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第372回 株式会社CANVAS 代表取締役社長 本間保憲氏
update 13/07/02
株式会社CANVAS
本間保憲氏
株式会社CANVAS 代表取締役社長 本間保憲氏
生年月日 1970年8月29日
プロフィール 山形県酒田市中町に生まれる。3人兄弟の長男。高校を中退し、フレンチレストラン「ル・ポット・フー」にて修業。19歳の時に上京し、「北の家族」田町店にアルバイト入社。同年、同店にて、最年少店長に就任。5年後の1994年、エリアマネージャー就任。1998年、入社9年で営業部長に就任。2003年、取締役営業部長に昇格。東日本営業部責任者として97年店舗を管理。2007年、株式会社エイチワイシステム、取締役営業本部長に就任。2011年、株式会社CANVASを設立する。2013年5月、現在、「板前バル」など4店舗を出店する。
主な業態 「阿波尾鶏」「板前バル」
企業HP http://www.canvas2011.com/

変化を感じ取った日々を送る。

海軍のレーダー技師だった本間の祖父は、あの戦艦大和にも搭乗したことがあるそうだ。戦後、復員した祖父は山形で「本間ラジオ」という電器店を開業。母は箱入り娘で、絵に描いたような裕福な家庭だったそうである。
しかし、昭和50年、本間が10歳の時に酒田市を大火が襲い電器店も全焼。跡地に100坪5階建のビルを建設したが、投資が負担になり、次第に経営が厳しくなる。大手が進出し、町の電器店の経営が構造的に不振に陥っていた頃に、思い切った投資したのが響いたようだ。
「結局、家も土地も売却することになってしまった」と本間。
まだ小学高学年だった本間に、すべてがわかるわけもなかったが、家庭内の空気がいっぺん。空気の変化は、敏感に感じ取っていた。
「それまでは、甘やかされて育ちました。私は勉強も良くできた優等生でした」。ところが、家庭内の空気がかわると、本間にもトゲがでてくるようになる。
家庭でも、学校でも衝突することが増えたのではないか。

フレンチレストランにて修業。

中学生の頃からバイトに精を出した。新聞配達をメインに、スーパーのお惣菜コーナーではたらいたこともある。
「いま思えば、これも一つの反抗だったんだと思います。『だれが食べさせてやっているんだ』という父に、それなら、と。そうですね。その時から、親にお金を無心したことは一度もありません」。
新聞配達は3年間続けている。いうのはたやすいが、どれだけの忍耐力がいるかは想像できる。しかし、少年の矜持は、親に頼ることを拒みつづけた。
しかし、さすがに高校も中退となると親の意見も聞かざるをえなかったのだろう。言われるまま、父の知り合いがオーナーのフレンチレストランに就職。せめて「手に職を」という父の意志に従った。
2年半、このレストランで料理のイロハを叩きこまれた。
悪友とは縁が切れた。「なにしろ朝8時〜夜11時までの仕事です。それでいて手取り7万円。カネも、ヒマもない。からだもつかれているから、バイクに乗る気もしません(笑)。そんな毎日にイヤ気がさしたわけではないんですが、2年半後、退職。簡単にいえば、逃げ出してしまったわけです」。
ただし、この2年半は、その後に大きな意味を持つことになる。ちなみにこのレストランは岩手でも1、2を争う有名で、関東圏からもお客さまがみえられたそうだ。

渡されたアルバイト雑誌に神が宿っていた。

「退職後、私は上京します。もちろんまだ若くて、目標などなく、東京の大学に進学していたカノジョの下宿先に転がり込みました。最初は歓迎ムードだったんですが、私がいつまでもブラブラしているもんだから、だんだんがきつくなって、『あんたは、私のヒモじゃないのよ』とアルバイト雑誌を渡されたんです(笑)」。
「雑誌をペラペラめくっているうちにみつけたのが、田町にある『北の家族』だったんです」。
本間はまだ学生とかわらないあどけない青年だったが、有名なフレンチレストランで修業した2年半は伊達ではなかった。しかも、本人いわく、山形の言葉がはずかしく、黙々とはたらいた。それがまた評価につながった。
社長にもかわいがられるようになる。19歳、山形から上京してまだ1年にもならない青年が、当時はまだまだベンチャーだったが、のちに上場する『北の家族』の店長となる。
もちろん、最年少記録。あのアルバイト雑誌には神が宿っていたのだろうか。

