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第340回 株式会社遠藤商事 代表取締役 遠藤優介氏
update 12/12/18
株式会社遠藤商事
遠藤優介氏
株式会社遠藤商事 代表取締役 遠藤優介氏
生年月日 1983年1月25日
プロフィール 1983年1月25日、生まれ。横浜市三つ沢の寺に拾われ、育てられる。小学3年生の時に、サッカーのジュニアチームに所属。みるみる頭角を現し、中学1年時にはイタリア・セリエA、ユベントスのユースチーム『プリマヴェーラ』にスカウトされるまでになる。だが、世界の壁は厚く、3年で契約がうち切られる。イタリア各地を回り、帰国したのは、18歳の時。ある縁でボクシングを始めると、ふたたび一気にのし上がり、2年もたたないうちに東・西のチャンピオンを伺うまでになる。イタリア時代の思い出を頼りにイタリアレストランで勤務するようになったのはそれから。世界一のピッツァ職人、大西誠氏に従事する幸運もあり、腕とセンスを磨く。1号店は「吉祥寺店」。この店は月商600万円が御の字と言われていた立地で、現在、1000万円を超える人気店となる。「Napoli’s pizza&caffe」を1年で100店舗オープンさせることを目標にしている。現在の店舗数は3店。理念は、「ピッツァを日本人の主食に」。ピッツァの日常食化に燃えている。
主な業態 「Napoli's PIZZA&CAFFE」
企業HP http://www.endojapan.com/

寺の住職に育てられた。

遠藤は、正確な生年月日を知らない。「1983年の1月25日」と答えたうえで、語呂が良かったからじゃないかな、と笑う。前後1週間以内というのが正確なところだそうだ。「お寺に拾われたのは、生後3ヵ月ぐらい。木箱に入れられ、川を流されていたところを助けられたということです」。その寺が横浜の三ツ沢にあったから、出身地は三ツ沢となっている。
住職が1人いるだけの小さな寺だった。だから育ての親はこの寺の住職である。
寺には、200数カ条に亘る家訓があったそうだ。端的に言えば、「漢」であることだという。遠藤は、漢であることを強いられた。一杯のごはんを食べるにも、小さな手と、細いうでで仕事をした。辛いとは思わない。それ以外のことを知らなかったから。
孤児院にお世話になったり里親に引き取られたこともある。その度に、遠藤という名字が変わることもあった。テーブルに座っていると、おかずといっしょに白飯がでてきた。その度に少年は目をまるくした。

仲間とライバルと。

遠藤は父も母も知らない。それどころか長い間、父や母という存在自体知らなかった。「親というものが理解できない」と遠藤はいう。これは文字通り、「親」の存在が希薄であったからだが、もう一方で、日本語そのものがあまりわからなかったからだ。山ザル。小学校では、そんなあだ名がついた。
小学校は義務教育だが、ほとんど通った記憶がない。特に1年時にはまったく顔を出さなかった。出したとしても、袈裟のような、法被のような上着と、スリッパだけ。筆箱もなければ、鉛筆すらなかった。教師も、手を差しのべなかったようだ。「いまじゃ考えられないでしょ」というが、たった20数年まえのことである。
ようやく学校に通うようになったのは、小学3年生の頃からだろうか。友人ができたからだ。永井と鵜飼という名前だった。
「山ザルと言われ、取っ組み合いのケンカになったんです。でも、だんだん友だちになって。私を救ってくれたお寺の住職はもちろんですが、彼らがいなければ私の人生はどうなっていたかわかりません。そういう意味では救いの神です」。
彼らは、友人という存在だけではなかった。良き友であり、ライバルだった。というのも、遠藤も含め、彼らはのちに有名なサッカー選手となるからだ。

サッカー少年の頂点へ。

「鵜飼の父親が、有名なジュニアのサッカーチームのコーチをしていたんです。それで、君もサッカーをしなさいといって誘ってくださったんです。当時、そのチームには200人ぐらいの選手がいて、10数軍までありました。日本の有望なサッカー少年たちが結集したようなチーム。私は、当然、最下位からのスタートです」。
「才能を見込まれた? いえいえ、たぶんそういうことではなく、私の事情を鵜飼から聞いて不憫に思ったのでしょう。チームに入れば弁当も支給されるんです。私もそれに甘えて、残った弁当を10箱持って帰ったこともありました(笑)。練習もぜんぜんしないほうでした。周りの選手とは違って、練習ばかりしているわけにはいかなかったからです。ご飯が食べられる、それだけで、私は満足していました」。
1日中、練習に明け暮れる仲間たちと違って、遠藤の練習時間は1日数時間。ところが、最下位からスタートした遠藤は半年もかからず1軍の練習に参加するようになっていた。
チームに誘った鵜飼氏も、キツネにつままれたような気がしたのではないだろうか。半年前まで、ボールを触ったことがない少年が、日本でもっともサッカーが巧い少年たちに交じってピッチを駆けている。だが、まぎれもない事実だった。

