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第329回 築地海宝館グループ 株式会社山銀 代表取締役会長 山田孝之氏
update 12/11/06
株式会社山銀
山田孝之氏
築地海宝館グループ 株式会社山銀 代表取締役会長 山田孝之氏
生年月日 1957年8月22日
プロフィール 宮城県女川町生まれ。料理屋を営む家の長男として生まれ、小学生時代から出前などを手伝い、やがて板前で独立を目指すようになる。私立古川祇園寺高校(現大崎中央高校)を卒業後、上京して株式会社天狗(現テンアライド)に入社。さらに居酒屋酔虎伝を経て、27歳で念願の店を持ち独立。現在は食材の加工販売を行う(株)山銀、『築地海宝館』などの店舗運営を担う(有)JBSからなるグループを束ねている。また築地流通事業組合理事長や人事総合情報研究会顧問も務め、築地の活性化や人材育成にも尽力。ねじりハチマキがトレードマークの、義理堅く人情深い人物である。
主な業態 「築地海宝館本店」「築地勝関寿司総本店」「築地海鮮屋台」「築地めし丸本店」「魚河岸酒場 <ザ・築地>」など
企業HP http://www.kaiho-kan.com/
人事総合情報研究会 http://www.jskjinji.jp/

築地の発展と女川の復興、2つの使命を担う男

東京・築地の(株)山銀は、水産事業部『山銀水産』や流通事業部『ザ・築地グルメ』、築地場外加工工場などを展開している企業だ。『海宝館 勝鬨寿し総本店』『穴子丼めし丸本店』の屋号にピンと来る読者も多いだろう。一連の店もこの傘下にある。
そんな同社を率いるのが会長の山田孝之だ。気風がよく、張りのある声と相まって、リーダーにはもってこいの人物である。実際に学生時代は番長だったそうだが、そんな山田は現在約70社からなる築地流通事業協同組合の理事長にも推されており、築地のさらなる活性化にその手腕が期待されている。
「漁港と市場、その需給や流通の改善には、加工品の調整や新商品の開発が重要だと思います。そこでいま私は最新の設備を開発中です。工夫すれば双方にさらなる収益が見込めますから」。そう話す山田は、宮城の水産業の再建とともに、宮城と築地の連携の強化に取り組んでいる。
震災で壊滅状態に陥った地区の一つ、女川漁港が山田の生れ故郷だ。山田は築地流通事業協同組合の協力を得て東北復興支援協議会を設立。同会長として政府・水産庁から復興予算を獲得した。それを用いて女川にはホタテ養殖場と加工場を、気仙沼にも水産加工場を再建中だ。「多くの命が奪われた。私の実家もすごした町もすべて流失した。この活動は、天から与えられた使命かもしれません」。

父の大きな背中

山田の実家は、宮城県女川町で料理店を営んでいた。山田はその長男として生れる。勇ましい母と姉、そして無口で厳格な父という家族だった。「幼い頃は体が弱かったのですが、ケンカで負けて帰ってくるなど論外。父には睨まれ、母には勝つまで帰ってくるなとけしかけられ、姉が相手にお礼参り(笑)。昔はそんな家が多かったですが、私もそれで鍛えられました」と笑う。
また、躾においても同様だった。「父からの小学校の入学祝いが、店名が描かれた岡持ちと自転車。その頃から家の料理店を手伝っていました。働かざるもの食うべからずで、手伝わないとご飯も食べさせてもらえません」というほどの徹底ぶりだった。
やがて高校に進むと、その身体能力の高さからバレーボール部にスカウトされ、インターハイにも出場する。幼児期から鍛えられ、その頃は腕っぷしも相当で悪さもかなりやったというが、練習や店の手伝いだけは欠かしたことがなかった。
「父がすべてを決め、家族はそれに従う。私は父には常に敬語でした」というほど父は絶対的な存在。そんな父に、山田は生涯で一度だけ逆らったことがある。「将来家業を継ぐように、高校を出れば修行に出される段取りでした。その店まで決められていましたが、『やはり自分は東京に出ます』と」。そう返した山田は勘当され、東京で一人多難を乗り越えていくことになる。辛くても歯を食いしばり、真っ直ぐ進んだ。そんな時はいつも、山田は父の顔を思い浮かべていたはずだ。

上京して間もなく掴んだNo,1

1975年。高校を卒業すると、山田は居酒屋チェーンの天狗(現テンアライド)に入社する。当時の同社は、飯田保社長の号令によって新入社員たちの調理師免許の取得を奨励していた。
父譲りの実直さで、仕事には手を抜かない山田である。同期がみるみる脱落し調理師免許を諦める中、早朝から総武線平井駅近くの調理師学校に通い、夕方からは品川の配属店で働き、三鷹の寮に戻るのは深夜という生活を1年半続けた。調理師免許を取得したのは山田ただ一人だった。
「そもそも若かったからできましたが、将来は独立して店を持つという目標がありましたから、当時は人の倍以上がんばるのが当たり前という意識でした」。山田は入社からわずか1年でマネージャーに抜擢。翌年の新入社員の指導は、先輩たちを差し置いて山田が行ったほどである。
日に日にその存在感を増し、当時の飯田社長からは一目も二目も置かれる。いつしか山田は、天狗の若手社員No,1と認められていく。「その頃ですが、社内でやり手の店長が独立して新橋に居酒屋を開業するから手伝って欲しいという話を受けて、3年間お世話になった天狗を去りました」。ハタチを過ぎたばかりの山田だったが、そこでは役員のポジションも用意されていた。