若い店長の一言に、スタッフが切れる。

オーナー社長に認められ、いよいよ「本間の時代がスタートする」と言いたいところだが、ひと波乱あった。
「私はまだ19歳。周りは、アルバイトを含めみんな年上だったんです。でも、店長でしょ。最初がカンジンだと思って『オレが店長だ。オレのいうことがきけない奴は、辞めてもらう』と啖呵を切ったんです」。
「ある日、そうあの当時は土曜がいちばんバタバタしたんですが、その土曜日のこと。いつも通りお客さんがドンドンはいって、私は接客に追われていたんですが、アレと思って周りを見渡すとだれもいないんです。キッチンにいくと、外国人が2人だけ。そりゃぁ、ピンチです」。
「ロッカーに駆け込んでいったら、案の定、みんな着替えの最中で『どうしたんだ』といったら、『おまえみたいな店長の下ではたらけるか』って。『おいおい、それをいまいうなよ』と泣きたくなりましたが、だからといって頭を下げる気もしなかった。奴らが出ていくのを待たず本部に連絡。『バイトがみんないなくなってしまったんですが、どうしたらいいでしょうか』と言ったら、『アホ』、そんなシンプルな言葉が返ってきました。それからですか? 記憶にないんです。なんとか乗り切ったんでしょうね。たぶん、アルバイト採用も行ったと思うんですが、当時のことはほとんど忘れてしまいました。記憶する余裕も、ゆとりもなかったんだと思います」。
80坪程度、月商2000万円も達成した店である。それをほぼ1人で回すとなると、もう獅子奮迅の域を超えている。
自ら蒔いたタネとはいえ、あまりに手痛いしっぺ返しをされたものである。もっとも、本間は若いだけで、それ以外の罪はないのだが。とはいえ、これで本間の士気も、評価も落ちることはなかった。むしろピンチを乗り越えたことで、さらに評価が高まったのではないか。「北の家族」も出店に出店を重ねていった。

新たな1ページの始まり。

カノジョから渡された一冊のアルバイト雑誌が、本間という一人の人間の人生を決定する。下地があったとはいえ、これだから人生は摩訶不思議である。店長からエリアマネージャーに昇進し、28歳で部長になる。
当時の運営会社「アートライフ」は株式を上場するまでに至る。
その後、運営会社はかわるのだが、本間は、取締役部長まで昇進した。
そんな時に偶然、株式会社エイチワイエスの安田久氏と出会った。
安田氏は、1998年、東京六本木にオープンさせた監獄レストラン「アルカトラズ」で大ブレイク。人気TV番組「マネーの虎」にも出演。強烈なキャラクターで評判だった。
2004年、「地方の郷土料理」に着目し、秋田の「なまはげ」をテーマにしたユニークな居酒屋をオープン。そのにち、各地域のテーマ性を重視した店舗を出店していく。2010年には、銀座に、200席の巨大郷土料理店「阿波おどり」をオープンさせている。
そんな安田氏から「ぜひ」と乞われた。これが新たな1ページの始まり。本間、37歳のことである。

天才、安田氏のもと、ユニークな店舗を次々リリースする。だが。

安田氏は、企画の天才。プレゼンの天才だった、と本間は振り返る。しかし、天才は企画には長けていたが、実行するのはもっぱら本間の仕事だった。いまでも交友がある2人だが、それは当時から役割をうまく分担していたからだろう。
本間は、2007年、株式会社エイチワイシステムに転職するとともに、取締役営業本部長に就任する。
互いに相手をリスペクトする部分があったと推測できる。
本間は、安田氏のアイデアをもとに、ユニークなブランドを次々、リリースしていく。前述の「阿波おどり」もその一例だ。店舗の業績はけっして悪くはなかったが、リーマン・ショック後の景気後退のあおりを受け、経営状態が悪化。2011年6月に、株式会社エイチワイシステムは、破たんしてしまう。
その破たん処理にも本間が奔走した。従業員たちも路頭に迷わせることなく、無事、処理ができた。一方、本間自身も、ついに経営者として立ち上がる。これも、2011年のこと。株式会社CANVASの設立である。

株式会社CANVASの設立。

2011年、本間は初めて、経営者となり全責任を負う立場になる。本間が師事してきた経営者たちは、アクが強く、極めてユニークである。そのようなキャラキターの下で、もまれてきた時間の意味は大きいのではないだろうか。教師ともなり、反面教師ともなる。
さて、2013年5月現在、CANVASは「板前バル」など4店舗出店。6月にも新たな店舗がオープンするそうだ。
業界の、裏も表も、良い時も悪い時も、すべて経験した。だから、つよい。今後の更なる飛躍も楽しみだ。
ちなみに本間が起業したのは、41歳の時。有能な「飲食の戦士」が、ついに表舞台に立ったことになる。

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