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第410回 NOBU TOKYO オーナーシェフ 松久信幸氏
update 13/11/26
NOBU TOKYO
松久信幸氏
NOBU TOKYO オーナーシェフ 松久信幸氏
生年月日 1949年3月10日
プロフィール 材木商の三男として埼玉県で生まれる。1987年にビバリーヒルズに「Matsuhisa」を開店。日本料理に、西洋、また南米料理のエッセンスを取り入れることで注目され、ハリウッドのセレブたちを魅了。7年後の1994年8月には、俳優ロバート・デ・ニーロ氏の誘いに応え「NOBU New York City」をオープン。2000年10月にはデザイナーのジョルジオ・アルマーニ氏とパートナーシップを組み、イタリア・ミラノに「NOBU Milan」をオープン。近年、もっとも話題になったシェフの1人である。全米ベストシェフ10人<Food & Wine紙>や全米「味」部門1位<Zagat Survey>に選ばれているほか、2005年には「TIME」紙のAsia’s Heroes” を受賞。「NOBU London」はミシュラン一つ星を獲得している。
主な業態 「NOBU TOKYO」「NOBU New York City」「NOBU Milan」「NOBU London」
企業HP http://www.nobutokyo.com/
松久信幸
公式サイト
http://www.nobumatsuhisa.com/
小学校に上がるなり父を亡くした。だからだろう、父と触れ合った記憶は少ない。「だけど、一つだけいまも私の記憶に鮮明に残っているものがあるんです」。そう言ってみせてくれたのが1枚の写真だった。「友だちが、父さんとキャッチボールをしていたりするのを見るたびに、私もアルバムをめくってよくこの写真を見ていました。父は木材関係の仕事をしていて、これはラワン材の買い付けのためにパラオに行った時の写真です。現地の人といっしょに映って笑う父をみて、その度にいつか私も海外へと思っていたんです」。父が行った海外。それは、少年松久と父をむすぶ接点であり、希望だったのかもしれない。

世界の、「ノブ」。

ハリウッドスターであるロバート・デ・ニーロ氏。日本でも有名なこの映画俳優が、松久をスターダムにのしあげた。1987年にビバリーヒルズに「Matsuhisa」をオープンした松久は、たちまちハリウッドの著名人たちを魅了する。そして7年後、ロバート・デ・ニーロ氏に誘われ、共同出資でニューヨークに「NOBU New York City」をオープンするのである。この店が、松久をスターダムにのしあげるきっかけとなった。
ちなみに2000年10月にはデザイナーのジョルジオ・アルマーニ氏とパートナーシップを組みイタリア・ミラノに「NOBU Milan」をオープン。その後も、世界各国の著名なローカルパートナーと組み、出店。いまや「ノブ」の名は世界中で知れ渡っている。
今回は、この「世界の」という冠も大げさには聞えない「ノブ」こと、松久信幸氏にインタビューさせていただけるという「幸運」に出会った。

おばあちゃんに育てられ。

「私は、4人兄弟の末っ子。長男とはひと回り離れていました」と松久は語る。父は木材商で、もともとは深川で仕事をしていたが、戦時中に家族とともに埼玉に疎開。そこで、松久を授かった。ところが、松久が小学校に上がるとすぐに父は他界。4人の兄弟と、母と祖母が残されてしまった。
「長男が大学進学をあきらめ、父の代わりに仕事を切り盛りします。私にとって長男は怖い兄で、ある意味では父のような存在でした」。
父の事業は長兄と母に引き継がれ、かたちは残したものの、けっして裕福ではなかったようだ。母はもちろん兄弟たちも、まだ幼い少年に目をかけている暇もなかったことだろう。
「私は、おばあちゃん子なんです。おばあちゃんに育てられたようなもんですから」。この祖母は、明治生まれ。優しい人だったが、厳格で、松久にとっては怖いおばあちゃんでもあった。
「当時は、靴というのがなくって、裸足か下駄なんです。で、しょっちゅうケンカもして。私がケンカに負けて泣いて帰ってくると、祖母が怒りだすんです。『どうして、おまえは下駄を履いているんだ』って。最初はなにを言っているのかわかりません。つまり、こういうことだったんです。『何故、ケンカをして泣かされているのに下駄を履いて帰ってきたんだ。どうして、その下駄をぶつけて帰ってこないんだ』と(笑)」。
祖母は負けずぎらいの人だったのだろうか。それとも、父のいない松久を思っての、切ない怒りだったのだろうか。
この祖母は、松久に「影、日なたのある人間にはなるな」とつねに教えてくれた。「ごめんなさい」「ありがとうございます」を大事にすることも、口酸っぱく諭してくれたそうだ。ともかく少年の日々の記憶にはいつも祖母の姿がある。

