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第404回 有限会社マンジェ・ササ 代表取締役オーナーシェフ 笹垣朋幸氏
update 13/10/22
有限会社マンジェ・ササ
笹垣朋幸氏
有限会社マンジェ・ササ 代表取締役オーナーシェフ 笹垣朋幸氏
生年月日 1970年3月17日
プロフィール 3歳から母方の実家があった高知県高岡郡で暮らし始める。母が病弱だったため、祖父母に育てられる。高校卒業後、「RKC調理師学校」に通い、独り暮らしを開始。高知県内のホテルにてパティシェとして勤務したのち、独立。1998年、「季節のケーキ フリュイティエ ササ」をオープン。2000年に有限会社マンジェ・ササを設立、代表取締役オーナーシェフに就任。2002年に「マンジェ・ササ」高囀X、2004年に「レストラン ボナペティ」オープン。圧倒的な知名度を有するようになる。ただし、独立後も「アル・ケッチァーノ」などのレストランを経営する奥田政行氏に師事するなど、精力的に活動。2013年、洋菓子の聖地でもある東京・自由が丘、そして東京駅前のJPタワー・KITTEにも出店。高知の食材を用いたスウィーツなど、出身地である高知を愛し、高知ではたらく生産者の想いを洋菓子に託し、全国に届ける活動を行っている。
主な業態 「マンジェ・ササ」「マンジャーレ・ササ」
企業HP http://m-sasa.com/

高知県高岡郡、育ち。

「高知県高岡郡」、笹垣が「田舎だ」というから、調べてみた。高岡郡は、高知市より西にあり四万十町など6町1村を含む郡である。笹垣は、「漁師の祖父と祖母に育てられた」というから群のなかでも海沿いの町だったはず。とにかく自然のなかで、遊び回るのが日課だったそうだ。
「なにしろ、祖父が漁師ですから朝が早い。だから、寝るのも早くて夕食が4時で、8時には消灯です。料理はさかなの煮つけと塩焼きの繰り返し。もっとも私が、生魚が食べられなかったからで、祖母なりに工夫はしてくれたと思います」。 海沿いの漁師の生活。祖母は祖父が釣った魚を行商していた。
「3歳のとき両親が離婚し、姉は父方、私は母方に引き取られ、母の実家である祖父の家に移り住んだんです。母が病弱だったこともあって、もっぱら祖父と祖母に育ててもらいました。でも、2人ともはたらいているもんですから、ほったらかしで、もう自然に育てられたといってもいいんじゃないかな」。
もっとも田舎の村。村の人もやさしかった。「村の子どもたちはみな兄弟みたいなもんです。小学校も、中学校もいっしょ。中学生になっても、クラスの女子は恋愛の対象じゃなかった。ある程度、大きくなるまでは風呂もみんなでいっしょに入っていたぐらいですから(笑)」。

漁業も、農業も盛ん。

笹垣が生まれたのは1970年。大阪府吹田市で万国博覧会が開催され、日本の近代化が一挙に推し進められようとしていた頃である。しかし、笹垣が育った高知の田舎では、まだまだ近代化の恩恵にはあずかれていなかったようである。 「高知市に行くだけでもたいへんで。そうですね、ぼくら高岡郡の人間にすれば、普通の人たちが東京に行くのとおなじイメージ。東京ともなれば、もうニューヨークです(笑)」。「漁師もたくさんいましたが、農家の人も多く、ピーマンやししとう、お米なども盛んに作られていました。いまでも、農業が盛んな村です。」
「私は、小さな頃から絵が好きで、将来は漫画家になりたいと思っていました。しかし、現実はそう甘くなかった。投稿しても、さっぱり。高校を卒業する頃には、実力もだいたいわかってきたので、これは無理だなと。でも、勉強もさほどしていなかったもんですから、それ以外でいえば、整備士、美容師、調理師ぐらいしか選択肢がありません。そのなかから調理師を選択したのは、小さくてもいいからみんなで楽しめるような店を造りたいと思ったからなんです」。

