。」
「ワンダーフォーゲル部には約1年間在籍し、部員として南アルプスや上越の山をいくつか真面目にのぼりましたが、一方で、私の登山人生の『堕落』が徐々に始まっていました。部活動とは並行して、同級の男女の友人とともに、楽しく、尾瀬へのハイキングやスキー旅行に行き始めたのです。」それ以降、乾が孤高の人として山に登ることは二度となかった。

戦略コンサルタントへの道

1977年、乾は東大を卒業し、日産自動車に就職する。「特別、車が好きってわけではなかったんですが、日産には、当時から社内留学制度っていうのがあって、それを利用してMBAを取得しようと思ったんです。」日産では、海外事業のマーケティング企画、海外投資採算性検討等に従事、1981年に念願の社内留学制度で渡米。米国のノースウェスタン大学で2年間学び、MBAを取得する。
大学時代から「戦略」や「経営戦略」という言葉に憧れていたそうだ。
やがて、戦略の「立案」と「実行」が、乾の仕事のキーワードとなる。
1988年、乾は、経営コンサルタントに転身、「経営戦略」に特化した外資系のコンサルティング会社に入社している。4年後に、別の外資系コンサルティング会社に転職してそこで3年、合わせて7年間、戦略コンサルタントとしての貴重な経験を積んだ。ただ、その一方で、徐々に、経営戦略コンサルタントという生業の社会的な存在意義というものに疑問を抱き始める。乾はホームページの「トップの決断」のなかで、次のように語っている。
「私は、『良い経営戦略を持つ会社が良い会社となる』と想定していました。しかし、経営戦略コンサルティングに深く関わり、戦略の立案と実行のプロセスについて経験を深めれば深めるほど、この想定が間違いではないかと思うようになりました。そして、これに代わって、『良い経営者がいる会社が良い会社となる』という考えが心を強く支配するようになりました。〜〜中略〜〜私は、『良い経営者』となり、『良い会社』を、自分が主人公となって作っていきたいと思いました。これが、私がコンサルタントを辞め、実業に入ることを決断した理由です。」乾は「良い経営者がいる会社が良い会社となる」という新しい仮説を自ら検証するために、コンサルタントから、「実業」に舵を取る。バーチャルからリアルに。人生が動き出す。

仮説の検証

コンサルタントを辞した乾は、ヘッドハンティング会社の紹介で、ある大手パチンコホール会社に就職する。最初から難しい選択を強いられた。「たまたま私が内定を頂いてから入社するまでの間に、行政指導が入り、営業活動に大きな支障が生じてしまった。その結果、『内定時に約束したポジションは変更せねばならず、給料も、他の役員につきあい、減額を我慢してもらわざるをえない。それでもいいだろうか』と、この会社のオーナーに問われたんです。」給料はともかく、大赤字を抱えた会社にわざわざ転職することになる。他に就職先を探そうと思えばより優れた客観的条件のものはいくらでも見つかる。誰でもためらう状況だろう。ところが、乾は平然とオーナーに答えた。
「私が入社してからも、今後の会社の成長の中で、苦境に陥る時は何度かあるはず。それが、たまたま入社の時期と重なったというだけです。私も、オーナーと一緒に、この時を乗り越えさせてくれませんか。」
この時の乾とオーナーとの会談に同席したヘッドハンティング会社の社長は、乾のこの時の決断は予想しえず、そこで彼がうけた驚きは今でも乾とのあいだで語り草になっているという。
このエピソードの中に、乾という人間の一面を見ることができる。少なくとも安穏で退屈な道を歩む人ではない。乾は比喩を用いて言う。「自分の立つ海岸に荒波が打ち寄せているとします。時には、波は驚くほど高く、大きなホコラのような凹みを見せながらこちらに向かってきます。そのような時、私はそのホコラに向かい、直角に思い切って飛び込みたくて、うずうずしてくるんです。」危機に直面したとき、恐れて逡巡することなく、その危機の中に飛び込んでいく、この姿勢は乾の生き方を特徴づけ、その美意識ともつながっているに相違ない。
覚悟を決め、入社した会社だったが、在籍は3年間と短い。しかし実績は残した。黒字に転換させてもいる。
「短い時間でしたが、オーナーから『情熱があればどんな事業も成功する』ことを学んだ」と乾。「良い経営者がいる会社が、良い会社となる」という仮説を、ある一面から検証するにふさわしい「良い経営者」との出会いだった。「いまもオーナーには感謝している」と乾は言う。
だが、実績を残せば残すほど、社内での地位が高まれば高まるほど、周囲からうとましがられたのも事実である。また、オーナーの富という甘い蜜の周りに、「あわよくば」と集まってくる人々が比較的に多い業種でもあった。このような人々から、身に覚えのないことで誹謗されてまで、会社にいるつもりはなかった。泥仕合をする気にはなれず、会社をあとにすることになる。