1枚の写真と鮨屋と。

祖母とは別に、松久のなかにはもう一つ鮮明な記憶がある。すでに書いた通り、父の写真をみながら、いつか海外へと思った思考の記憶である。
松久が小学生というからには10歳ぐらいのことで、1959年前後のことである。為替はまだ1ドル360円で、海外に行く人は数少なかったはずである。そんななか、海外で現地の人と映る父の写真は、少年にとって何よりも誇らしいものだったのかもしれない。
ともあれ、少年松久はまだ自然が豊富に残る埼玉で、土手を駆け、山を走るわんぱくな坊主でもあった。「まぁ、埼玉でも有数の健康優良児だったわけです」と松久は、昔を思い出し笑う。
そんな松久に一つの転機が訪れたのは、1軒の鮨屋ののれんを潜った時のことだった。「長兄にはじめて鮨屋に連れていってもらった時のことです。鮨屋という別世界に、魅了されたんです。そう、きれいなカウンターにも、ガリという用語にも…」。異次元に迷い込んだ気がしたのかもしれない。ほどなく「鮨屋になる」というのが松久の目標になった。

奇跡と、終わりと始まり。

中学の松久少年は勉強はイマイチだったが、健康優良児そのもので、バレーボールやソフトボールの大会ともなれば、決まってメンバーに指名された。高校は、次兄と同じ工業高校。40〜50分かけ、大宮にあるその学校へ通った。問題を起こしたのは、3年のとある期末試験。勉強のリフレッシュにと、次兄が買ったばかりの車を拝借して友人たちとドライブに行った。そのとき、大きな事故を起こしてしまう。車はもちろん大破である。だが、松久を含め、搭乗者はすべて無事。奇跡の出来事だった。
「それが学校にもばれて、それで学校を辞めなければいけなくなったんです」。
悪いのは己といえ、思わぬ岐路に立たされてしまった。
「でも、結局、それが次のスタートとなるんです」。地元の鮨屋の大将が、都内の鮨屋を紹介してくれた。「鮨屋になりたい」という淡い思いが、リアルな思いとなる。
「新宿二丁目の『松榮鮨』というお店です。家族で経営されていて、住み込みではたらきました」。
高校3年生といえば17歳だろう。下働きにも、しがみつき、7年が過ぎた。「2年間は、皿洗いです。ホームシックも経験しましたし、何より同級生がうちの店にきて、私が皿洗いをしているのをみられたのが辛かったですね。でも、そのうちの一人が『いつか松久が握った鮨を食べたいって』いってくれて」。
素直な心で、小さな声援にもしっかり耳を傾ける。これが、松久の一つの生き様のようだと思う。松久は、いまも「感謝」という言葉を大事にする。それは、松久が1人ではなく多くの人に支えられ、生きてきた証でもあるのだろう。同級生の一言は、松久を何より励ました。
そして、7年目。松久を応援するもう1人の人間が登場する。「日系のペルー人です。黒こしょうで財をなした方の息子さんで、からだが悪く、向こうが冬になるたびに日本にいらしていたんです。その方が、私を気に入ってくださって、『ペルーでいっしょに店をやらないか』と誘ってくださったんです」。
「ペルー」。みたこともない風景が、目前に広がってきた。父が残した1枚の写真が、松久の背中を押した。「いままで育ててくださった大将には申し訳ないと思ったんですが、話をすると『わかった』と言ってくださって。それで、結婚したばかりの女房を連れて、海を渡りました」。
ペルーといえば、ちょうど日本の裏側。これが松久24歳の時のことである。

ペルーをあとにする。

ペルー時代は、松久にとって何より楽しい時代だったのではないだろうか。何しろまだ若い。チャレンジ精神旺盛な松久は、日本食だけにととまらず現地の食材で、現地の食文化も旺盛に取り入れていった。これが、のちに松久のオリジナル料理の原点となる。
ペルーで与えられた大きな家、初孫の出産に立ち会うため、母が地球を半周してやってきてくれた。共同出資とはいえ、100席ある店は、松久の初めての城でもあった。
かつての後輩、友人も呼び、奥さまと4人、暇があればスペイン語と格闘した。夢を持った男3人と奥さま1人。いつも真ん中に奥さまがいて、笑いがたえなかったそうである。しかし、いいことはそう長くつづかなかった。
店をオープンして3年目、あるミーティングの席で、ペルー人パートナーの兄弟たちが「もっと安い魚を使って利益をあげろ」と迫ってきたのである。料理人、松久にすれば心外な話である。料理を冒涜する話でもあった。しかも、彼らは酒を飲み、酩酊していた。
「もっと安い魚を使え、そうすればもっと利益があがるじゃないか」。これが彼らの主張だった。欲が出たとしかいいようがない。
松久には悪いジョークにも聞こえなかった。松久が若かったこともあったのだろう。
笑っていることができた時間は、限られていた。松久は、テーブルを叩いた。
「そこまで馬鹿にされるのであれば、と辞める決心をしました。次のあてなどあるわけはありませんが、大人しく、打算的に生きることはできなかったんです」。
せっかく手に入れた幸福。しかし、その幸福が、まだまだ砂上のものだったと知った瞬間でもあった。松久は、ペルーをあとにする。

