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第344回 株式会社エスワイフード 代表取締役 山本重雄氏
update 13/01/08
株式会社エスワイフード
山本重雄氏
株式会社エスワイフード 代表取締役 山本重雄氏
生年月日 1956年6月12日
プロフィール 岐阜県武儀郡洞戸村(現・関市)に生まれる。岐阜県立武義高等学校卒業後、海上自衛隊に入隊。調理班で隊員たちの胃袋を満足させつつ、自身も夢に向かって走り出す。21歳、福富太郎著「あなたも一億円貯められる」という本を読み、感銘を受け、退官。2年後の1981年、24歳で「串かつ・焼き鳥 やまちゃん」を開業する。その後、「幻の手羽先」を看板メニューにした「世界の山ちゃん」が大ヒット。店名、商品名と共に、創業者の「山ちゃん」も一気に注目される。ちなみに看板メニューの「幻の手羽先」は、いまも1店舗当たり1日平均900本以上を売り上げているそうだ。開店日に用意した5100本を即日完売した店もあったというから、尚更、驚かされる。2012年現在、店舗数は愛知を中心に全国に70店以上ある。
主な業態 「世界の山ちゃん」「串かつ・やきとり やまちゃん」「らーめんやどがり屋」ほか
企業HP http://www.yamachan.co.jp/

アマゴ捕りの名人。

「武儀郡洞戸村」は、「ムギグンホラドムラ」と読む。岐阜県の小さなこの村は、2005年に関市と合併している。今回ご登場いただく「世界のやまちゃん」の創業者山本重雄氏が、この村に生まれたのは1956年。人口わずか3000人の小さな村だったという。山本氏の住まいは洞戸村でもとりわけ閑散とした谷合にあり、10軒程度の家族が肩を寄せ合うように暮らしていたそうだ。父は林業や鉄工所、鉱山などに勤め、生計を立てていた。兄弟は姉、弟の3人。真ん中の山本氏からすれば、共に2つ年が離れている。
冬はチャンバラ、夏は川遊びが山本少年の日課だった。いまではあまり降らなくなったが当時は雪も多く、むろん川は綺麗で、夏になるとアマゴを狙って川に潜った。「アマゴ捕りの名人だった」と言って山本氏は笑う。「そっと川に潜り、魚を探す。それがスリリングでね。中学生になると、腹を出して焼いたり、保存食にしたりして。料理も、この魚捕りを通して好きになっていったようなもんです」。
中学では卓球に、高校では柔道に熱を上げた。中学では、まじめな部員だったが、高校では模範的な部員ではなかったそうだ。
「私たちの世代は、先輩たちと違ってみんな髪の毛も長くしてね。柔道はたのしかったけど、先輩らのように真剣じゃない。真剣になるのがどこか格好悪いと思うような世代だったんだと思うんです」と語っている。たしかに団塊の世代を経て、いままでとは違った様子をみせはじめた世代である。

海上自衛隊、入隊。

「成績も高校までは決して悪くなかった」と山本氏はいう。「でも、記憶が苦手だったんでしょうね。数学もそうだけど、歴史もできなかった。そうなると勉強もつまらなくなって。大学進学なんてとてもとても。だってそうでしょ。いまなら絶対進学していると思うんですが、当時は、大学には勉強しに行くもんだと思っていましたから。いまの学生たちをみると大きな勘違いでしたよね(笑)」。
大学進学以外となると就職しかない。警察か、料理人かと迷っていた山本氏は、ある日肩を叩かれ、「自衛隊に入隊しないか」と持ちかけられた。少年は素直に「料理人になりたい」と答えたが、自衛隊のなかにも料理をつくる仕事(任務)があると知り、入隊に気持ちが傾いていった。
3ヵ月の基礎訓練が終わると、正式に部隊に配属される。海上自衛隊。舞鶴湾が光でかがやいていた。護衛艦に乗った。給食班を希望した山本氏の、波に揺られながら200人の料理をつくる生活が始まる。
「私の料理は、この時がスタートです。大人数相手ですから数はつくれるようになりました。ですが細かい味については無頓着で、いまでも細かい味付けは苦手ですね」と山本氏。
護衛艦の船上で料理人の人生をスタートさせる。すでに300名以上の経営者にインタビューさせていただいた「飲食の戦士」だが、むろん初めてのケースである。