成功への道に開いていた落とし穴

1998年、乾はJASDAQ上場(当時)の駿河精機株式会社に転職した。
駿河精機では、OST(オプティカル・サイエンティフィック・テクノロジーの略)という、光・光通信関連の部品の製造・販売を行う事業部を任された。ミッションはOST事業を第二の事業の柱に育てることだった。
乾はこの事業部を、「製造勝手」の姿勢から「営業勝手」の姿勢に、完全に変革した。わずか3年で年間売り上げ13億から40億のビジネスに育てた。この期間は、光通信バブルの時期にあたり、日本の業界売上げ全体も140%くらいは増加していたが、OST事業部は300%以上の急成長であった。営業利益も、事業部が創設されてから乾にバトンタッチされるまでの10年間、損失の連続であったが、3年連続で利益を計上、売上げ40億の年には5億円程度の利益を実現した。しかし、2001年に光通信バブルが崩壊するとともに、苦い後始末を行わなければならなくなる。
「ボロボロのセスナで、天空の高みをめざして、急上昇し続けていたんです。機体はガタガタと悲鳴を上げているのに。もう少し、もう少しと。結局、業績の目標を達成するのですが、需要の急減とともに在庫の問題が発生するなどして、一転、リストラを余儀なくされるようになったのです。」
乾は、減給をしてもリストラはしたくないと社長に迫った。事業のタネも残しておきたかった。だが答えはいずれもNOである。
目標をともに追いかけた仲間をクビにしなければならない。彼らとともに必死に育てた事業も捨てざるをえない。成長しているときには、応援者を装っていた他の役員の多くが、問題発生とともに、手のひらを返したように、過去のOST事業部の戦略の批判を始める。どれほど悔しかったことだろう。
責任の全てを背負って、乾はこの会社も去ることになった。

コスタリカの空の下と見抜かれた本気度

心身ともに疲れた乾は、中央アメリカのコスタリカに旅立った。コスタリカは奥様の母国だそうだ。
「しばらくは日本に帰国しないつもりでした。というのも、以前よりコスタリカのストリート・チルドレンのための孤児院を作りたいと思っていたから。孤児院建設用の土地を購入し、事業のラフな資金計画を作ったんですが、計算すると手持ちの資金が少したりない。それで、あと数年だけ日本で働こう、と。以前にも手伝ってくれたヘッドハンティング会社に依頼して、あがってきた候補会社のリストの一番先頭が、カッパクリエイトだったんです。」
資金稼ぎができるなら、どこでもよかった。だから、一番最初に出会ったカッパクリエイトに就職する。いい加減な選択ともいえなくはなかったが、この選択が、今まで以上に、本気にさせてくれる仲間たちとの出会いにつながっていく。
「カッパクリエイトでは、最初はやる気が全然でなかった。以前の会社のショックがまだ残っていたから。でも、さすがに会長(オーナー)は見抜いていました。『本気で仕事をしていないだろう』って。私は答えました。『30%くらいです』って。そうしたら、『まだ辞めるなよ、近いうちに、君が100%本気になれる仕事を任すから』と会長は言ってくれました。それから約1年後、任されるようになったのが、家族亭を改革するという仕事だったんです。」

家族亭が好きだ。

「『家族亭が好きだ』と社員たちは口をそろえる。入ったばかりのアルバイトもそう言うし、パートもそう。普通、どれくらいの社員が、ウチの会社が好きですって言うと思いますか?半分くらいいたらいいほうでしょう。それが、家族亭では90%以上の人が、会社を好きだと言うんです。」
少し、説明がいる。
カッパクリエイトと家族亭は2003年2月に資本業務提携を結んだ。カッパクリエイトは家族亭の筆頭株主となり、役員が一人派遣されることになった。その役員が乾だったわけである。当然、業績の建て直しがミッションとなる。
乾は、古い体制を刷新した。その原動力となったのが、「家族亭が好きだ」という従業員たちの声だった。「好きな会社なら、ずっと好きでいられるようにしなくてはいけない」と従業員の気持ちを背に、先頭を走って改革を行っていったのである。
改革が数字に表れはじめる、従業員たちが笑顔になる、強い絆が生まれる。この続きは、前述の「トップの決断」を読んでもらえばよいだろう。
乾が「トップの決断」の最終章をホームページに掲載したのは2009年6月、その後も現在に至るまで、家族亭は大きな変革を続け、乾はその舵取りをし続けてきた、特に大きな変化は、2011年9月に、エイチ・ツー・オー リテイリング株式会社(阪急阪神百貨店を中心とする小売グループ)の傘下に入ったこと、これは家族亭の将来の成長シナリオを実現するため、それまでの筆頭株主であるファンドの資本支配から脱したことを意味する。さらに、2011年10月には、埼玉県の麺製造販売会社である中野食品株式会社を100%子会社とした。将来の展望について乾に伺うと、
「当面の目標は、エイチ・ツー・オーの経営資源の支援をうけて、国内外の外食事業と麺製造販売事業をあわせ、売上げ1000億、営業利益50億を達成することだ」という。
ところで、いつの間にか、乾は飲食に携わるようになっていた。乾が「飲食の戦士」となったのは、いつ頃からだろうか。カッパクリエイトに入社した時、それとも家族亭に派遣された時だろうか。いずれにしても、彼が従来の「飲食の戦士」のワクをはみ出した存在であり、将来の外食・食品業界を変革する可能性を秘めていると思う。
異色の指導者、今後の彼の活躍に期待したい。

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