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第335回 株式会社タン企画 代表取締役 譚彦彬(たん ひこあき)氏
update 12/11/27
株式会社タン企画
譚彦彬氏
株式会社タン企画 代表取締役 譚彦彬(たん ひこあき)氏
※帰化により、本名は岩渕彦彬氏
生年月日 1943年7月30日
プロフィール 横浜・中華街に生まれる。16才から料理の修行をはじめ、新橋『中国飯店』、芝『留園』、仙台ホテル『梅花園』などの副料理長を歴任。その後、京王プラザホテル『南園』の副料理長、ホテルエドモント『廣州』で料理長を務め、1996年より『赤坂璃宮』オーナーシェフとなる。テレビ出演や調理専門校での講師、厨房機器の開発・監修など、その経験と技術を活かした活動も行っている。
主な業態 「広東名菜 赤坂璃宮」
企業HP http://www.rikyu.jp/

名店の味と看板を託された男

名シェフ同士による料理対決番組が、お茶の間を沸かしたことを覚えている人は多いだろう。中でも中華のシェフ周富徳氏は、人気を博していた。当時、周氏が総料理長を務めていた東京・赤坂の『璃宮』も、その追い風を受けて多くの客で賑わっていたことは記憶に新しい。
しかしテレビの仕事が忙しくなるにつれて、同店では総料理長が不在のまま開店するという異常状態が日常化するようになった。異常事態はそのまま客足の減少へとつながり、すぐさま非常事態へとなっていった。
そんな同店の救世主として白羽の矢が立ったのが、今回スポットを当てる譚彦彬社長である。譚は、周氏とは竹馬の友といった間柄にあり、若い頃から互いに料理修行で切磋琢磨しあった。また、当時はホテルエドモント『廣州』の料理長を務めていた譚の料理における腕前と評価も、すでに相当高かった。まさに譚しかいないという状況だったのだ。
「当時の璃宮のオーナーに頼まれて、テレビを控えて店に入るよう周さんを説得しに行ったり、周さんのいない厨房を手伝ったり。そんなことがあって、璃宮との関わりが増えていったね」と笑う。それでも周氏は璃宮に戻ることはなく、ついにはオーナーも離れた。そんな名店の後を託され、オーナーシェフとして『赤坂璃宮』をスタートさせたのが譚である。

在日中国人二世として、生を享ける

父は16才で中国・広東省から日本へ渡り、横浜に辿りついた。また、母も同省の出身である。父と20才年が離れた母は、後に日本へやってきた。そして父40才、母20才の時に、譚が生まれた。
父は横須賀で小さなラーメン屋を営む、おとなしい男だった。その代わりに母が厳しかった。「母親には、とにかく怒られていたね。勉強が嫌いでまったくしなかったからね」とニコリ。それには、2才上の兄が非常に優秀だったということもある。「同じものを食べて、同じ生活をして、同じ小遣いをもらって、なんでこうも違うのかねと言いながら母親が呆れていたね。子供心に、間にもう一人兄弟がいたらよかったのにって思ったよ」と、さらに笑いを誘う。
余談になるが、譚の兄は勤勉な人物で、大学卒業後は橋梁の設計・架設工事を行う土木建設業界の大手に就職。その道を全うし、功績を残したという。戦後の高度経済成長期とはいえ、在日中国人といえば中華料理店くらいしか働き口がない。そんな閉鎖的だった時代で、かなり異例の存在なのである。
一方の譚はといえば、幼い頃から元気のかたまりだった。横浜・中華街の華僑コミュニティの中でも、ひときわ腕白で威勢がいい。母の目を盗んでは家を飛び出し、仲間を引き連れて通りを練り歩いていたのだった。

高校を辞めて、料理修業へ

小学校、中学校は地元の中国人学校に通った譚だが、高校は東京にある一般の私立校へと進んだ。非常に厳しく激しい体罰が多かった小中とくらべると、本人曰く天国のように自由でのびのびとすごせる校風であった。さっそく地が出たという。「もう楽しくてさ、遊びすぎた。ちょっとヤンチャがすぎたな」。
どのような高校生活を送っていたかはご想像にお任せするとして、2年に進級する前に、譚は学校側から転校を促された。「もうそこの学校ではあなたの面倒を見切れませんってことだった。でもこっちにすれば転校なんて面倒だったしね。そうしたら親父ももういいから辞めて働けって。『コックをやれ』って言ったわけです」。
しかし、父は息子を自分の店で働かせることはなかった。「当時の中華街は、単なる華僑のコミュニティという感じ。親父の料理は我流で、広東料理ではなく横浜中華街料理でしたし、中華街自体どこもそんな感じだった。中華街に料理の職人がいなかった時代。だからちゃんとした職人のもとで修行をさせようとしたんだね」。
また、父からは日本に来てからの苦労話はいっさい聞かされなかったという。しかしそこには大変なご苦労もあったに違いない。だからこそ、その自立と成長を願って息子を突き放したのでもあろう。とにかく、そんな経緯から譚少年は東京・新橋の『中国飯店』で料理の修業をはじめることになったのである。

