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第302回 株式会社大戸屋 代表取締役会長 三森久實氏
update 12/08/07
株式会社大戸屋
三森久實氏
株式会社大戸屋 代表取締役会長 三森久實氏
生年月日 1957年11月生まれ。
プロフィール 山梨県出身。中学卒業後、子供のいなかった伯父で「大戸屋」創業者、三森栄一氏の養子に入る。帝京高校野球部ではレギュラーとして活躍。卒業後、いったんフランス料理の修業を始めるが、栄一氏が体調を崩し、「大戸屋」に。3年後、栄一氏の死去に伴い21歳で、大戸屋の二代目経営者となる。
主な業態 「大戸屋ごはん処」
企業HP http://www.ootoya.com/

50円均一食堂、「大戸屋」の誕生。

ホームページを覗くと旨そうな料理が目に飛び込んでくる。メニュー表を観ると、これが「定食屋?」と思うほど、おしゃれな料理が並んでいる。
「四元豚とたっぷり野菜の蒸し鍋定食」「大戸屋風チキンカツレツ 特製和風デミソース定食」「鶏の竜田揚げ土鍋あんかけご飯 梅豆腐小鉢付き」…。たまらず食指が動きそうだ。この「大戸屋ごはん処」が誕生したのは、1958年。今回、ご登場いただく代表取締役会長 三森 久實、1歳の時である。
「私の養父の三森栄一が、1958年、東京の池袋東口に『大戸屋食堂』を開業しました。全品50円均一というユニークな商法で人気化します」。1958年といえば、オリンピック開催前。オリンピックの開催は1964年だから、その開催に向け東京が近代的な街に生まれ変わるなかで、「大戸屋食堂」は多くの労働者、サラリーマンの旺盛な食欲をみたしてきたはずだ。

野球好きな伯父が送ってきた「バット1ダース」。めざせ!甲子園。

三森は、山梨県で観光ブドウ園を経営する父の下に生まれた。伯父である栄一氏に子どもがなかったこともあって、三森は幼い頃から「伯父さんの養子になるんだぞ」と言い聞かされて育ったそうだ。栄一氏は甥の三森を可愛がり、野球少年だった三森にグラブやバットを買い与えた。バットが1ダース送られてきたこともあったそうだ。
「伯父も野球が好きでした。私をプロ野球選手に育てたかったのかもしれません」。栄一氏にそう思わせるほど、野球が巧かったのも事実である。高校は強豪の「帝京高校」に進んでいる。ただし、当時の野球部はいまの「帝京野球部」とは違って甲子園常連校でもなかった。監督が代わり「3年計画で甲子園へ」というチャレンジグな時代だったそうである。この時の監督は、現在も同校で監督を務めておられる前田三夫氏である。調べてみると、三森はすでに卒業していたが、1978年春の選抜高校野球で帝京高校は甲子園初出場を果たしている。

フランス料理との出会いと別れ。

さて、同校を卒業した三森は、大学に進学せず飲食の道に進んだ。「高校でも3年間、頑張ったから、野球はもういいだろうと思った」という。とはいえ、大学に進学するには勉強もやり直さないといけない。「それでね。大学進学はあきらめて、就職することにしたんです。飲食に進んだのは、中途半端に就職するよりも希望があったからです(笑)」。
三森に飲食業の良さをたずねると「敗者復活ができる点」と語っている。野球に熱中してきた三森を敗者と定義づけられはしないが、大学進学という意味では、野球以外に強みがなかったのも事実だろう。大学進学以上の意味と価値を、ゼロから獲得できるのは…。それが「飲食」だった。
三森の飲食人生が始まる。
三森の飲食人生は、コック見習いからスタートしている。「たまたま養父の知り合いの方が帝国ホテルの村上さんと戦友だったんです。そのご縁で、養父に連れられ村上さんのところに伺いました。『スグには駄目だから、とりあえずこの店で修行しなさい』と言われたのが、フローラフーズというレストランでした」。フローラフーズは三井物産系列のレストランで、当時すでに20店舗ほどチェーン展開を行っていたそうだ。帝国ホテルの村上氏とは、いうまでもなく「ムッシュ村上」の愛称でも親しまれた、元、帝国ホテル料理長のことである。
兎にも角にも、志たかく、見習い期間がスタートした。「ところが、入店してしばらくすると養父がからだをこわしまして。『いったん休職届を出して店を手伝ってくれ』と言われたんです。年内には、もどる予定だったんですが、それからずっと『大戸屋』です(笑)」。

