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第337回 株式会社渡辺ハゲ天 代表取締役社長 渡辺 徹氏
update 12/12/04
株式会社渡辺ハゲ天
渡辺 徹氏
株式会社渡辺ハゲ天 代表取締役社長 渡辺 徹氏
生年月日 1960年9月22日
プロフィール 祖父の代から続く老舗「天ぷら店」の3代目店主。出身は東京都渋谷区。慶應大学付属の中・高から大学に進学。法律学を専攻するが、弁護士を目指すことなくメーカーを希望し、日立造船に就職。海外出張をきっかけに語学が好きになり、4年後、米国、ジョージ・ワシントン大学に2年間、MBA留学をする。帰国後、家業の「渡辺ハゲ天」に入社。2009年、父の跡を継ぎ社長に就任。現在に至る。
主な業態 「渡辺ハゲ天」
企業HP http://www.hageten.com/

奇天烈なネーミング。

インパクトがあるといえばいいのだろうか。店名の「ハゲ天」は、きわめてユニーク。ただ一方で、老舗だけに「ハゲ」には天ぷらにまつわる何か深い意味があるのではないかと思ってしまう。
渡辺に聞くと、正解は、「言葉通りの意味」だと言って笑う。
「ハゲ天は、祖父が結婚し、上野の旅館を継いだことに始まります。その旅館は震災で潰れてしまいました。祖父と祖母は、2人で力を合わせて九段で天ぷらの店を始めます。店名は『多か良』でした。でも、なかなか上手くいきません。かつて勤務していた生命保険会社の専務のお力を借り、銀座に移転するのですが、その時、専務の薦めで『ハゲ天』という名称にしたということです。祖父は髪が薄い。専務に薦められた時は複雑な気分だったんじゃないでしょうか」。
ところが専務が睨んだ通り、この名称がうけた。天ぷらには今以上に高価なイメージがあったが、「ハゲ天」という愛称で親しまれることによって、顧客との距離は縮んでいく。一見、奇天烈なネーミングが、功を奏した好例である。
この「ハゲ天」は渡辺の父が30歳の時に、祖父から父へと経営がバトンタッチされている。むろん、名称はそのまま残した。

中・高から慶應ボーイ。

渡辺が生まれたのは1960年。昭和35年である。戦後復興の足音が高らかに鳴り響く時代。数年後には、東京オリンピックも開催されているから、東京は経済の発展を一手に享受していたことだろう。とはいえ、いまと比較すれば大都市というイメージにはほど遠かったのでないか。多くのひとたちが職を求め、東京に足を踏み入れたのもこの時である。そんななか名店の3代目として生まれた渡辺は何不自由のない生活を送った。
「小学生の頃からテストの点数は良かった。中学受験し、慶應大学の付属で中高一貫の学校に進みました。将来については深く考えてもいなかった。父からもやりたいことをやれ、と言われていましたから」。
大学時代には、理工学科を専攻しエンジニアをめざしていた父である。
祖父が体調を崩したことで、2代目店主となるのだが、その分、息子には好きな道を進ませてやりたいと思われていたのではないだろうか。
中学から高校に進んだ渡辺は、落第の危機にも遭遇するが、無事、大学に進学する。

アラブ首長国連邦へ。

高校時代には1年間だけ文芸部にいたこともある。小説を書いたこともあるそうだ。芝居や映画に興味を持ち、バイトもはじめて経験している。大学では「法律の勉強会」なるサークルに入り、法律を勉強したが、弁護士には興味が持てなかった。メーカーを志望し、大阪に本社を構える日立造船に就職することになる。
ちなみに、「法律の勉強会」の出身者にはそうそうたるメンバーがおり、自民党の石破茂幹事長もその一人とのことだ。一方、就職した日立造船は、造船会社というイメージが強いが、現在の事業は、環境装置、プラント・機械・プロセス機器・インフラ・精密機械等の設計、製作等となっている。日本国内にとどまらず海外にも多くの拠点を有するグローバルカンパニーだ。
渡辺も入社2年目に、アラブ首長国連邦(UAE)への海外出張を命じられた。これが一つの転機となった。

MBA留学。

「もともと英語は苦手な科目の一つでした。ところが、UAEで4ヵ月ですが、生活をすることになって、苦手だった英語が好きになっていくんです。英語があれば、世界のいろいろな人たちとコミュニケーションが取れるからです」。視野も一気に広がった。4年間、日立造船で勤務したのち、米国のビジネススクール「ジョージ・ワシントン大学」に2年間、MBA留学したのも、この4ヵ月の海外出張がきっかけだった。
その頃、「ハゲ天」は、20店舗まで拡大。経済がバブルに向かってひた走るなか、飲食店の業績も、雲までいくかのように伸びていた頃である。
2年間の留学を終えた渡辺は、家業の「ハゲ天」に入社する。与えられたのは、「業務推進室 室長」という肩書だった。「もっとも長と言っても部下はゼロだった」と渡辺。アルバイト・パートを含め従業員は400名いたそうだ。アメリカ帰りの若社長は、うまくとけ込めたのだろうか。「バブル」が牙をむき始めた頃だ。

店舗拡大の末に。

バブルのツケを多く払うことになった人は、バブルの頃に大きな投資を行っていた人たちである。もっとも、一般市民もまたさまざまなカタチで、ツケの払いに参加させられるのだが。それでも、当時何億、何十億という負債を抱えた経営者に比べ被害は少ない。当時、好調だった「ハゲ天」。バブルに踊らされなかったのだろうか。
「たしかに、いろんな話はいただきました。銀座に土地を買わないか、というのもありました。でも、父は、そういうことにはあまり興味がなかったようです。FCにも関心を示さない人でした」。
渡辺もまた単なる金儲けには、興味・関心を示さない。それには、もう一つの理由がある。バブル以降よりも業績が悪くなった2005年のことがあるからだ。
「店を増やしすぎたんです。30店を超えるまでになっていました。その結果、収益の悪い店を生み出すようになっていたんです」。単に金儲けに走ると、そのツケはやはり払わせられる。店舗数の縮小も余儀なくされた。
もっとも店舗数の拡大は、飲食店経営者にとっては、当然の命題でもある。バランスはやはりむずかしい。

社長就任。新陳代謝を促していく。

取締役に就任したが、肩書は「業務推進室室長」のまま。ある意味、経営全体を俯瞰できる立場だったことが幸いした気がする。父の跡を受け2009年に社長就任。店舗数を減らし、筋肉質にした組織だが、まだ行っていかなければならないことも少なくない。その一つが新陳代謝である。
平均年齢は40歳を超えた。彼らのベテランの力を活かしつつ、どう若手との融合を図るか。スイッチを切り替えるようにはうまくは行かない。その難題に直面している。まさに経営者の舵取りが迫られているところだ。
「ハゲ天」。奇妙な、それでいて愛らしい名称の店舗に突きつけられている現実。祖父が、名称を替え、起死回生を図ったように、いずれ、渡辺も現状を打開する方法を生み出すに違いない。その時、老舗天ぷらの店「ハゲ天」の、新しい幕が上がる。

思い出のアルバム
 
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