1億円の誘惑。

とにもかくにも、料理人としてスタートした山本氏だが、今度は訓練の合間に読んだ一冊の本に影響され船を降りることになる。
「自衛隊は3年で一度、契約が切れるんです。それで21歳の時に海上自衛隊を退官します。実は、訓練の合間に読んだ福富太郎さんの『あなたも一億円貯められる』という本に魅了され、『よしオレも』となったんです。なにしろ、1億あれば金利だけで楽々と生活できる時代でしたから。お金を儲けるなら、『焼鳥屋』がいいと書かれてあったので、そうか『焼鳥屋』がいいんだな、と。業態も決まりました」。
単純と言えば、単純で、純粋といえば純粋。だが、躊躇しないことが山本氏の類いまれな資質であり、強みである。1億円を貯めて金利生活! 気持ちは膨らんだ。1億円をめざし、名古屋の居酒屋での修行が始まった。有名な居酒屋や割烹にも勤務した。およそ3年。そんななか、ある商品に出会った。
「居酒屋で仕事をしていた時のことです。その店と『風来坊』さんが隣同士だったんです」。「風来坊」といえば、手羽先唐揚げの元祖である。「風来坊」の味を真似た店がアチコチにできていた時代である。「私も、当時勤めていた店で、いろんな手羽先の唐揚げを試してみました。カレー味やコショウ味。でも、どれもぴんとこない。もともと細かい料理はしていませんでしたから、旨く真似できなかったんです(笑)」。
もちろん、手羽先は二の次である。「焼き鳥→開業→めざせ1億円」。これが山本氏の進筋書きだった。

偶然の産物か、必然の産物か。「幻の手羽先」完成

1981年6月14日、山本氏24歳。ついに1億円を生み出す店を開業する日が来た。店名は、「串かつ・焼き鳥 やまちゃん」。
「名古屋市中区新栄です。古い木造アパートの1階で4坪13席。目立たない立地でしたが、代わりに家賃は2万5000円。権利金は120万円です。夕方6時から朝5時まで。とにかく1人でやっているもんですから、お客様にビール瓶を取ってもらったり、栓を抜いてもらったり、そういうフレンドリーなところがかえって良かったんでしょうね。ご贔屓にしてくださる方も多くて、日商7万円を売り上げる店になりました」。
山本氏の気さくさ、熱心さと同様、売上に貢献したのが、当時から看板メニューだった「幻の手羽先」である。「『串かつ・焼き鳥 やまちゃん』だったんで、もともとは手羽先の唐揚はメイン商品ではなかったんです。もっとも名古屋はもう手羽先がヒットしていましたから、ウチの店でも出すようにはしていました。でも、私一人でしょ。だから、当時有名だった『風来坊』さんのようにはいかないんです。真似ようと思っても、私には無理なことは実証済みでしたから、とにかく1人で無理なく作れるように『やまちゃん流でいこう』と思ったんです。その時できたのが、塩と胡椒をミックスさせた、いまでいう塩胡椒です。この時、使った胡椒がピリ辛い奴だったんです。偶然といえば偶然です。この私の料理法が、甘辛がメインの時代に、新鮮に受け入れられたんだと思います。一度食べてみてください。ビールにも良く合うんです」。
ちなみに幻と呼ばれるようになったのは、完売必至で、なかなか「食せなかった」かららしい。しかし、思わずそそられる、いいネーミングである。ともかく、偶然に、そしてある意味必然に、大人気商品「幻の手羽先」は完成した。

3年で1000万円、「こりゃ、まだまだ遠いぞ」。

成功か失敗かといえば、間違いなく成功。大成功と言ってもいい。4坪、従業員は1人。その店で月商は200万円に届いた。しかし、3年たったある日、改めて貯金通帳をみた山本氏の顔には困惑の色が浮かんでいた。「3年で1000万円貯まりました。貯金が趣味みたいなものでしたからね。たしかに悪くない額です。でも、良くやったと思う反面、1億はまだまだ先だと感じたんです。だいたい1億円貯めて金利で生活するのが目的でしたから、このままでは埒があかないと。それで、この店は人に譲り再スタートすることにしたんです。仕切り直しです」。
3年後ということは1984年。バブルに向かっていく時だ。1億円をめざすなら「投資」という方法もあったかもしれない。では、虎の子の1000万円を山本氏は何に使ったんだろうか。