アルゼンチンへ。

ペルーの首都はリマ。アルゼンチンの首都はブエノス・アイレス。これはたぶんたいていの日本人が知っている。だが、ペルーとアルゼンチンがどこにあるのか正確に知っている人は少ないのではないか。
松久にとってもどれだけの知識があったのだろう。ペルーの店を出ることになった松久は、ペルーの日本大使館の方から紹介され、またもや異国に渡ることになる。しかし、国をまたいでまで新天地へ向かった松久だが、ラテン系特有なのだろうか、のんびりした店で、客は1日に1〜2組。これでいいのか、と仕事を渇望するようになる。
「それでいったん家族とともに、日本に戻りました。お世話になっていた先生からもそう勧められたものですから」。
すでに2人目の子どもも生まれていた。埼玉で鮨屋をやっている友人に世話になり、食べることはできたが、ペルー時代から考えれば小屋のようなアパートで寝起きした。27歳。4年間、海外で戦ったが、結果はついて来なかった。
いつかもう一度、とも思ったが、その思いを言い出すにも勇気がいった。
「妻が、否定するとは思いませんでしたが、しなくてもいい苦労を強いるという思いがありました。だから、アラスカに行く時は、もう一度だけ、これが最後のチャレンジだと自分にも言い聞かせて、出かけていくんです」。
そう、最後の賭けのつもりで、松久は、もう一度空のうえの人になった。向かうのは、アラスカ、アンカレッジ。

失意のどん底。

アラスカは、アメリカ合衆国の州である。とはいえ、地図でみるとカナダを経て飛び石のようなところにある。緯度も高く、日が沈むのも早い。むろん、極寒でもある。ラストチャンスだと、アラスカに渡った松久は、店の工事まで手伝いオープン日を迎える。10月初めがオープン日である。緊張のなかで迎えたが、最後の賭けに勝ったと思えるほど客が殺到した。盛況ぶりは、その後もつづくことになる。
しかし、オープンして50日目のこと。「その日は、Thanks Giving Dayという日で、初めて店も休んで、友人宅で酒を飲んでいたんです。そのとき、当時のパートナーから電話が入って」。
「店が燃えている」という。悪いジョークはよしてくれ、といった口が固まった。「アンカレッジは小さな町です。たしかに向こうで火の手が上がっていたんです」。
「もう、失意のどん底です。水すら飲めなくなってしまいました。あの時、無邪気に笑う子どもたちがいなければ…」。
もう、死ぬしかないと考えていたそうだ。どうやって死ぬか、そればかりを考えていたという。「あのとき、妻がずっといっしょにいてくれて、そして娘たちが無邪気に笑ってくれて。そう、長女のキャハハハ、という笑い声で目が醒めたんです。もう一度、そうもう一回、やってみようって」。
ともあれ、ペルー、アルゼンチン、そしてアラスカ。ことごとく失敗。アラスカでは天にも見放された思いだっただろう。そんな失意のなかで、アラスカをあとにすることになった。
ちなみに、松久一家は、このあと日本に戻るのだが、キャッシュがなかった。
「あの時は、JALパイロットの石津さんという、VANの創業者である石津謙介氏のお甥っ子さんなんですが、彼が家族ぶんの航空チケットと500ドルをキャッシュで貸してくれたおかげでなんとか、日本へ帰国することができたんです」。
またもやだれかが、手を差しのべてくれた。懸命にはたらく人間には、だれかが手を差しのべてくれる、松久がそういうのも頷ける話である。

