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第306回 株式会社ヨンナナプランニング  代表取締役社長 鈴木賢治氏
update 12/08/21
株式会社ヨンナナプランニング
鈴木賢治氏
株式会社ヨンナナプランニング  代表取締役社長 鈴木賢治氏
生年月日 1982年5月20日
プロフィール 福島県いわき市に生まれる。専修大学卒。イベント会社でのアルバイトをきっかけにイベント事業に進み、独立。2009年6月に、株式会社ヨンナナプランニングを設立。イベント事業をはじめ、人材キャスティング事業、セールスプロモーション事業、47都道府県ソフト活性化事業を展開している。
主な業態 「47DINING」
企業HP http://47planning.jp/

曾祖父の名を譲り受ける。

鈴木賢治は1982年5月20日に生まれた。父は、曾祖父とおなじ「けんじ」という名を息子に与える。「父は、祖父、つまり私の曾祖父が大好きだったそうです。曾祖父の名は『賢二』で私は一文字違いの『賢治』と命名されました。曾祖父は、一代で財を成し、名士と言われていました」。
一文字違いの「鈴木賢治」。彼ははたして曾祖父の名に恥じない事業家になれるのだろうか。ちなみに母方の祖父は重要無形文化財に認定されている。

借金にすべてが消え、製氷事業のみが残る。

鈴木が誕生したその年、鈴木家は莫大な借金を背負うことになる。祖父の時代に曾祖父が興した事業の多くがとん挫。次男の父が取り残され、すべての借金が押し寄せてきたのである。残った事業は、製氷事業のみ。父の奮闘がなければ名家は借金に押し潰されていたことだろう。むろん、これらは鈴木の知るところではない。父が行う製氷事業は、マイナスからスタートしたものの、借財を返金しながらも存続し、鈴木は4代目となるよう躾られた。「いずれ継ぐつもりだった」と鈴木もそう語っている。

バスケットボール、コート駆け回った少年時代。

むろん跡を継ぐといっても、少年時代の鈴木にとっては漠然としたものだったに違いない。関心はコートにあった。バスケットボールに専念し、中学も、高校も、バスケットボール1本だった。高校時代には、市大会で優勝も経験している。それでも、大学に上がると名選手が多く、鈴木はサークルに参加しただけ。ちなみに、大学は専修大学に進んでいる。

志とは何か。

「大学では、好きなことをさせてもらっていました。もともと4代目という指定席があったんで、父も、私も、社会勉強だと割り切っていたんです。しかし、国際公務員を目指す友人と出会い、初めての海外を経験し、自分を外から見た時、4代目の指定席は、座りがっての悪いものになる。「ジブンのチカラを試してみよう」。「公認会計士になる」と目標を定めた。「3年間の猶予を父からもらいました。もちろん仕送りも。でも、そのおカネは、結局、ゲームに飲み込まれていくだけでした」。

対戦格闘ゲーム、日本一。

有名な対戦格闘ゲームがある。実は高校時代にも、それにハマった。いわき市で一番になり、もはや敵はいない。興味を失くしていた。にもかかわらず、たまたま入ったゲームセンターで、数年ぶりにやってみるとコテンパンに打ちのめされた。負けられるか。「それは、それはひどい生活でした。有り金ぜんぶゲームにぶち込みます。600万円ぐらいはつぎ込みました。高校時代と違い、今度は世界が相手です。次から次に強い相手が現われて、ぜんぶ倒し終わって日本一になった時には、もう3年が経っていました」。公認会計士などなれるはずもない。3度受験したがすべて不合格。我に返ったとき「やっちまったぁ」とつぶやいた。

ゲームでは負けなし。事業を相手にどう戦う?