調理師から、副料理長。そして料理長へ

当時の中国飯店には、現在の広東料理界を支える人材がたくさん働いていた。ANAインターコンチネンタルホテル東京の麥燦文氏、ホテルオークラの陳龍誠氏、グランドプリンスホテル高輪の潘継祖氏など。また譚より2年遅れでは、幼稚園時代からの幼なじみである周富徳氏もここで料理の第一歩を踏み出している。
誰もが下積みであり、まだ頭角を現す前だったとはいえ、そうそうたる顔ぶれが並ぶ厨房。互いに刺激しあいながら、そして互いに支えあいながら、その中で譚は腕を磨いていく。包丁や鍋を正確にさばき、それらを早く繋げて多くの客に対応する。そして、目の前にある料理の味を瞬時に見極めなければならない。いわば戦場だ。「怒鳴られるだけじゃすまない。料理長や先輩たちには、ぶん殴られたり蹴飛ばされたりもしたね。でも、いつの間にか料理が好きになって上達したいと思っていたから、痛いと感じたことはなかったね」。
また、後に譚はこんなことも言っている。「当たり前だが素材は自然のもので、いつでも同じとは限らない。素材の状態によっては味付けだけでなく調理法を変えることもある。料理は同じメニューでも、実は年中微妙にいじるのです。もちろんお客様にはわからないようにやる必要があります」。基本とともに、そんな臨機応変な応用を学んだ。
ここで学んでいたのは広東料理であった。しかし仕事以外では、仲間たちと和食も洋食も、なんでも食べに行ったという。「料理人だから、料理にはたくさん興味を持たないとダメだね。そうやってセンスは磨かれていくものだからね」というのが譚の持論だ。そうやって、当時の面々がここから羽ばたいていった。譚自身もその後、仙台ホテル『梅花園』で達人と謳われた余東照氏に師事して8年間副料理長を務める。さらに名古屋と奈良へ赴き、東京に戻ると京王プラザホテル『南園』、そしてホテルエドモント『廣州』では料理長に就任した。

熱狂の渦の中でも、流されず見失わず

1990年代に入り、料理界には大きな注目が集まりはじめる。その火付け役になったのが『浅草橋ヤング洋品店』(テレビ東京系)、『わいど!ウオッチャー』(TBS系)、『たほいや』(フジテレビ系)などのテレビ番組だ。
それら一連の中心にいたのが、幼なじみであり料理のライバルでもあった周富徳氏だった。周氏の物腰やわらかな人柄は、番組の優れた企画力と相まって、大いに受けた。一躍全国区の人気者となっていく。特に浅草橋ヤング洋品店では『中華大戦争』という企画で人気をさらい、多くの中華シェフたちを巻き込んでいった。譚もその中の重要な位置を占める一人であった。
「ちょうどバブルが崩壊した頃で、料理人の間でも不安が広がっていたけど、番組のおかげで周さんの店も私のいたホテルエドモントの『廣州』もお客さんが多かった。だからよかったね、なんて話していると今度は『料理の鉄人』がはじまった。周さんはこれで本格的にスターになっていったな。ほかの人は制限時間いっぱいまで料理をつくっていたけど、周さんは残り少ない時間までじっと待ちながら、最後にできたて熱々の料理をつくって勝ったりして。そんなことがあって凄いブームになっていった。誰もが浮かれていたね」。
そんな大きな渦の中で、周氏や番組関係者からは、譚にも出演の声がかかっていたそうだ。周氏のサポートのために収録の場に居合わせたことはある。しかし自らが鉄人として出演することについては、譚は首を縦に振らなかった。それは自分の料理が本質とかけ離れてブームとなるのを恐れたのかもしれないし、『廣州』の現場を疎かにしたくなかったからかもしれない。

裸の王様にならないように

1996年。看板シェフの周氏とオーナーが去った『璃宮』が、オーナーシェフ譚による『赤坂璃宮』として生まれ変わりスタートした。「本当は店名を変えたかったけど、いろんな制約から璃宮は残して、そこに赤坂を小さく付け足したんだよ」。そう言って笑うが、この点は譚にとってやや不本意だったのであろう。そうしてできたのが、次の銀座店である。
「赤坂はすべて引き継いだもので、調度品から料理まですべて昔ながらの中華料理店だった。そういう意味では、銀座店が本当の自分の考えが形になった店。内装でも黒や茶を基調にして、洗練されたものにした。赤坂はカメにはいった紹興酒が中心だけど、銀座では口が肥えているお客さんが多いから、ワインにこだわってソムリエも入れているんだよね」と胸を張る。
間もなく70になる譚であるが、今でも可能な限り現場に立つ一方で、また新たな食材を発掘すべく国内外を飛び回っているという。「近年は金融不安や地震・事故があって少し厳しい時があったね。だけど、こんな時だからこそ料理やサービスを見直す必要があるんだよ」という譚は、若々しく疲れた素振りなどまったく見当たらない。
「以前からそうだけど、お客様の反応は常に意識している。絶対に裸の王様にはなりたくないので、お客様の声は必ずその日のうちに全部のスタッフの耳に届くように徹底しているんだよ」と、ますます元気いっぱいだ。今なお料理が好きで仕方がない。それが口にしなくとも充分に感じることができる。譚はこれからも、その生涯を料理人として貫き続けていくのだろう。

思い出のアルバム
思い出のアルバム1 思い出のアルバム2 思い出のアルバム3
1975年名古屋御園飯店調理場 1980年京王プラザホテル南園 林料理長と 1982年京王プラザ調理場
思い出のアルバム4 思い出のアルバム5 思い出のアルバム6
1991年ホテルエドモント廣州 1996年赤坂璃宮オープン 道場さんと 2004年飛鳥U
 

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