13歳の少年の就職先は、セリエA。

最高のチームだった、と遠藤はいう。日本には敵なし。海外にも遠征したが、フランスにも負けなかった。唯一、負けたのは、イタリアだけだったそうだ。
ジュニアの大会では、優勝するのが当然。1軍イレブンの内、8人がのちにJリーガーとなっている。そのなかでも、遠藤はもっとも期待された1人ではなかったか。
中学1年生の時に出場した大会で奇跡が起こった。正確には、神の風が吹いた。
「国立競技場での決勝戦でした。ハーフラインから少しあがったところからのフリーキック。私は、合わせるように蹴ったんですが、突風が吹いて、狙ったようにゴールに吸い込まれていったんです。私がイチバンびっくりしたと思います。でも、さも当然という風に装っていました(笑)」。歓声が、遠藤を包んだ。
このゴールが遠藤の運命を翻弄することになった。
「Jリーグのいくつものチームから誘われました。しかし、私が選んだのは、イタリア・セリエA、ユベントスのユースチーム『プリマヴェーラ』でした。イタリアサッカー協会の要人が視察にこられていたんです。あのシュートが目にとまったようなんです」。
Jリーグじゃなく、セリエA。断ることができるはずはない。3年契約。中学1年生で、遠藤は才能一つで海を渡った。

チカラの限界。

「1週間もかからなかった」と遠藤はいう。年齢はかわらなかったが、さすがユベントスのユースである。日本のチームとは、なにからなにまで違っていた。
「練習時間もわずか。日本のようにシャカリキにはやらない。ただ、内容が濃い、一言でいえばそうなります」。「パスのスピードが異常に速いんです。日本でいえばシュートのスピードで飛んでくるんです」。
パスを出されても、まったく追いつけなかった。日本ではトップクラスのスピードの持ち主の遠藤が、パスに取り残されていく。
最初の数日は「いつかは」と思っていたが、1週間もかからず、乗り越えられない壁を知った。
3年契約が終了する。プリマヴェーラから、今度はミラノやローマといったチームに移るのが一般的なようだが、もっともそのオファーは、こなかった。
だが、落胆の色はない。「比較的カンタンに踏ん切りをつけられた」という。才能の違いをみせつけられたからとも言えるが、それでもサッカーにもっと入れ込んでいたら、こうはいかなかったはずだ。
遠藤も言っている。「もし、猛練習の結果、這い上がってきたとしたら、あきらめ切れなかったと思います。でも、私は、そうじゃないから、あっさり辞める決心ができたんでしょう」。
とはいえ、日本を出るときに大口も叩いていた。3年でクビになったとは言いにくい。おめおめと帰国することも、格好悪くてできなかった。

「ナポリス」への旅の始まり。

「チームにいる時は食べるのに困りません。衣食住すべてが支給されるんです。そのうえ、給料もありましたから少しは貯えもあったんです。これだけあればと、北から南に向け旅をはじめました。イタリア語ですか? ぜんぜんできません。でも、日本でも似たようなもんですから、何とかなるだろうと(笑)」。
この旅を思い立たせたのは、ナポリで出会った1枚のピッツァだった。
「ある店の、おじさんが作るピッツァが何ともいえずにおいしくて、毎日、通ったんです。そのうち店を手伝うようになって。これが、ピッツァ職人のスタートといえばスタートです。しばらくするとより本格的に修行がしたくなって、旅をはじめたんです。ローマでも、ミラノでも、はたらきました。でも、私の口にはナポリのピッツァが最高でした」
これが、「ナポリス」という社名の由来になったと想像できる。イタリアの旅は、「ナポリス」につづく、旅の始まりだったともいえるかもしれない。
ところで、まだ高校生にもならない少年が、ボディランゲージだけでコミュニケーションを取り、前菜やパスタなど、ひと通りの料理を修得する。これには、脱帽するばかりだ。
結局16歳から18歳まで、コックをするなどして、イタリア料理を食べ歩いたことになる。18歳で、遠藤は帰国した。