まだまだ子どもだった。なんとかなる。根拠もなく、そう思っていた。思えば、公認会計士の失敗は、生まれて初めての挫折だった。そんな鈴木に周りは寛容だった。大人たちの視点からみれば、青年になれない男の苦悩も応援すべき対象だったのだろうか。ただし、本人は、周りほど寛容にはなれない。「いわき市にもどるという話もあったのですが、ともかく自立しようと、アルバイトで経験していたイベントの仕事にしがみついたんです」。この時の決断が、鈴木をイベント事業に導いていく。派遣され、数字を上げ、誰より結果を残した。ゲームでつながった人脈が生きる。ベンチャーのイベント会社に役員待遇で迎え入れられ、数カ月で売上を2、3倍にもした。ゲームで知り合った対戦相手を集めてチーム鈴木をつくった。ゲームのなかで、鈴木はカリスマだった。「友人がフランスに行ったときです。フランス人から鈴木はどうしていると(笑)」。鈴木の名は世界中に広がっていた。だが、はたして、事業でもカリスマになれるのだろうか。

スタッフに背中を押され、独立。

「ベンチャー企業に1年間勤め、独立します。スタッフたちから『社長になって』といわれイベント事業部として独立したんです」。それが鈴木の第一歩。もともと企画力に長けていたのだろう。アイデアも豊富。思考の幅も広い。何をなすべきか。曽祖父から譲り受けた「けんじ」の名が、青年に大志を抱かせる。「日本をどうにかしたかった。ゲームを没頭しながらも、頭の片隅で考えていたことです。元気がない日本という国を元気にするにはどうしたらいいんだろう、と」。時代は2008年、リーマンショックで世界中の経済がマヒした年である。

「47プランニング」設立

話は少し脱線する。鈴木は小さい頃から食べずぎらいだったそうだ。「ニクと野菜の一部、きのこ類ですが、基本、それしか食べませんでした。漁港もあったのに、魚もほとんど食べない(笑)。でも、大学生になって、スーパーで刺身を買って食べたら、もう、不味くて、臭くて。それで改めて、福島の食材に対して、愛着がわくんです」。もともと福島が大好き。大学時代も月に1度は帰省していたそうだ。福島県、とくに地元いわき市の食材の良さを伝えたい、という思いがつよくなる。これが日本の元気再生と重なる。「地方を元気にしよう。そうすれば日本は元気になる。そうだ、地方を元気にする会社をつくろう」。2009年6月、鈴木は47都道府県を網羅するべく、47の都道府県を意味する「47」を冠につけた「47プランニング」を設立する。手始めは、むろん愛する故郷、福島だ。

「47DINING」

福島県の面積は広い。内陸部の会津方面には、雪が降るが、太平洋沿岸のいわき市には雪も降らないそうだ。いわき市の沖合は黒潮と親潮がぶつかり合う潮目である。そんな海で採れる魚がまずいわけはない。フルーツでも有名だ。桃や葡萄は日本でも有数の生産地である。だが、全国的に知られているとは言い難い。「もともと東京にも県のアンテナショップはあったんです。でも、もっと福島らしいもの、オリジナリティなものでなければいけないと思っていました。それで、移動販売車(ワゴン車)を思いつくんです」。2010年11月、移動販売車・キッチンカーが完成する。だが、許可が下りない。「調理場がないと許可できないと言われてしまうんです」。そんな時に、杉並区高井戸で、いい物件が出た。「店舗も借りて、そこで福島県の食材を食べてもらおうと」準備を進めました。これが、食を通じて地域の魅力を再発見してもらい、地域をもっと元気にする「47DINING」の始まり。1号店は、「47DINING福島 高井戸店」。だが、またひと波乱あった。

震災に飲み込まれてたまるか。

オープンを控えていた。その時、震災が起こる。2011年3月11日。実家の製氷会社は海沿いにある。「工場はもちろん使い物にはならなくなりましたが、幸い、父はなんとか高台に避難することができたらしいのです」。胸をなで下ろした。だが、スグに原発が爆発する。風評被害が、鈴木を襲う。「父の会社の倉庫には、震災以前に製造した氷が保管されていたのですが、まったく問題ないにも関わらず一切、出荷することができなかったんです」。鈴木は唇を噛む。むろん、準備を進めていた「47DINING福島」をどうするか、という難問にも直面する。しかし、鈴木はブレなかった。ここで営業を断念すれば、風評被害を認めることになるばかりか、福島を裏切ることになる、と思ったからだ。勝算はない。だが、いまやならければすべてを失うことになる。

