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第316回 株式会社なんでんかんでん 代表取締役社長 川原ひろし氏
update 12/09/25
株式会社なんでんかんでん
川原ひろし氏
株式会社なんでんかんでん 代表取締役社長 川原ひろし氏
生年月日 1964年3月13日生
プロフィール 福岡県福岡市博多区に生まれる。幼少の頃から音楽学校に通い、管楽器などを演奏。声楽にも、チャレンジ。中学1年で歌手になると決め、大学は音大に進むと決意するが、受験失敗。浪人時、上京。偶然、知り合いに出会い、漫才コンビWケンジを紹介される。Wケンジに師事し、彼らの前座と司会を務めるようになる。22歳で、とんこつラーメン店の開業を決意し、1987年7月、23歳の時に世田谷に「なんでんかんでん」をオープン。超人気店に育てる。一方、「マネーの虎」などTV出演も多く、2012年の現在も人気バラエティに多数、出演している。タレントと実業家の、2つの顔を持つ強烈なキャラクターである。
主な業態 「なんでんかんでん」
企業HP http://nandenkanden.com/
てんこ盛り、といえば怒られてしまうだろうか。株式会社なんでんかんでん、代表取締役社長、川原ひろしの人生である。店名の「なんでんかんでん」は、博多弁で「なんでもかんでも」という意味らしい。川原の人生もまた、「なんでんかんでん」、つまり「なんでもかんでも」の人生のように思う。ではいつも通り、この強烈なキャラクターであり、希代の目立ちたがり屋、川原の破天荒な人生を追いかけてみよう。

ピアノとバイオリンとラーメンと。

1964年3月15日、川原は福岡市博多区の繁華街の一角に生まれた。祖父は明太子で有名な「ふくや」の主人である。父は貿易関係の会社をやり、母は専業主婦。母方は音楽など芸術的な家系で、川原も幼い頃から音楽学園に通っていた「ピアノやバイオリン。声楽もやっていたので喉が鍛えられました」。たしかに、美声である。「小学生の後半から高校までは毎日、歌っていました。毎日、歌っていると喉のパイプが太くなるんです」と川原。音量が豊かとは、このような声のことを言うのだろう。母は、音楽だけではなく教育にも熱心だったが、川原は、勉強にはあまり関心が持てなかったそうだ。代わりに子どもの頃から、音楽以外に興味があったものがある。ラーメンだ。小学生の頃から、ラーメン店には独り出かけていったそうだ。

ブラウン管の向こうに。

中学生になって、川原は3回転校している。2回目は実家の改築によるものだったが、1回目は大阪の親戚筋に預けられている。「中学受験をさせられたんです。2つ受けて、どちらも失敗。母親が怒ったんでしょうね。『そんなに勉強がキライなら一度、ほかの釜の飯を食ってこい!』ってことになって大阪の親戚に預けられたんです。もっとも1年で許さるんですが、この1年、いちばんビックリしたのはラーメンがとんこつじゃないことでした(笑)」。ラーメン好きの川原だったが、ラーメンにいくつもの種類があるとは知らなかった。ラーメンといえば「とんこつ」。これがセオリーだったのである。一方、この大阪時代、つまり中学1年生の時に、川原は「歌手になろうと決めた」と語っている。ちなみに、第13回日本レコード大賞新人賞を受賞した本郷直樹氏は、親戚筋にあたるそうだ。ブラウン管の向こうで歌う本郷氏に少なからず影響されたのではないだろうか。

マイ、ゴマ持参。

中学2年生になって、博多にもどった川原だったが、卒業時にまたひと波乱あった。「成績が良くないもんですから、母が怒って、また親戚に預けると脅すんです(笑)。それでもダメと分かったんでしょう。『おまえはラーメンばっかり食べているから、もうラーメン屋さんになりなさい』っていうんです。まさか、と思うでしょ。でも、ある時、担任に、『川原、おまえ進学辞めるんだって』と言われたんです。なんでも、『かぁちゃんから電話があって、ウチの息子はラーメン屋にするから』と言われたらしいんです。その日だったと思いますが、ウチに帰ると有名なラーメン屋の店主と寿司屋の店主が待っていて。『さぁ、いまからどちらの人についていくか選べ』と言われたんです。あの時はさすがにまずいと思いました。高校には進学するつもりでいましたから」。なんとか両親を説得し、高校に進学。中学ではギター、高校ではエレキギターを弾いて暮らした。ところで、母が「ラーメンばっかり食べている」と言った通り、高校になると川原のラーメン好きに拍車がかかる。「ある時、ラーメン屋に行ったら、すったゴマが置いてあったんです。アレにやられてしまったんです。だいたいトッピングに惹かれるタイプだったんでしょうね。もう、ゴマにハマりまして。店のゴマを全部かけちゃうもんだから、私が行くとゴマが隠されるようになって。それで、ウチからすったゴマを持って店に行くようになったんです」。マイ、ゴマ持参。余談だが、いまでは「マイ、青のり」というのまであるそうだ。ともかくゴマのおかげで、川原はラーメンの奥深さに更に惹かれる。とはいえラーメン屋になりたいとは、思わなかった。まだまだ川原にとって、格好悪いだけの職業だったからである。