調理師学校へ旅立つ。

笹垣は、小さな思いを胸に抱き1年制の「RKC調理師学校」に進んだ。進学というより、旅立ち。なにしろ、「RKC調理師学校」は、東京とおなじぐらい離れた高知市にあったからだ。「すでに祖父が亡くなっていたもんですから、祖母には辛い思いをさせたと思います。でも、祖母は私にいくつもの大切な言葉を贈ってくれました。『人に可愛がられるようになりなさい』というのも、祖母の教えの一つです」。
単身で向かった高知。4月3日に高知に入り、2日後の5日には入学式を済ませ、高知市内のホテルに向かった。アルバイトを始めるためだった。
「あの時の選択がぼくの将来を決定したと言えるかもしれません。選択といっても、ぼくがしたわけじゃないんですが。まぁ、受け入れたという意味で、一つの選択だったと思っています」。
仔細はこうだ。友人と2人して、ホテルに向かった。夕方6時ぐらいに着く。「そのとき、将来何になりたいって聞かれたんです。で、ぼくより早くもう1人の友人が和食と答えたもんですから、中華のないそのホテルでは洋食しか残っていなかったんです(笑)。それで、洋食。いま思えば、そこが出発点なんです」。
鍋洗いからスタートした。
次々に出勤してくる先輩たちを待ってインスタントコーヒーをつくった。砂糖何杯、ミルク何杯、コーヒーは濃い目か、薄い目か。15人いた先輩の味を全部、おぼえた。祖母の言葉を実践し、先輩たちにも気に入られるようになった。
ベーコンを切らしてもらえるようにもなった。ただし、その数、1日2000枚。

マドンナが食べたフレンチ。

重労働をこなし、経験値も上がった。上司や先輩もなにかと声をかけてくれるようになる。
「そんな、ある日、島田和幸シェフがカバン持ちとして東京まで連れて行ってくださったんです。島田和幸といえば、いまも高知を代表する巨匠の1人です。そして、このときに連れて行ってもらった超有名なレストランで、ぼくは洋食のなかでもフレンチをしようと決意するんです」。
理由は単純だった。
「生まれて初めて食べるフレンチです。しかも18歳。味がわかるわけがありません。でも、その時、ぼくが食べさせてもらった料理とおなじものを、すぐ隣の個室で、あのマドンナが食べていたって言われたんです。その時、ぼくはマドンナの大ファンだったんです。それもあって、よし、フレンチをやろうと決めたんです」。
動機は単純だが、思いは真剣だった。料理の勉強のため20万円もするフランス料理本を購入した。「毎日、読んでいると料理というものにいっそう惹かれていくんです。食材にも関心が移り、野菜の市場で無給ではたらかせてもらいました。やがて目利きもできるようになる。1年目は野菜で、2年目は魚。3年目に肉をやって、4年目でホテルを卒業しました」。

独立、前夜。

フレンチをやると決めた時、28歳で独立という、もう一つの目標を立てていた。ホテルを卒業後、洋菓子の名店に就職し、フレンチのなかでも洋菓子に専念するようになる。独立に向け、具体的に動き出すのはこのとき。「管理職になっていて、夜勤を担当していたんです。それで、昼間があいているので、よしと思って。国金に500万円借りて。10坪の焼き菓子のショップをオープンしました」。
販売はショップスタッフに任せたが、看板は笹垣がつくる焼き菓子である。「向こうの仕事が終わってから、夜中の2時、3時に店に入って、だいたい朝の10時までに焼き上げます。それから2〜3時間寝て、また向こうに出勤です」。
そういう生活が、半年はつづいた。終止符が打たれたのは、評判が良すぎたからだ。
「おかげさまで評判になって、もう寝られなくなっちゃったんです。それで、向こうの会社を辞めて、こちらに専念しようと」。
会社を辞め、純粋な独立経営者としてスタートする。
「でも始めてみると、10坪の店にスタッフがぼくを合わせ4人もいる。息苦しくて、すぐに2号店を探しました(笑)」。
2号店、こちらもヒットする。「2号店では生菓子をつくりました。これが大ヒットするんです」。
次々、ヒットした。若きフレンチのシェフに取材が殺到する。何をやっても巧くいった。県内のすべてのお菓子屋が見学にきた。
この頃のことを簡単に年表で追いかけてみよう。1998年、季節のケーキ「フリュイティエ ササ」薊野店オープン。1999年、同じく季節のケーキ「フリュイティエ ササ」六泉寺店をオープン。2000年に有限会社マンジェ・ササを設立、代表取締役オーナーシェフに就任する。2002年に「マンジェ・ササ」高囀Xをオープン。2004年に「レストラン ボナペティ」をオープンし、圧倒的な知名度を有するようになる。