500食を積んで、福島に向かう。

予定より少し遅れたが、2011年6月20日、福島の期待も背負い、「47DINING福島」がオープンする。すでに完成していたキッチンカーは、500食の弁当を積んで福島に向かった。福島を軸に鈴木の事業が回転を始める。「福島を訪れ、復興の思いはより一層強くなりました。イベント事業に携わってきた経験を活かすことはできないか。何かオレにできることはないか」。そんな思いがカタチになる。そう、この思いが「夜明け市場」をつくった。鈴木は、次のように語っている。「炊き出しは10万円の持ち出しになりました。継続的にはできません。そこで、商工会、商工会議所とタイアップし、生産者の立場に立ち復興の手助けができないかと考えたんです。もちろん、地元で再起をサポートしようと思っても、新たに店を出すと2重ローンになって難しいのはわかっていました。それでも、地元でなければ意味がない。そんな時に、とあるスナック街に8割の空き店舗があることを知ったんです。ゴーストタウンです。しかし、そこに福島再生のチャンスをみたんです」。

「夜明け市場」プロジェクトが動き出す。

もともと、市場の構想は鈴木の頭にあった。「高知県の『ひろめ市場』がモデルです」。ただ、今回の震災が起こっていなければ、この構想は、鈴木のなかにまだ眠ったままだったかもしれない。それが、実現する。「人間失敗もする。でも、それを次に生かすかどうかが大事なんです」。さまざまな失敗や震災を経て、鈴木は、強く、図太く、たくましい青年になった。この「夜明け市場」については、以下のURLを参照してもらおう。ちなみに地元のTV局にも取り上げられ、大反響を得る。この手の番組ではめずらしく再放送まで行われたそうだ。2011年「フード・アクション・ニッポンアワード」でも優秀賞を受賞している。<http://touhoku-yoake.jp/

地域再生に向け、47プランニングが動き出す。

「夜明け市場」というモデルは、地域再生という意味で、福島以外にも通用する。「夜明け」を待つ人たちはどこにもいるからだ。すでに、打診もされている。「食」を通じた地域の再生は、人の再生につながっていくことだろう。国内だけではなく、鈴木の目は海外にも向き始めた。「アメリカに日本のアンテナショップを作る」と鈴木は語る。日本の食文化の輸出がカギを握る。すでに布石を打ち始めておりシアトルに出店候補地も見つけた。年内にもショップをオープンする予定だ。日本人が気軽に海外に行ける仕組みをつくるため、アメリカの日本人街に日本食のキラーコンテンツを集結させ、日本人街の活性化を目指している。日本と海外とのつながりをデザインすることで、より多くの地域再生が可能との判断だろう。

オリジナルライスバーガーで仕掛ける。

世界に目を向ける一方で、福島再生の動きも加速している。6月30日にはサンフランシスコで開催される歌手の八神純子のチャリティーコンサートにライスバーガーの販売を行った。アメリカでの仕組みはライスバーガーの売上の一部が福島、東北に寄付される仕組みだ。それと同時に「夜明け市場」の各店では福島のお米を使用したオリジナルライスバーガーを作ってもらっている。10種類以上のライスバーガーの食べ歩きが出来る世界初の「ライスバーガーの聖地」を作り、日本中にライスバーガーのブームを起こす。いずれも、福島のお米や魚に対する風評被害を払拭し、消費を促すための仕掛けにほかならない。転んでもただでは起きないという言葉がある。鈴木の歩んできた道に遠回りはない。人を惹き付け周りが動く。鈴木の話を聞いて、それこそが本当の意味で、人の強さだと再確認した。福島の復興を祈る。

思い出のアルバム
 

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