お師匠は、Wケンジ。

音大を受験するも失敗する。高校から大学に進学する時の話である。「なぜ、音大かというと、高校3年になって思い出したようにピアノを演奏し始めたんです。昔は、ぜんぜん巧くならなかったのに、好きで始めるとスグに巧くなっていく、それがわかるんです。ただ、実技以外にも、フツウの科目があるでしょ。あれがダメだったんでしょう。受からなかったんです。でも、私は、東京に行きたくて。それで、浪人すると言って上京するんです。上京して、しばらくしたある時、居酒屋で友人といっしょに酒を飲んでいると、偶然、親戚と出会って『Wケンジが前座の歌手を探しているから』と紹介してもらうことになったんです。これが縁でWケンジに師事することになるんです」。最初は、話通り、前座の歌手としてステージに上がったこともあったが、Wケンジが探していたのは演歌歌手。ボタンが見事に、掛け違っていた。「最初のステージで、アヴェ・マリアや魔王、シャンソンを歌ったら師匠たちが怒りましてね。なんで演歌を歌わないで、へんてこりんな歌ばかり歌うんだと。それでわかるんです。Wケンジは演歌歌手を探していたんだと」。言われるまま演歌もやったが、オペラ調の演歌にしかならない。これはダメだと、司会に専念させられる。「おまえはしゃべりがうまいからと、最後には漫談家にさせられるんです。いまでいうピン芸人ですね」。この当時、Wケンジに師事しながら、大スターである春日八郎氏のステージの司会もした。作曲家として東芝レコードからデビューもした。ラーメン好きのWケンジと、「とんこつラーメンを食べたいな」と話していたりもした。

なんでんかんでん、開業。

上京してびっくりしたことが2つあると川原。一つは、うどんのつゆの黒さであり、もう一つはラーメンの違いだそうだ。大阪同様、東京にも本格的な「とんこつラーメン」はなかった。「師匠の宮城けんじも好きで、『オレやろうかな』っていったら、『やれ、やれ』って応援してくれたんです」。もっともこの当時、川原はシャンソンの歌手になろうと思っていたそうだ。だが、「ある人から、シャンソンを歌うのはもっとあとでいい。シャンソンを歌うには、人生の味がわかっていなければならないからと諭されるんです。そうかぁ、と思って。それでラーメンのことをなんとなく考えているでしょ。するとだんだん夢にまで出てくるようになって。夢のなかで行列ができているんです。何メートルも」。ついに決意して、いったん帰省する。「とんこつラーメン」を修得するためである。とはいえ、もっぱら実家の台所を占領しての修行である。「豚のガラを買ってきて、煮ます。これでいいと思うまでには、だいたい半年ぐらいかかった気がします」。友人も参加してくれることになった。川原は再度、上京し、店探しをスタートする。なかなかいい物件がみつからず、友人にもヤキモキさせたが、世田谷区の幹線道路「環七通り沿い」に破格の物件がみつかった。いよいよ、とんこつラーメン「なんでんかんでん」開業である。

1週間で宴は終了する。

とんこつは、豚の頭のガラを用いるといいだしが出るそうだ。ところが、とんこつ文化のない東京には頭のガラという部位がなかった。「持ち込まれたのは、そのまんまの豚の頭だったんです」と川原は苦笑する。処理がうまく行かず、臭いがきつくなりすぎた。レセプションにだしてみたが評判は良くない。オープンを延ばした。仕切り直し。今度は、ちゃんとした豚のガラを卸してもらった。条件は破格。そもそも東京では豚の頭のガラは使わなかったのである。このエピソードからも、当時、本格的な「とんこつラーメン」が流通していなかったことが分かる。さて、オープンしたものの賑わったのは最初の1週間だけ。のちに大人気となる「なんでんかんでん」も、きびしい都会の洗礼を受ける。「1週間は、半額にしていたんです。毎日、来てくださっていたお客様もいたんですが…」。半額期間が終わるとトンと顔をみせなくなった。潤沢な資金があったわけではない。「とんこつラーメン」が、ブレイクすることはないのだろうか。暗雲が見事に垂れ込める。

