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第381回 株式会社京都吉兆 代表取締役社長 徳岡邦夫氏
update 13/08/06
株式会社京都吉兆
徳岡邦夫氏
株式会社京都吉兆 代表取締役社長 徳岡邦夫氏
生年月日 1960年5月3日
プロフィール 大阪市生まれ。日本料理の名店、「京都吉兆」の3代目店主として誕生。高校卒業後、本格的に料理の修行を開始し、祖父であり、創業者の湯木貞一氏からも評価される。1995年から京都吉兆嵐山本店の料理長として現場を指揮。現在は、株式会社京都吉兆にて代表取締役社長および総料理長を務める。
主な業態 「京都吉兆」
企業HP http://www.kitcho.com/kyoto/
ブログ http://kyotokitcho.seesaa.net/

京都吉兆、3代目、誕生。

徳岡が生まれたのは、終戦から15年が経った1960年のことである。生まれは大阪市中央区平野町。この時の住まいは、現在「美術館」に建替えられているそうだ。
徳岡を語るには「吉兆」という名店の歴史もまた語らなければならない。
徳岡は「吉兆」の創業者、湯木貞一氏の孫にあたる。湯木氏は1930年、29歳の時に「吉兆」を創業している。茶道に精通し、茶道具を愛するなど日本文化に対する高い見識を持った料理人だった。著名な財界人や文化人とも交流を図っている。むろん、創業した店には著名人達が足繁く通ったはずである。
「吉兆」の年表に沿って、書き写してみよう。
1930年、大阪新町に「御鯛茶處 吉兆」を出店。ここから「吉兆」のすべてが始まる。9年後の1939年に戦時下にあったにも関わらず法人化。戦時下にあっても、日本の食文化を守り抜くという意志表示だったのかもしれない。
1948年には、京都嵐山にある美術商だった児島氏の別邸を譲り受け「吉兆嵯峨支店」を開店。1949年には高麗橋にあった同氏の本邸を譲り受け、本格的に料理店を開くとある。ちなみに1961年には早くも銀座に「吉兆 東京店」を出店している。徳岡が生まれたのは、その前年である。

ミュージシャンになりたくて。

徳岡は2歳の時に父親を亡くしている。後に母が再婚し、現在の徳岡姓を名乗るようになる。
この父も、むろん料理人。日本を代表する料理人、湯木氏の孫として生まれ、幼い頃から優れた料理人達と接してきた徳岡だったが、料理人になる意志も、「京都吉兆」の跡を継ぐ意思もなかったという。それよりも「世界に通用するミュージシャンになりたい」と思っていたそうだ。中学時代はやんちゃだった。このままでは高校に進学できないため中学3年生になった時、有名進学塾に入塾させられた。元来、負けず嫌いの徳岡は、周りの生徒にも刺激され、熱心に勉強を開始する。学校のテストでは全教科90点代を取るまでになり、その当時話題の岡山の進学校を勧められ、いったん親元を離れることになる。
岡山での高校生活は半年に過ぎなかった。実家に戻り、板前の修業を開始する一方で、今度は自宅から通える公立高校に入り直した。この時音楽と出合い、本格的に「ミュージシャンの世界」を目指していた。高校は卒業したが、「ミュージシャンになりたい」という思いからは卒業できなかった。父と初めて真正面から向き合った。「『出て行け』と罵倒を覚悟のうえで『ミュージシャンになりたい』と言ったんです。しかし、殴られはしましたが『出て行け』とは言われなかったんです。追い出されたほうが、私にとっては好都合だったんですが(笑)。結局、父も私も感情的になり、収拾がつかなくなってしまったので、第三者を交えて考え直すことになりました。私は、昔からお世話になっている妙心寺派、大珠院の『盛永宗興老師』の下を訪れました。老師から、父を説得してもらおうと思ったからです」。
だが、なかなか思うようにいかないのが、人の常である。老師は「すぐに答えを出すのではなく、しばらく禅寺で過ごすように」と言われたそうだ。寺預かりの身となった徳岡は、頭を剃られ、仏門に入る。
「小さい頃から何度も訪れていましたから、座禅は苦にはなりません。ただ、今回は、客人ではないわけですから、仕事も任されました。私に与えられたのは風呂当番です。当時は、薪風呂なんです。薪を拾いに山に入り、斧で切り、それで風呂の水を沸します。いつだったでしょうか。薪を割りながら、涙が止まらなくなったんです。オレは、何をやっているだろうと」。