世界チャンプへの挑戦。

5年ぶりの帰国。かつての友の情報が気になった。気になったが、進んで会おうとは思わなかった。もう、別世界の人間でもある。
代わりに、ある縁があって、ボクシングを始めることになる。「サッカーより向いていた」と遠藤。リングに上がる度に相手を倒した。すぐにプロになり、東日本、西日本のチャンピオンを伺うところまできた。
かつて山ザルと言われた青年には、野生の動物に似た俊敏さとパワーが備わっていたのだろう。そうでなければ、サッカーでも、ボクシングでもこれだけ早く頭角を現すことができない。おなじ人間とは思えない。彼の周りの選手たちは、そう思ったに違いない。「世界を獲れる」とも言われていた。
サッカーでも、ボクシングでも能力は群を抜いていた。しかし、惜しいことに最後まで、突っ走ることができなかった。
もし、セリエAではなく、Jリーグに進んでいたとしたら。そう考えたこともあったのではないだろうか。
しかし、後ろを振り向いても、何も手に入らない。

挫折と始まり。

遠藤、19歳。
遠藤は、ある縁で逗子海岸を一望できるイタリアレストラン「カンティーナ」の立ち上げに参加することになった。売上予想の4倍以上を叩き出した。
その後、「ピッツァ・サルヴァト−レ・クオモ」の立ち上げに関わる。ここで大西氏と出会った。
数奇な人生は、人と出会う幸運な人生だったとも言える。遠藤の、歩いてきた人生が人を惹きつける。これは、間違いないだろう。実際、彼と話してみれば、わかる。痛快といえば痛快。まるでマンガのようなドラマのような主人公のようでもある。
ちなみに、遠藤が出会ったという大西氏とは、いうまでもなく世界一のピッツァ職人、大西誠氏のことである。2003年9月、ナポリで開かれたピッツァ・フェスタで、イタリア人以外では初めてチャンピオンとなった人でもある。
そう簡単に従事できるわけではない。その意味でも遠藤は幸運にまだ見放されていない。
遠藤はこの後、大西氏に従事する一方で、「株式会社ワイズテーブルコーポレーション」などで調理と平行し、デリバリーのシステムや経営のノウハウを学んだ。
もともと独立志向も強かった、と遠藤。「大西氏にも認めてもらったこともあって、サルヴァトーレのFCをやりながら、その一方でコンサルティングのようなことをしようと予定を立てていました」という。
実際、1号店の「ピッツァリア バール ナポリ吉祥寺」も、もともとはエムグラントフードサービスが出店するイタリアレストランになる予定だった。「コンサルティングするつもりだったんですが、いきなり経営することになってしまったんです」と笑う。

ピッツァを日本人の主食に。

「吉祥寺の住宅街の一角です。料理の経験やコンサルの経験はありましたが、経営ははじめて。オープンして1〜2ヵ月はとにかくクレームが多かった。3ヵ月目からようやく認めていただいたという感じです」。
現在は、超人気店の仲間入りをしている。パスタをはじめ、多くのメニューがあるが、ピッツァはなかでも大人気だ。詳しくはホームページで確かめてみてほしい。ちなみに、「Napoli’s pizza&caffe」で提供されているマルゲリータは、350円。ピッツァを日常食に、という意気込みが、この価格にも表れている。もう応募が終了したので、今更で申し訳ないが、「釜焼きピッツァ一生無料」というキャンペーンも行っている。「日常食」にしてもらうためのユニークで思い切った企画といえるのではないだろうか。
さて、この「PIZZERIA BAR NAPOLI」がオープンしたのは、2011年5月。3階建て、50坪50席とのこと。月商600万円で御の字と言われていたが、いまでは1000万円を超えている。
遠藤の年齢は、2012年12月現在でまだ29歳。まだまだ物語はつづく。
向かう先は、もうみなさんもお分かりの通り「ピッツァが日本人の主食となる」未来である。

最後に。

「嗅覚と感覚で生きてきた」と言う。男気一筋で生きてきた中で、泣く・悔しい・寂しい・緊張というものは無い。そして恨みや嫉妬もないという。木箱に入れられ、流され、豊かな、正しくいえば豊かすぎる才能を持ちながらもその才能を最後まで開花することができず、流されてきたようにも思える遠藤の人生だが、違った角度からみれば、色あいも異なってくる。
それはいまにたどり着くための、華やかな戦いだったともいえる気がするからだ。
現在、5歳と0歳になるお子さんがいる。彼から「パパって、父さんだったんだ?」と言われたそうだ。「5歳になるまで、パパは、友だちだと思っていたんです」とこの日、いちばんの笑い声を上げる。
父でありながらも、今はまだ友人のように接する。父という存在を知らないからではない。初めて持った家族を心からいたわり、慈しんでいるからだ。
家族を持ち、感動を覚えた。その感動を自身と同じような環境や境遇にいる子供たちに何か形で伝えたいという。これからの日本を担う大切な子供たちに。
「美味しいピッツァを届けたい」。自分で歩んできた人生の証しでもあるピッツァを。
名前の通り優しい笑みで優しく語った。
そして最後に夢を聞いてみた。「教科書に出たい」とさらに優しい笑顔で語った。

思い出のアルバム
 

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