新たな船出。「世界の山ちゃん」、発進。

「私1人では限界があると思ったんです。それでまず2つ離れた弟に一緒にやろうと持ちかけました。彼を初めての社員にして、住吉町の繁華街に25坪の1号店を出店し、ふたたび新栄に2号店を出店。こちらは15坪ぐらいです。共に順調で、『有限会社世界の山ちゃん』も設立しました」。
「もともとは『山ちゃん』だったんですが、アルバイトの子がおもしろがって、『世界の』って付けていたんです。それが、なんだかぴったりくるように思ったんで、それからは『世界の山ちゃん』でいこうと」。「世界の山ちゃん」。「幻の手羽先」と同様大層なネーミングだが、「幻の手羽先」同様に受けた。店は順調、1億円ももうすぐ、となるまえに3店舗目で躓いてしまった。
「今池に出店したんですが、なかなかうまくいきませんでした。1000万円ぐらい突っ込んだのに、大赤字です」。
投資額も大きかっただけに、普通なら躊躇するところだが、山本氏は相場師のようにスグに損切りした。これが功を奏し、致命傷には至らなかった。しかし、もう次は負けられない。「それで、創業当時のように朝5時までの営業時間にしました。この店が1986年10月にオープンした葵店です。こちらが、爆発したんです」。
葵店の成功で、「世界の山ちゃん」は、ますます認知され、確立されていくことになる。店は儲かるのだが、この頃から山本氏のなかで小さな変化が起こる。
「葵店の出店からは、順調に店舗数も拡大していきます。『手羽先』だけではいつか飽きられてしまうと、新業態にも果敢にチャレンジしました。しかし、今度はこちらで失敗します。どれもみな山ちゃんのようにはいかないんですね。でも、それ自体は、大きな問題ではなく、改めて『幻の手羽先』のパワーを知る結果ともなりました。それ以上に、私が気になっていたのが、従業員のことです。店舗数が増えたことで、社員も、アルバイトも当然、増えてきます。なんだか、私一人が1億円みたいなことを言っている段階ではないな、と気づくんです」。

個人商店から株式会社へ。「世界の山ちゃん」、100店舗をめざす。

「FCは、スタッフに限って」と山本氏はいう。つまり、「のれん分け」のような制度だけで、FC事業は本格的に行うつもりはないようだ。つまり100店舗は、直営店中心となる。さて、「1億円での金利生活」を目標にしてきた山本氏だが、方向転換を図り、「社員とともに100店舗、年間売上高100億円をめざす」ことを目標に掲げるようになった。真の意味で「世界の山ちゃん」が法人化した時である。
「まぁ、金利生活はいまでも私の夢なんですがね。もう、金利も下がったんで、1億円あっても金利だけじゃ生活できないでしょ。あの時、社員といっしょに100店舗、100億円、という新しい目標を掲げることができたのが、私の大きな一歩だったんだと思います」。
振り返れば、それからもさまざまなことがあった。
「世界の山ちゃん」は全国区となり、大手食品メーカーからタイアップ商品が売り出されるまでになった。
山本氏自身をモデルにした鳥男の奇抜なイラストも、人気化している。
むろん関東にも、関西にも出店エリアを拡大している。
鳥インフルエンザに悩まされたのは、ちょうど関東に進出した頃。看板商品の手羽先が全く手に入らないという危機もあったそうだ。そういう時代も潜り抜けてきた。
今後は、更に全国へという構想もあるだろう。海外進出も、いまスグではないが、いずれという思いもある。
しかし、どれもこれも、いまの「世界の山ちゃん」になくてはならないものだと思えて仕方ない。イラストしかり、ネーミングしかり。失敗も、成功も、すべてひっくるめて「世界の山ちゃん」である。
大層な名前が、なんだからぴったりくるのは、「山ちゃん」のキャラクターがあってこその話。山本氏の性格を引き継いだ「山ちゃん」は、たしかに、たのしく、愛想がいいキャラである。その意味では、名づけの親、山本氏を凌いでいるかもしれない。

思い出のアルバム
 
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