ロスへの逃亡。

しかし、帰国したからといって、すべてがリセットされるわけではない。将来の道は閉ざされかけ、日々の生活費もままならない事態となっている。
「あの時は、妻と子どもを女房の実家に預けて、私はたった1週間日本にいただけで、飛び出しました」。
行先はロス。ただし、今度は、日本にいたたまれず逃げ出すような格好だった。
「知り合いから、6席ほどの鮨屋を紹介してもらいました。大将は厳しい方だったのですが、それこそクレジットカードの取り方など、アメリカで生きていくうえでのノウハウをしっかり教えてくださいました」。
車も、安く譲ってくれた。厳しいが優しいオーナーだったのだろう。しかし、その車はすぐに盗まれた。なんとか自転車を買ったが、そちらもすぐに盗まれる。踏んだり蹴ったりである。
「アラスカの時から、やることなすこと裏目ばかり。だれかが悪いのではなく、ぜんぶ自分の責任だと思いました。でも、自分の責任なら、なんとかできる。とにかく1日1mmでもいいから前に進もうと覚悟を決めることができたんです」。
人生の崖っぷちで、悟りを開いたかのように、心は平常心だった。一度、死のうと思って死ねなかった。生きると決めた以上、生きてやる。一歩でも、前へ、1mmでも先へ。

壁を乗り越えろ。壁はいつしか低くなっている。

その後の、松久の活躍ぶりは、多くの人が語っている。1987年にビバリーヒルズに「Matsuhisa」を開店した松久は、たちまちハリウッドのセレブたちを魅了。
7年後の1994年8月には、俳優ロバート・デ・ニーロ氏との共同出資で「NOBU New York City」をオープン。2000年10月にはデザイナーのジョルジオ・アルマーニ氏とパートナーシップを組み、イタリア・ミラノに「NOBU Milan」をオープンしている。その後も、世界各国のローカルパートナーと組み、出店。2013年9月現在、店舗数は、25店舗におよぶ。日本でも、虎ノ門で、世界の「ノブ」を堪能できる。
ついでに挙げておけば、全米ベストシェフ10人<Food & Wine紙>や全米「味」部門1位<Zagat Survey>に選定されているほか、2005年には「TIME」紙のAsia’s Heroes” を受賞。「NOBU London」はミシュラン一つ星を獲得している。
そんな世界でも、もっとも著名なシェフ「ノブ」に改めて、生きるということ、戦うということについて伺ってみた。
文章としてではなく、言霊として届けたいと思ったので、松久の言葉をそのまま羅列する。

 <若者たちへの松久信幸のメッセージ>
「私も若い時は夢を追いかけたが、現実に夢は見えないものだから、自分自身がどの方向に向かっていったらいいのかわからず、たまらなく不安になった時もある」
「64歳を過ぎて、ようやく自分のやってきたことが間違っていなかったと思えるようになった」
「私はいまでは、若い人たちにアドバイスする立場にはあるが、それぞれ若い人が、自分の夢を目指して、まず実際に行動することが大切だと思う」
「当然、進めば、壁にぶち当たる。そしてその壁を乗り越えていく勇気を持ち、努力をすることが一番大切なことではないかと思う。壁を乗り越えられるのは、本人の力だけなのだから。できないと諦めた時点でその人の夢は断たれてしまう」
「夢を追いかけるということはただ単に階段を上っていくのとはわけが違う。目の前に立ち塞がるさまざまな障害を自力で乗り越えなければならない。失敗もする。ただし、その失敗から学んだことが、障害を乗り越えるうえで貴重な経験となることはいうまでもない」
「私の場合、若い時、周りに素晴らしいアドバイザーが何人もいた。その方々のアドバイスを聞いて、素直に従った。アドバイス一つで、人生は大きく変わる。素直に聞く耳を大切にすることだ」
「情熱を持って、一生懸命、前に進んでいく人には、サポートしてくれる人が必ず現れる」
「答えは二つに一つしかない。やるかやらないか」

松久は、こうも言っている。
「苦しい時期を乗り越えたという自信はあります。人間は生きている限り壁にぶちあたるもの。乗り越えたとしてもまた前に別の壁がある。しかし乗り越えるたびに自信がつき、いろいろなことを経験し成長することができるんだと思うんです。だから、壁というのは年を取る毎にだんだん低くなっていきます。そしてこの壁を乗り越えていくことが、生きていくことなのではないかと思っています」
これからについては、
「周りに私を一生懸命、支えてくれた人がいたおかげで今の自分があるのもたしかです。そのような環境にいたこと自体を『幸せ』と感じています。だから今度は、私が次の世代の人たちを幸せにしてあげたい。そうすることがいまの自分の夢なんです」
夢に向かって歩く。そして、障害を乗り越える、その一つひとつが人の生きている証であり、成長の証。松久信幸氏の話を聞いて、人の喜びや成長という言葉の意味を改めて理解できた気がする。

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