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第323回 三和実業株式会社 代表取締役社長 荻原 奨氏
update 12/10/16
三和実業株式会社
荻原 奨氏
三和実業株式会社 代表取締役社長 荻原 奨氏
生年月日 1958年2月18日
プロフィール 兵庫県神戸市に生まれる。関西学院大学商学部卒。1981年4月、UCC上島珈琲(株)に入社。営業として経験を積みながら、徐々に喫茶店の経営に関心を強める。1987年、三和実業に入社。役員や社長室長、そして副社長を歴任し、2010年10月に現職に就任する。現在は大阪外食産業協会副会長を務める一方で、「‘13食博覧会・大阪 The International Food Expo UTAGE 2013 IN OSAKA」の広報・行催事本部長も兼務。自社の発展とともに、関西の飲食産業の底上げをめざして精力的な活動を行っている。
主な業態 「カフェ 英國屋」「カフェ グランシェ」「カフェ デューク」ほか
企業HP http://www.cafe-eikokuya.jp/

開業医の家に生まれて

『カフェ英国屋』などの人気喫茶チェーンを展開する関西の老舗、三和実業株式会社。現在その舵取りにあたっているのが二代目の荻原奨社長だ。しかし、若き日の荻原は今のような未来などつゆほども予想していなかった。
神戸市内で整形外科病院を開業する父のもと、荻原はその男3人兄弟の次男として生を受けた。とくべつ厳格な家庭というわけではなく、兄弟はのびのびと育つ。そしていつからか、家族にはある共通の認識ができあがっていた。まずは長男が医師となり、機械好きの三男が医療設備関連を、そして次男の荻原が残る事務関連をそれぞれ受け持ち、兄弟で力を合わせて父が築いた病院を受け継ぎ守っていく。そんな将来の展望であった。
やがて大学へ進む時期になり、荻原は東京に出ようと目論んだ。「生れも育ちも神戸で、当時は大学を卒業するとやはり神戸の実家の病院で働くというイメージがあったんやね。だから大学くらいは神戸を離れて、楽しくやろうと思ってた」。東京は母の故郷であり、池袋に住む祖父母のもとを何度も訪れていた。にぎやかで華があると映ったのだ。
しかし東京の希望大学には合格しなかった。その後は一年間、祖父母の家に住み込み浪人生活を送ったが、二年目も惨敗。家族・親族の勧めで併願し合格していた関西学院大学へと進んだ。「結局憧れの東京は、浪人の灰色生活の1年だけ。さすがに二浪はお許しが出なくて、結局神戸に戻ってきたわけですわ」。愛嬌たっぷりの笑顔でそう話す荻原は、関西人らしさが溢れている。

グリーンの上で芽生えた恋

医学部へと進んで勉学に勤しんだ兄とは対照的に、荻原は関西学院大学に入学するとすぐさまゴルフ部に入部した。同大学ではアメリカンフットボールが盛んであるが、そのハードルは著しく高い。また野球やサッカーなどメジャースポーツのクラブにも中学や高校からやっている者が山ほどいる。遊び程度のスポーツ経験しかない荻原にとってハンディがないのがゴルフだった。
ちなみに当時のゴルフといえば、若くして賞金王に輝くプロは存在せず、今のような盛り上がりはない。大人が優雅に嗜むものという印象がまだ根強く、部員数も多くはなかった。学生には金銭的な負担が大きいが、ハードな運動と競争を強いられないことも好都合だったようである。
さっそく4月より練習を開始。日々の基礎トレーニングからはじまり、毎週土曜は練習場でクラブを握る。家庭教師と並行してキャディのアルバイトをしながら空いた日はコースを使わせてもらい、月に1回全員でラウンドする。その秋にはなんとか90前後で回れるほどに腕を上げた。
そんなゴルフ浸りの中で、荻原に後の運命を決定づける出会いが訪れる。一年後輩の女性部員だった。特に意識することもなく、熱く情熱的な感情でもない。ただ波長が合ったということか。ゴルフを通じて自然に二人は惹かれあい、気のおけない間柄になっていった。

病院運営をするはずだったのに…

大学4年の秋。プレイングマネージャーを務め、シングルプレイヤーにまで腕を上げたが、公式大会をすべて終えた荻原には就職という難問が急浮上していた。周囲はすでに内定を得ており、次は卒論へと意識を向けている学生が多かった中で、荻原の将来だけが白紙であった。
「そもそも実家の病院を継ぐという頭がありましたからね。ま、卒業していきなりは無理でも、親に薬品関係の会社かなにかを紹介してもらおうと。そして、しばらくしたら実家の病院に戻ろうと。それが当たり前で、どこかを紹介してくれるだろうと思って頼んでみたら…甘かったですわ」。
さすがに最初の就職先くらいは自分で決めなさい。そう言って両親は荻原を突き放したのだった。予想外の事態に大慌てである。どうにもこうにも仕方がなく、荻原は一年後輩のゴルフ部員、例の彼女に頼み込んだ。彼女の実家は喫茶チェーン『英国屋』を経営していた。当時ですでに15店舗ほどを展開しており、そこで荻原自身もアルバイトをしていたことから、取引先が多いことを承知の上で頼みこんだのだった。
ドタバタな展開の末、荻原はUCC上島珈琲の内定を得る。「なんともまぁ不細工な話ですが、これで春からはしっかり働こうと。現実の社会の中で汗を流しながらビジネスを学ぼうと。そしてそれを病院経営に活かそうと思いましたが、これがきっかけで遂に実家で働くことはなくなったんですわ」。

