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第402回 株式会社ノバレーゼ/東証一部上場 代表取締役社長 浅田剛治氏
update 13/10/15
株式会社ノバレーゼ
浅田剛治氏
株式会社ノバレーゼ/東証一部上場 代表取締役社長 浅田剛治氏
生年月日 1969年9月12日
プロフィール 大阪府生まれ。6人兄弟の次男。慶応義塾大学商学部卒業後、株式会社リクルートに入社。リクルートを退職後、父がオーナーを務める名古屋の結婚式場の経営を任され、業績をV字回復させる。2000年、30歳で株式会社ワーカホリックを起業し、ドレスショップの経営と婚礼プロデュースから事業をスタート。2003年、名古屋市郊外に開業した「アマンダンテラス」が大ブレイク。その後も東名阪を中心に多店舗展開し、2006年10月、東証マザーズに新規上場。2010年12月、東証一部上場に昇格する。ウエディングにかかせない料理を日常の生活シーンにも提供する青山・表参道のフレンチレストラン「イリエ ル ジョワイユー」や、「セラフィーナニューヨーク 丸の内店(イタリアン)」「シャリ ザ トウキョウ スシ バー(和食)」など、ウエディング事業と共に個性的で洗練されたレストランを全国展開している。
主な業態(レストラン) 「MONOLITH」「Serafina」「SHARI」他
企業HP http://www.novarese.co.jp/

高校までの浅田の話。

大阪府吹田市で万国博覧会が開催されたのは1970年。今回ご登場いただく浅田が生まれたのは万博の1年前、1969年のことである。兄弟は6人。浅田は、5人目だが、次男坊でもある。
浅田の父は、大阪で喫茶店を経営するなどしていたが、のちに名古屋で結婚式場を経営するようになる。もともと祖父の代から建売業などを行う商売一家。
「私が小学生の頃にはもう結婚式場を経営していました。私は次男ですが、小学生の頃には、いつか父から事業を引き継ぐんだろうなと思っていました。その父は、私たち子ども、特に、兄と私にはかなり厳しく、警察より、怖い存在でした(笑)。父は、早くに事業の一線から身をひきます。帰ってくると、真夜中でも私ら兄弟は起こされ、祖父の話をずっと聞かされました。ちょうど、私の受験時期と重なって…。それでも怖くて文句ひとつ言えませんでした」。
それだけ怖い父だったが、浅田も委縮していたわけではない。
「当時、公立の中学ときたら、悪くて、悪くて。私たちの2代か3代前には、校舎の廊下に平気でバイクが止まっていたそうです。私は成績もそれなりでしたが、不良と言わないまでも、やんちゃな連中とも付き合っていました。学校が終わると、友人宅に寄ることもしょっちゅうでした。ただ、門限があったもんですから、門限時間の7時にいったん帰って、父が寝たのを確認して2階の窓からこっそり脱走して、もう一度、友人宅に駆け込んだりしていました。もちろん、朝、父が起き出すまでに戻っていないといけませんから、それはそれで、たいへんでした(笑)」。
窓から脱走する浅田の姿を想像して微笑んでしまうが、父との関係を考えるとけっこうな、そう決死隊のようなものだった気がする。
それだけ父は怖い存在だったが、中学生の少年の、好奇心や自立心は、ある意味、父の恐怖を凌駕していたということもできるのだろう。
「とにかく高校生になっても、外泊禁止です。私は、東京の大学に進学するのですが、父から逃げ出したいという気持ちから、東京の大学を選択したのも事実です」。
高校は校区なかでも優秀な進学校に通った。ただ秀才たちとは馬が合わず、頭は良かったが、いつも下位の成績の連中と付き合った。

大学進学、東京への逃亡。

「逃亡といえば、逃亡ですよね。父は、大阪の大学だと言い張るんですが、父が当時お世話になっていた税理士の先生も、そりゃ東京に出すべきだということで、ようやく許しがでました。私は慶應に進学するんですが、合格より、これで親許から離れられるんだ、とそっちを喜んでいました」。
慶應ボーイ。この響きにも誘われたのではないか。ともかく、税理士という思わぬ援軍のおかげで、花の東京生活、花の独り暮らしを開始する。
「ドラキュラのような生活でした。夜昼の逆転ですよね。そういう生活を送っていましたが、無事、4年で卒業し、リクルートに就職します」。
浅田が22歳といえば、1991年。バブル経済が崩壊する、カウントダウンが開始された年でもある。
「結局、リクルートには1年半しかいなかったんですが、いまあるのはリクルートでさまざまなことを経験できた、学習できたからだと思います。採用についても、勉強できたのは、経営者として幸運だったと思います。また、周りに凄い先輩がたくさんいました。それも刺激となり、いまの財産になっています」。
大学で4年間、リクルートでも都内のオフィスに配属され、1年半。標準語も巧みになっていたに違いない。