月商3000万円を叩き出す、池袋でいちばん汚い定食屋。

三森18歳。伯父であり、養子になったのちは養父となった栄一氏の下で、飲食人生の仕切り直し。フランス料理とは異なる、定食屋。料理人の憧れでもあるフランス料理を学ぶと決めた三森は、どんな思いで「町の定食屋さん」の暖簾を潜ったのだろうか。
ただし、この定食屋はどんなレストランも舌を巻くほどのモンスター級の店舗だった。少し先の話になるが、栄一氏が死去し、三森が店主を引き継いだ時点で「1、2階の計48坪で1日の来店客は1000人以上。月商3000万円、経常利益1000万円」だったという。これが、1979年、三森21歳の時の話である。
「池袋でいちばん汚い食堂だった」と三森。客の99%は、男性で、日雇い労働者や学生でにぎわっていたそうだ。当時を振り返り三森は、こんな風にも言っている。「小さい頃から、もう一人の父のように慕い、尊敬していたんです。でも、それは私から観た養父であって、私が店主になると養父のことを外の人からいろいろ言われました。それが悔しくて。父を悪くいわれて腹が立たない息子なんていないでしょ。だから、いつか見返してやろうと思っていたのも事実です」。若いから遊びもした。だが一方で、週4日は買い出しにも行った。勉強もした。ちょうど時代はファミリーレストランやファストフード花盛り。この飲食の戦士でも度々、登場するチェーンオペレーション理論が、次々巨大なチェーン店を生み出し、日本の飲食を産業に進化させていく過程にあった。そんななかでも三森は定食屋にこだわった。敬愛する養父が残したものを大きくしないと意味がないと考えたからだ。頭じゃない。心の問題だった。

従業員たちに翻弄される21歳の経営者。

「ある人から、定食屋でチェーン化は無理だと言われた。でも私は、メニュー数がうちより多い居酒屋がチェーン化するんだから、定食屋だってできないことはないと思い、独学でチェーン化を模索します。かといって、まだ20歳そこそこでしょ。『2号店を出店するにはどうすればいいか』と、銀行にたずねに行くんです。そしたら、『お金を貯めてください』と言われ(笑)。そりゃそうですよね。それから2〜3年間で7000万円を貯めて2号店を高田馬場に出店するんです。26歳の時です」。
個店からチェーン店へ。踏み出した一歩は大きい意味を持つ。当時の店の状況は、「客単価400円ぐらいで来店客数は1日2000人」だったそうである。順調だが、苦労はなかったんだろうか。「そりゃぁ、あった」と三森。「従業員が20人ぐらいいたんですが、全員、私より年上でしょ。人を使うのも、もちろん初めて。スポーツ新聞に求人広告を出すんですが、バッグ一つで地方から出て来た人や家出少女…、入れ墨が入っているのもいたし、小指がかけている人もいました(笑)」。店のお金がなくなり調べたら、従業員が犯人で指紋を取って初めて指名手配犯だと判明したこともあったそうだ。いまなら一つのエピソードと笑いもできるが、当時、どれだけ人の問題が三森の頭を悩ませていたか想像できる。ともあれ、若い店主は、チェーン化に向かって舵を切る。

天狗になり、流行を追い、ジャズを流したが、初の大失敗。

従業員に悩まされながらも、2号店も順調にスタート。2年後、3号店を吉祥寺に出店する。いずれも養父が残した「定食屋」というコンセプトだった。同様に繁盛し、3店舗で年商は5億円にもなったそうだ。一方、当時、つまり1980年代は、バブルに向かってまっしぐらの時代である。東京の地価は高騰し、高田馬場は保証金込みで7000万円、吉祥寺に至っては1億7000万円の出店コストがかかったそうだ。それでも、回収にはスグにめどがたった。20代後半の若者が億単位のカネを動かす。三森が天狗になったというのも、頷ける話である。
「周りにもチヤホヤされるでしょ。それで、天狗になって、定食屋と違って格好いい店をつくりたくなっちゃったんです」。カッコつけた。当時流行っていた大皿料理の居酒屋をオープンする。内装に凝って、BGMにはジャズを流した。これが見事に失敗。4000〜5000万円くらいの損を出した。山梨県でハンバガーチェーンのFC店も出店した。こちらは「勉強のため」という意味もあったが、素人がそう巧く儲けられるしくみではなかった。居酒屋は1年でクローズし、改めて定食屋に専念することを誓ったが、運悪く従業員の不始末から吉祥寺店が火災を起こしてしまった。「朝7時に連絡がありました。9月1日、防災の日でした」と三森。延焼も、ケガ人も出なかったのは、唯一の不幸中の幸いだった。