悟り。

禅寺の修行は厳しい。冬でも作務着1枚。裸足で、手袋もない。それで、板間で禅を組む。「寒さと眠気と痛みとの戦い」と言って徳岡は笑う。そんな修行を重ねていた、ある日のことである。その日はいつもより寒く、眠く、足は痛かった。
「いつの間にかトランス状態になっていたんだと思うんです。山の背から太陽が昇ってくるイメージが沸き起こったんです。同時に、あることに思い至りました」。
もう一つの眼が開いた、ということなのだろうか。その眼は、冷静に「徳岡」という存在を見詰めていた。「やりたいことをやろう」と、頑なになっている己がいた。その一方で父をはじめ、周りの人たちの思いやりや期待が心に沁み込んでくる。
「私なりの悟りだったんだと思います。その時、私は初めて、周りの人たちのためにも、『京都吉兆』を継ぐという決断をしたんです。その時、祖父ことが頭に浮かんだんです」。
「祖父は、世界に通用する人です。ミュージシャンではないけれど、祖父のように世界に通用する料理人になろうと決意しました」。
周りへの感謝が、進むべき道を示してくれた。
心を決めれば行動は早い。
大阪市中央区にある「高麗橋店」で、本格的な料理修業に入った。

祖父の一言。

創業者の孫といえども下働きを免除されるわけではない。料理の世界は、厳しい。「高麗橋店」で修業した徳岡は、東京の「吉兆」でも修業を重ねている。この話は、その東京での話である。
「当時、私は、まだまだ下っ端でした。ある時、祖父が急に『お腹が減った』というんです。いつもなら、ほかの店に足を運んでいたようなんですが、その時は『にゅうめんが食べたい」と突然、言い出したんです。でも、厨房には私1人。『にゅうめん』など作ったこともない。自分なりに料理の腕は磨いているつもりでしたが、そもそも1人で調理するのは初めてだったんです。にも、関わらず私が作った『にゅうめん』を食べた祖父が、『おいしい』と一言いってくれたんです。私にとっては祖父ですが、料理の世界では雲の上の存在です。そんな人から「おいしい」と言われたことは、自信にも、財産にもなりました。迷い苦労している孫を気にしてくれていたのかもしれません。でも、味で嘘をつくような人じゃありませんから、『おいしい』の一言が何より私を奮い立たせてくれたんです」。
こののち徳岡は、更に料理人の高みをめざし駆けあがっていくことになる。1995年には、「京都吉兆嵐山本店」の総料理長になる。だが、そこがゴールではない。やりたいことも、やらなければならないことも、山ほどあったからだ。

世界に通用する「人」に、「企業」に。

徳岡は「京都吉兆」という名店を通して、時代をみてきた。バブルも、その崩壊も経験し、鳥インフルエンザ、BSEと「食」を脅かす事件にも遭遇した。2000年ITバブル、2008年のリーマンショックなど、度重なる経営の危機も経験した。むろん「船場吉兆」の事件も記憶に新しい。
「でも、私自身にとっても、『京都吉兆』にとっても、これらの出来事は、ある意味『時代に適応する、いいきっかけ』だった気もします。『料理屋は、旨い料理さえ作っていれば潰れない』という迷信から抜け出せたのも、これらのことがあったからです。皮肉なことですが、それまでまったく聞き入れてもらえなかった私の意見にも、みんなが素直に耳を傾けてくれるようになりました。これも、経営が厳しくなってきたきからです」。
「京都吉兆」という名店を継ぐには、どれほどのプレッシャーがかかるのだろう。まして、次代に残すために、適応させ、進化させるとなると尚更、責任は重い。
しかし、重圧を跳ね返すように徳岡は、いままでとは違う取り組みを次々、行ってきた。採用もその一つ。徳岡主導で、新卒採用にも注力した。サービススタッフの採用に関しては、就職サイトを通じて大卒中心に行っているという。
「世界」という軸も持つようになった。世界に発信していけるのは「京都吉兆」というブランドがあるから。それを無駄にするつもりはない。ただし、まずは国内である。
「京都吉兆」というブランドを改めて日本の若い人にも伝えていかなくてはならないと思っている。
そのため、ユニークな仕掛けも行っている。
「先日、イタリアの有名なオイルメーカーと共同で、日本料理にあうオリーブオイルを作りました。日本の繊細な料理に合う、オリーブオイルです。お陰様で好評だと聞いています。また、『ハンディ吉兆』という京都吉兆の味を500円〜1000円ぐらいで楽しんでいただけるようなプロジェクトも動かしています」とのことである。
2013年、徳岡は53歳になった。「日本料理の名店」を次世代に残し、世界にも広めるミッションを持つ。
「世界に通用する」、それは徳岡にとって一つのキーワード。日本料理の名店で育った徳岡にとって、日本料理が「世界に通用する」のは、必然ではあるが、まだまだ証明すべきことは残っているのかもしれない。
「世界に通用する料理人」の育成も、その一つかもしれない。

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幼少期 学生時代 祖父貞一と
 

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