奥田政行氏との出会い。

「予約の取れないレストラン」、やがてそういう肩書もつくようになる。嬉しい反面、笹垣には、悩みがった。がむしゃらに走りつづけているが、それでいいのか、という迷いである。
「経営セミナーなどに顔をだすようになったのは、この時です。もともと60席あった椅子の数も、24席まで少なくするようなこともしました。しかし、まだこれだという答えに辿りつけません。しかし、ある日、ブラウン管の向こうに、その答えが映し出されていたんです」。
これが、奥田政行氏との出会いだった。情熱大陸という番組で取り上げられた奥田氏の考えに魅了されたのだ。すぐさま奥田氏の下を訪れた。
「君って、君のことしか考えていないよね」。奥田氏は、笹垣にそういった。奥田氏は、いうまでもなく山形で「アル・ケッチァーノ」などのレストランを経営するオーナーシェフである。「ぼくはね、庄内の人のために料理をつくっているんですよ」。
その一言が、笹垣を貫いた。「誰のため」、想像もしなかった答えがあった。
「それからですね、店のほうはぼくがいなくても大丈夫だったんで、4年半、奥田氏の付き人をしました」。奥田氏について、いろんな経験をした。もし、奥田氏に出会っていなければ、高知の人気店のオーナーシェフで終わっていたことだろう。本人は、「いまだ高知で高級車を乗り回しているだけだろう」と言っている。
「2009年には、スペインのサンセバスチャンで行われた世界料理大会に連れていってもらいました。その時、奥田さんが高知のものを持ってこいとおっしゃっていたんで、高知のゆず胡椒を乗せたチョコを作り、ふるまったんです。それが翌日の新聞一面に、もっとも印象に残った料理という見出しでデカデカと載っちゃたんです」。
奥田氏といることで、活動のエリアも広がった。2012年には千葉県柏市と東京スカイツリーでのパティスリー開業をプロデュースする。
「スカイツリーで、高知のマンゴーを使ったんですね。でも、農家さんにとっては、最後のマンゴーだったんです。もう、農家を辞めようとされていたんですね。でも、嬉しいことに、これがきっかけになって評判になり、いまではハウスの数を増やすまでになっているんです」。
奥田氏に師事することで、生産者の想いが染みわたってくるようになっていた。生産への思い入れだけではない。現実的な話もある。
「5年前には栗農家の人から、もう辞めようと思っているんだと言われました。その時、拳銃を突きつけられているように感じたんです」。
経営がままならない、そういう問題も農家の人々は抱えている。使う食材がなくなってしまう。それでいいのか、という無言の声。それを笹垣は拳銃を突きつけられたと表現する。

生産者の想いを洋菓子に託して。

食材をつくる農家の人。その人たちの想いが料理のなかで生きている。そもそも、おいしい食材をつくってくれる農家の人がいなければ、料理は一つもできないことになる。そのことに気づいたことで、ますます笹垣の目は高知に向かった。ただしくは、高知の農業ということになる。
「サンセバスチャンの世界料理大会で、私が作ったチョコが、翌日、新聞の一面にデカデカと載ったでしょ。あれは、私のちからなんじゃないんです。間違いなく『ゆず』をつくってくださった生産者のちからなんです」。
もう一度、簡単な年表でその後を追ってみる。2009年、サンセバスチャン世界料理大会に出場。2011年、再度サンセバスチャン世界料理大会に出場。2012年、スイスダボス会議 料理人に。同じく2012年、キッザニア オークビレッジ柏の葉パテスリー顧問に就任。東京スカイツリー ファミレード ドルチェ監修、淡路島野島スコーラ監修。そして、2013年 KITTE GRANCHE店、自由が丘店をオープンする。
「自由が丘はお菓子の聖地」と笹垣。この自由が丘でどこまで評価されるかが、今後を占う一つのバロメーターになるだろう。
しかし、その行方がどうであれ、笹垣の心は決まっている。地元含め、生産者・農業の活性のため、尽力を尽くすこと。それが生涯を賭けたミッションであるということだ。
四国のそう、小さな田舎の村で時代に取り残されたように育った少年、少女たち。そのなかから、東京でも人気のシェフが生まれた。
東京でも人気のシェフだが、そのシェフの目は、いまも田舎の風景に向いている。そこがいい。

思い出のアルバム
 

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