喫茶店オーナーたちとふれあい。そして結婚

UCC上島珈琲の当時の新入社員たちは、連携や団結を尊重するようにとの意図から、会社の独身寮に詰め込まれた。そして朝が来ると、それぞれの担当エリアへ向かい、喫茶店へコーヒー豆を納入し、新しい取引先を求めて街中を練り歩く。
荻原はまず広島の拠点に配属され、これらを行っていた。「なにかこう、最初のイメージとはまったく違っていました。単に豆を売る、ではない。行った先の喫茶店が忙しければ、それこそ皿を洗い、野菜を切って手伝う。それこそ泥まみれの作業の果てに、『UCCさんは、荻原君は、ここまでしてくれるのか』となり、信頼してもらってようやく取引が増えるんですよ」。
1年余りが経ち、今度は重要開拓地区であった兵庫県の加古川に異動。ここでも精力的に泥まみれになるうちに、荻原にはある変化が生じた。様々な取引先にふれて喫茶店経営への興味が膨らんでいったのだ。「マスターのキャラクターやメニュー、立地や内装。どうすれば儲かる喫茶店ができるのか。泥まみれのサービスを通して、徐々にそうなっていったわけです」。
そんな中、遠距離状態にあった彼女との仲も、ゆっくりと、しかし順調に育っていた。「時々それとなくは聞かされていましたが、その頃、彼女の父が跡取りのことを真剣に考え出したと。だから一度会ってほしいと言われてね。私は次男だし、義父も関学。仕事はそれなりでもゴルフは真面目に打ち込んだと。まずはそのへんで合格だったようです」。それからほどなく、荻原は三和実業創業社長の長女を妻に迎えた。これは余談だが、創業社長で現会長の松本孝氏は「商売で大事なのは人づきあいだ」とする。愛嬌があり自然と人が集まってくる、そんな荻原の人柄を松本氏も見抜いていたのであろう。

会社経営に向けた、長い長い助走

結婚したが、荻原は直ちに三和実業に移ることはしなかった。「選択肢としてはありましたが、もっと勉強したいと断わったんですよ。そしたら義父が、当時のUCCの会長に『せめて大阪に配属させてくれ』と頼んだそうです。ある日会長が私のところにやってきたと思うと、『お前はどうなんだ?』と。だから言いました。『それならいっそ最後に東京で勉強させてください』って」。
それから三年間。荻原は東京と神戸本社の勤務で総仕上げを行った。これを持って、次のステージに向かう。それは、もう神戸の実家にある整形外科病院ではなかった。喫茶チェーンのさらなる成長戦略の中にある三和実業。その重責を担うポスト次期社長という高いステージに向かうことだった。 30歳。晴れて三和実業に入社すると、まずは各店舗でホールサービスや厨房業務をこなす店巡りの旅に出た。現場至上主義である。そしてもう一つの理由があった。『社長の娘婿で次期社長』『逆玉(の輿)』といった先入観を払拭するためだ。そのため店舗での業務に精を出し、さらに現場とのコミュニケーションの深化に努めた。
それから20年あまり。松本氏の社長交代の打診をそのたびに断わり続け、荻原はひたむきに経営を学び続けた。「それまではスポーツ紙に煙草、おじさんの溜まり場という印象が強かった。しかしヨーロッパ風の家具でもてなしの空間を創り、女性客の取り込みに成功した『英國屋』は喫茶店の新しい姿を提示した。ゼロからそんな革命を果たした人物が傍にいるんだから、もっと学ばせてもらおうと。中途半端に社長になったらあかんと思ってね」。ようやく社長交代を承諾した荻原は、もう52歳になっていた。

次を切り開く力

社長就任直後、荻原はこんなことを言っている。「予想以上の大きなプレッシャーです。今までは数年先のことを考えていればよかったが、これからは20年、30年先を睨み決断をしなくちゃいけない。さらに価値観の変化が速く大変な時代ですけど、だからこそ新しいアイデアで勝負していかなければダメ。伝統も守りながら、世代や用途に合わせたいろいろなヴィジョンも打ち出していきたい」。
若き日の荻原を、成り行き任せと意地悪く見る読者がいるかもしれない。しかしゴルフは向上心を持って真摯に取り組んできた。荻原自身ゴルフで鍛えられ、また喫茶店主やデパート担当者など、数々の人の信頼を得るうえでは得意のゴルフも武器とした。そしてなにより、社会人以降の荻原は喫茶店に対しひたすら一途であろう。上の言葉には、よく表れているはずだ。
昨今の若い人たちには欲やハングリー精神がないと、しきりに言われている。荻原もまた若い従業員たちに言う。「なんでもいいから一番になれってね。笑顔でも、おもてなしでも、アイデアでも。それこそゴルフでもいい。『これならナンバーワンや』というものを持つことが大事。それを武器にその人らしく成長したらいい。そんな集合体の力が店を“地域で一番の喫茶店”にするんやと思います」。
現在、大阪を中心に東京・名古屋などで44店舗を展開する三和実業。激変する時代の中で、同社は我々にどんな驚きを与えてくれるのだろうか。そこで荻原はいかに手腕を振るうのだろうか。新しいステージに踏み出した荻原の、そして三和実業のさらなるパワーには大いに期待したい。

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