天狗になっていた山田を襲った不運

すでに調理も接客も万能にこなしていた山田は、次の6年間を居酒屋酔虎伝での修行に費やした。新橋の1号店を皮切りに、着々と酔虎伝は店舗を拡大していく。そこでは視野を広げ、専務として企業経営そのものを身につけた。それと同時に、貫禄も身につけはじめる。
やがて社長との方針の違いから酔虎伝を離れると、27歳で山田は独立を果たす。手はじめに、北区東十条にアイスクリームとピザのテイクアウト店を出店。しかし、どうもしっくりこない。そこではじめたのが葛飾区立石と千葉県松戸市の居酒屋だった。居酒屋なら山田の独壇場である。水を得た魚の如く、店は勢いに乗っていった。
さらに事業を広げた山田は、次に松戸の工業団地に弁当工場を建設。松戸市役所や周辺の鎌ケ谷市役所からの受注を獲得し、昼食用弁当の宅配ビジネスを拡大させていった。「役所だから手堅く、しかも掛売りじゃなく現金商売。いい時は1日に5000個を販売して、もう上々でした。ですが偉くなった気になって、一方で仕入れ業者の人たちにかなり横柄な態度をとったりしてさ。本当にバカでしたね」。そう、栄華は続かなかったのである。
突然のO−157騒動の広がりによって、山田の弁当事業は急速に弾け飛んでしまった。食中毒拡大の防止策の一環として、役所が宅配弁当の利用を全面禁止したのである。「役所ではそうするほかなかったのかもしれませんが、私の所からO−157が出たわけじゃないから、本当に悔しかったですよ」。今でも当時を振り返ると表情が曇る。山田は破産に追い込まれたのだった。

どん底からの再起

『失敗をどんどんしよう。俺も若い頃、経営していた店を潰した経験がある。でも、その失敗があったからこそ大きく成長することができたし、今の自分がある。若い時の失敗は一生の財産だ』。後に山田は、飲食業界を目指す若者たちにそんなメッセージを発したことがある。
どん底に墜ちた境地は、実際に体験した者にしかわからない。そして、再び這い上がっていくその境地もまた同様である。容易でないことは確かだ。しかし、山田はそれをやってのけた。「独りでいると死を考える。そんな時もありました。しかし妻や昔からの仲間、多くの人たちの支えや励ましのおかげで、もう一度気力を奮い起こすことができたんですね」。
俯くことをやめた山田は、築地6丁目にわずか4坪、たった5席の店を開いた。初心に帰って店に立ち、ねじりハチマキで気を引き締め、訪れる客に自慢の腕でもてなす。客たちは皆、目を丸くした。特大の穴子の天ぷらが3本ものったその穴子丼の噂は瞬く間に広がり、店には大行列ができた。それが復活の狼煙の第一弾、『めし丸本店』である。
その後も『海宝館 勝鬨寿司総本店』『海鮮屋台』『ザ・築地』と快進撃が続き、現在の姿となった。いずれの店も日本最大の魚市場・築地の中で、ひときわ賑わいを見せている。料理屋に生れ、物心がつく前から料理する父の姿を見て、気づけば自らも飲食の世界で腕と精神を鍛えてきた。この復活劇からも間違いなく、山田の天職は飲食だったのであろう。店には多くの客だけでなく、山田を慕う昔の仲間も集まり、再び厨房や客席で奮闘しているという。

飲食人にとって、経営者意識は不可欠

各店を軌道に乗せた山田だが、実は3年前の2009年に引退を表明している。実際、店には約半年間出なかったという。しかしその間、売上が下降に転じたことから、再びカムバックしたのだ。「18歳から無欠勤で働き続けてきたから、そろそろゆっくりしたいと言って。店は皆に任せるから、自分は食品加工販売の方に専念しようと思いました。でもまだ無理でしたね。皆の経営意識が足りなかった」と、当時を振り返った。
料理人は、そのアイデアと腕前で客を唸らせることに至福に感じる。それが大きく膨らんでいくことで、料理人は独り立ちしていくことになるのだ。しかし組織化・チェーン化すると、途端に本来の喜びや目的・理想を忘れ機械的に働くだけの者が多くなってしまう。そのことを確認するためにも、山田は引退表明してみせたのかもしれない。
「何の理想もなく適当に生きていると、結局のところ何をやっても成長できません。逆に、理想さえ常に持っていれば、早く成長します。特に飲食業では家庭環境や学歴に関係なく、どんどん上昇していけますから。誰もが経営者になるという理想や目標を持ち、どんどんと新しいものや喜ばれるものを世に出してほしいと思います」。
同社では今、山田が太鼓判を押せる者たちが出てきたという。そこで彼らには、早々に暖簾わけで店を譲るそうだ。「経営者になって、ようやく飲食業の真の醍醐味を味わえる。これからさらに羽ばたいてほしい」。山田自身はどうなのだろうか。「私は東北復興支援と築地活性にもっと力を注ぎたいです」。そう。山田には、山田だからこそ挑むべき、さらに大きな理想と新しい目標ができたのだ。

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