売り込み作戦、開始。

「なんでんかんでん」は、とんこつラーメン店である。ただし、店名が示す通り、ラーメンだけではなく、なんでもあり。アルコール類も良く出たそうだ。だが、ブレイクというにはまだまだの状態がつづいた。「きっかけは、From・Aというアルバイト雑誌に取り上げられたことです。たまに真夜中にいらっしゃるお客様がいて。その人がくる時に限って、ちょっとした行列だったんです。それで、ある時、『私はFrom・Aという雑誌の記事を書いているんですが、今度、この店を紹介してもいいですか?』と言われたんです。もっとも、アルバイト雑誌でしょ。期待はしていなかったんです。でも掲載されると反応があって。あ、これは凄いなと。それでコンビニで片っ端から雑誌を買ってきて、編集部に、ご案内のFAXを送るんです。無料券をいっぱい付けて。つまり売り込み作戦です。これが功を奏したんです。まだインターネットもない時代でしょ。雑誌に載るのはいまよりもずっと価値があったんです。それからTVにも取り上げてもらい、大ブレイクです。それまで3年かかりましたが、それまで以上のたいへんさを、まったく違う意味で経験します。なにしろ日商が100万円を超えるんです。最高、110万円。10坪に、外でも食べてもらっていたから、それも合わせて12〜3坪の店で月商2800万円になったこともありました」。通常でも、日商は60〜70万円にはなったそうだ。このブレイク状態まま、「『なんでんかんでん』の人気は10年、衰えなかった」という。

マネーの虎。

「なんでんかんでん」同様、川原もブレイクする。「マネーの虎」で火がついた。「マネーの虎」は、2001年10月から2004年3月まで、日本テレビで放送された人気テレビ番組で、一般の起業家が事業計画をプレゼンテーションし、投資家たる審査員らが出資の可否を決定するという内容だった。川原は、審査員の一人として、番組に出演した。川原がブラウン管に登場する度、「なんでんかんでん」も注目されることになる。ちなみに川原は、その後TVにひんぱんに登場するようになる。強烈なキャラクターで事業家とタレントを同時にこなしつづけた。だが、川原本人は「私はラーメン屋の店主とは、違うと思っていました。どこかで格好悪いと思っていたんです。もちろん、店にも毎日立ちました。TVにも出ます。でも、私が店に立つのはラーメン屋の店主だからじゃなく、広告塔としてだったんです」。

24年目にして、初めて、叫んだ。オレはラーメン屋の店主だ。

一時のブームは去ったが、「なんでんかんでん」は、それなりの業績を生み出しつづけた。だが、川原の頭に2号店、3号店という発想はなかった。親戚や友人たちに「やらせてくれ」と言われて、何店か、のれんわけで店をだした程度である。「オレは、ラーメン屋の店主ではない」、そんな気持ちの現われだ。だが、2011年3月に起こった震災で川原の考えはいっぺんする。当日、川原は仙台の港ちかくで開かれたイベントに参加し、被災した。まるで、日常と異なる風景だったという。予想外の津波が襲い、なんとか難を逃れたものの、寒空の下、アキ缶入れからビニールを取り出し、それに穴をあけ被って一夜を過ごした。まったくの闇、およそ700人の被災者が狭いフロアに寄り添っていた。翌日、潮は引いたが、惨状が浮かび上がった。結局、4日後、フジTVとおぼしきクルーたちに連れ出されたが、この4日間の出来事は、川原にとってひとつの疑問を残した。もしオレがいなくなったら、だれが「なんでんかんでん」を引きついでくれるのだろうか、という疑問。誰もいない、それが答えだった。急にいとおしくなった。オレは、「なんでんかんでん」の店主。そう、ラーメン屋の店主だ。開業から24年目にして、川原は、初めてそう認めたのである。

初めての、積極展開。

「今度、またTVで取り上げてもらうんだ」。そういって川原は目を細めた。海老名に新店を出すという。そのオープンまでがTVで取り上げられるというのである。この記事を書いている時には、すでにオープン済みだったこともあってグルメの口コミサイトを閲覧してみた。平均を超える人気だった。「これからはラーメン屋のオヤジとして、本格的に出店を開始します。FCも、直営も、まず年内7〜10店舗が目標です」とのことだ。上記のTVもすでに放映されているので、今ごろFC希望者の対応に追われていることだろう。一方、今後の展開では催眠術教室の展開も検討しているそうだ。ラーメン屋のオヤジでありながら、催眠術の先生とは。たしかに、「なんでんかんでん」な人生である。ところで、若くして断念したシャンソン。いま、川原が歌うとすれば、どんな人生の味を出してくれるのだろうか。そちらも、気になるところである。

思い出のアルバム
 

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