父、倒れる。

「リクルートを退職し、父の事業の一つである結婚式場を継ぐことになるのですが、それは父が倒れたからなんです。いま思えば、あれは私を呼びもどすための方便だったかもしれません(笑)。とにかく、これがきっかけで、私は結婚式場の経営を始めることになります。子どもの頃からいずれはと思っていたので、抵抗はなかったのですが、入社して実情を知ると愕然とするしかなかった。4億円の売上は立っていましたが、赤字も5000万円ぐらい叩き出していたんです。それでも、父は年に1回ふらりと顔をだすだけですから、放漫経営だったと言われても仕方ありません」。
問題が山積みだった。リクルートという先進の経営を行う会社にいたから尚更、古い体質が目についたのかもしれない。
「もうね、笑ってしまうぐらい、いいかげんです。式場のなかで、スタッフみんなで宴会をして、すったもんだがあってケンカをして、翌朝私がいくとケンカの跡が残っているんです。それでも最初は、いきなり任されたようなもんですから、私も、改善しようなんてぜんぜん思っていなかったんです。ところがある日、女性スタッフが辞めたいといってきて、はじめて目がさめたんです」。
赤字を垂れ流すような式場。設備も古く、あちこちが痛んでいた。晴れの日を演出するはずのスタッフがすさんでいた。それでも目をつぶっていた。だが、「この式場にいても先がない。みなが足を引っ張り合い。陰口を叩きあう。もうイヤになった」という一言は、無視するわけにはいかなかった。まるで、ぜんぶを知っているのに、なんの改善もしない浅田自身が責められているような気もしたからだ。
「放漫経営のツケというか、スタッフにとってはある意味、いい式場だったんでしょうね。売上が悪くても給料が下がるわけでもない。追い出されもしないから、適当に仕事をしていれば、それでよかった。食材などの横流しも横行していた。だから、そんな式場なのに、離職率ゼロだったんです。それがすべてを物語っていますよね。女性スタッフの一言にさすがにこれではいけないと思って、鬼なることに決めました」。

浅田、鬼になる。

壮絶なたたかい、だったはず。「いかにして、スタッフを首にするか、それだけを考える日々」がスタートした。「向こうは、向こうで、みんなで私を辞めさせようって一致団結していたようなんです。笑ってしまいますよね。オーナーの息子ですよ。辞めさせられるわけがない。そこまでタガが緩んでしまっていたんです」。
陰口を叩くことしかしないスタッフを一掃するのに3年かかった。5人採用しても、4人は、低きに流されていってしまう。だが、そのなかでも1名、また1名と浅田の思いを知る者が育つようになっていった。
「3年経った頃です。もう、辞めさせなければいけないというスタッフは誰もいなくなりました。そればかりか、優秀なスタッフに私は囲まれるようになっていたんです。その年から、まさにV字回復です。設備が古かったことも幸いして、大規模な修繕もして、当時ではまだめずらしかったチャペルも採り入れました。こういう改革がすべて、結果につながっていったんです」。「正しいことをちゃんとやれば認めてもらえる。その時、私は、いのちを賭けた戦いでそれを知りました」。
鬼になった、その代償は少なくなかったが、得たものは、それ以上に大きいものだった。

30歳、起業。上場企業へ。

2000年、浅田は、30歳になっていた。この年、父と袂を分かち、たった6人で新たな事業を開始する。事業は、ドレスショップの経営と婚礼プロデュースである。そののち2003年、名古屋市郊外に開業した「アマンダンテラス」が大ブレイク。
小さな企業が、翼を持ちまたたくまに大空へ飛び出していく。事業を開始し、4年後には本社を東京に移し、2006年10月、東証マザーズに上場を果たす。更に2010年12月には東証一部に昇格する。
まるで、現代のシンデレラボーイのようだ。
上場企業を一代で育てた経営者が、まだ40代半ばというのだから、それにも驚かされる。

レストラン事業について。

浅田の本業はいうまでもまく、ブライダル事業である。HPをご覧いただければわかる通り、東名阪を中心に多店舗展開を実現。「晴れの日を祝う」、晴れがましい時間がどの店舗においても流れている。これほど、清々しい事業もない。
式場で展開される一つひとつのシーンに、浅田自身、目を細めていることだろう。
さて、そのなかでもう一つ展開されているのが、レストラン事業である。晴れの日はけっして1日だけではない。ブライダルに欠かせない料理は、すべての人に解放される。
「私どもの本業いうまでもなくブライダルです。だから、レストランを積極出店しようとは思っていません。ただ、中身の濃い、すべてに満足できるレストランをつくっていきたと思っています。1店舗1店舗に私たちが持つチカラをギュッと凝縮したような、そんなイメージです」。
あくまで飲食は、サブという位置づけだ。しかし、この事業を極め、ブライダル事業にフィードバックされることで、より洗練された、晴れの日を作り出すことは間違いない。「今後は、海外展開にも注力したい」という浅田。晴れの日を演出する経営者らしく、晴れ晴れとした表情でそう語った。

思い出のアルバム
 

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