リニューアルは、新たな挑戦の幕開け。

この火災により、長かった三森のハナは、見事にへし折られる。だが、三森は意気消沈するどころか、「これで、大戸屋もなくなってしまうのでは」と危惧する従業員たちに向かって、再生を誓った。「この店をもっといい店にすることで、ご迷惑をかけた皆様にお詫びしよう」と。構想はあった。「ちょうど、いままでとは違うスタイルの店を模索していたんです。そのスタイルで『吉祥寺店』をリニューアルしてみようと思い立ちました」。「吉祥寺は、女性が多い。うちの店でも、ほかの2店とは違って、女性客が少なくなかった。厨房からみると、オシャレな女性が焼き魚定食を美味しそうに食べておられるんです」。定食屋に女性客を! 大戸屋の向かう方向が、決まった。三森、34歳。1991年、バブルが終焉する頃でもある。

厨房に再登板した店主は、見事に女性の心をつかまえた。

リニューアルした店をみて、従業員たちまで声を失ったそうだ。いままでとは180度違う、もっといえばいままで見たことがない定食屋だったからである。この180度異なる「定食屋」が、いまの大戸屋の原型となる。三森も、店舗に再登板。自ら進んで厨房に立った。
「2年間は、外部の人間にはいっさい会いませんでした。時間がなかったんです。事務所にも行かず、ひたすら吉祥寺店にいました。私が商品開発をやっていたもんですから、その2年間は、吉祥寺でおすすめメニューなどを開発していました」。
社長自らが、店に立つ。外部の人間には会わなかったが、その分、従業員とはより多く接したはずだ。濃厚な時間が流れる。悩んでいたスタッフの質も、俄然上がり始める。お客様へのアンケートも実施した。そこから人気メニューとなる「カボチャ煮定食」や「ヒジキご飯」といったヘルシーなメニューが登場する。

定食屋の神髄。

気が付くと、吉祥寺店の客層は様変わりし、女性客が7〜8割を占めるようになったそうだ。1号店、2号店も同様にリニューアルし、いままで温めていたチェーン化の構想に向け、本格的な挑戦が始まった。この後、「大戸屋」は2001年にジャスダックに株式上場。2012年3月期で「大戸屋ごはん処」を国内直営134店舗/FC店120店舗、海外61店舗という巨大なチェーン店に育っていく。時系列で追ってみると、
2003年3月 外部法人によるフランチャイズ1号店出店
2005年1月 タイ第1号店を出店
2006年5月 台湾第1号店出店
2008年6月 インドネシア(ジャカルタ)に海外フランチャイズ第1号店出店
同年7月 香港第1号店を出店
2012年4月 ニューヨーク店がオープンする
となる。
早くから海外に目を付けたのは、松下幸之助氏の本を読んだことが理由だそうだ。日本の人口は減少する。ならば海外へ。日本が育った定食屋が、「おはし」と共に「おもてなしの文化」を海外に輸出する。この挑戦もまたおもしろい。だが、いくらチェーン化しても、三森は、大事な定食屋の心をなくしていない。セントラルキッチンを持たず店内調理にこだわるのも、その一つの表れだろう。だし汁ひとつ、店で取る。豚肉もブロックのまま店に来る。従来のチェーン店が効率化の先にあるものであるとすれば、対極に位置するやりかただ。だが、これぞ「定食屋」の神髄だ。

飲食という、仕事。

2012年4月、三森は、社長の座を譲り、会長職になった。54歳。まだまだ脂が乗っている年齢だ。高校を卒業し、野球から離れ、飲食という人生を歩み始めた三森が、たどり着いた一つの答えは、「定食屋」という昔ながらの業態へのこだわりと、その進化に努めた、三森自身の生き様のなかに凝縮されているのではないだろうか。だから、三森はこういう。
「飲食というのは、敗者復活ができる仕事なんです。過去がどうであれ、いまお客様が喜んでくだされば、それがすべての評価なんですから」。三森の目を通せば、飲食は我々が想像する以上におもしろい仕事に映っているに違いない。敬愛してやまない養父がみた風景と、たぶん、それはおなじだ。

思い出のアルバム
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中学生(野球少年)の頃 帝京高校野球部時代(後ろ右) 先代葬儀にて(21歳)
 
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