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第412回 株式会社玄海 代表取締役社長 矢野賀也氏
update 13/12/10
株式会社玄海
矢野賀也氏
株式会社玄海 代表取締役社長 矢野賀也氏
生年月日 1979年6月11日
プロフィール 新宿に生まれる。曾祖父が開業した老舗料理店、水炊き「玄海」にて育ち、職人たちの息遣いを知る。獨協大学経営学部卒後、いくつかの社会経験を積み重ねたのちに「玄海」へ。入社後は、老舗の料理店の改革に奔走。2013年4月、現職の代表取締役社長に就任する。
主な業態 「水たき 玄海」「玄海食堂」
企業HP http://www.genkai.co.jp/

水炊き「玄海」の始まり。

水炊き「玄海」の歴史はもう1世紀近くになる。創業者の曾祖父が九州で自転車屋を開業したのが、その始まりだそうだ。
「当時は、あのブリヂストンさんとも張り合っていたそうです。曾祖父は九州から東京に進出した時に、九州の郷土料理でもある水炊き屋を開業します。それが直接的な意味で『玄海のはじまり』です」。
品川で開業した「玄海」は、すぐに有名な料理店となり、官僚たちも訪れる名店となる。何でも、二・二六事件の討議は「玄海」で行われたのではないかと当時からささやかれていたそうだ。
「もともと昭和3年に<博多水炊きを中心とした料亭>として品川で創業するんですが、昭和12年に軍に土地を取られ、それでいまの新宿マルイメンズ館がある土地に引っ越したんです」。
ホームページに「昭和14年5月 新宿に本店を開く」とある。こちらが、この時のことだろう。ちなみに昭和42年1月に新宿本店別館、昭和53年10月に亀戸駅前ビル店開店(多店舗化第1号店) となっている。
何かあればすぐ駆けつけられるようにと店舗と住まいを共有していた矢野家が、店舗を離れて暮らしはじめたのは、昭和56年5月、新宿にGYビル(自社ビル)を完成させ、建物内に社員寮を開設した時からである。

ボンボンの少年時代。

「典型的なボンボンだった」と、矢野はいくぶん後悔の響きを含ませながら笑う。小さな頃から従業員に囲まれチヤホヤされてきた。教育には人一倍熱心な母だったが、一人息子にはどこか甘かったのだろう。
「何をやっても長つづきしない。イヤになったらすぐに辞める。そんな性格です。そう、ボンボンですよ、典型的な」。
小学校から私立の「暁星小学校」に入学。受験しないでもエスカレーターで「暁星高校」までのぼる道ができた。「中学から強烈な反抗期に入った」と矢野。
ただし、本格的にグレる勇気もなかったそう。ハンパな生き様。矯正しようともしたが、すぐに甘えの虫が騒ぎだした。
「ボンボン」だからこその、葛藤。でも、自ら「ボンボン」の特権を手放す勇気もなかった。そんな矢野が、かわったというのは、大学時代。「2年生の後期、ゼミに入ってからだ」という。どんな心境の変化があったのだろうか。

獨協大学でマーケティングを専攻する。

中・高と、まったく勉強しなかったが、大学には、からくも滑り込んだ。
「反抗したといっても、事業家・経営者である父を尊敬していましたので、私は大学で『経営学』を専攻します。2年の後期からゼミに入るんですが、そのゼミで『マーケティング』を学び、俄然、興味がわいてきたんです。いろいろな経営者の方とお会いして、視野も広がります。いままで何ひとつ打ち込むことがなかった私が、この頃から少しずつ、何かに打ち込むようになったんです」。
大学生になった息子に、父は会社の状況を良く話してくれたそうだ。
「うちの店に入れとはいいません。どの道に進もうが、『とにかく聞いておけ』と。教訓となると思ったのでしょう。業績が厳しくなり、戦友のような従業員を切らざるをえなくなったというリアルな話も耳にしました」。
話を聞かせても、まだ学生の矢野にすべてを理解することはできなかったに違いない。しかも、父はまだ矢野に、『3代目店主の席を譲る』と一言も言っていないのである。
矢野自身がどうあるべきか、どう進むのか、その答えを父が催促しているようにも思える。大学卒業。矢野はどんな道を選択するのだろう。

フリーターになれ、父からの指令。

「就職のことを相談したわけではないんですが、父から『玄海に入ることも、ほかの会社に就職するのもかなわん』と(笑)。じゃぁ、何をすればいいのかと問えば『飲食店でアルバイト』をしろというんです。フリーターになれって話です。それで、底辺の仕事を経験しろというんです」。
底辺の仕事。矢野は父に言われるまま、新宿の有名な、ある飲食店に入り、アルバイトを開始する。ゴミだしも、御曹司である矢野の仕事だ。
「身分を隠して、洗い場に立ち皿を洗って、ゴミだしに奔走した」と矢野。大学卒のフリーター。周りからは冷ややかな目で観られた。大学で人間性がかわったといっても、自称「ボンボン」は、汗を流すことの意味をまだ知らなかった。
結局、2ヵ月ももたなかった。それが、現実だった。
今度は、<お弁当とお惣菜の店>ではたらいた。こちらは1〜2年。ただ、「なにをやっても、得るものがない」「かしこくなった気がしない」と、またまた贅沢なことをいう。
大学の先輩に誘われ、地方にある日本酒や焼酎の蔵元の「東京事務局」をやったのは、そのあとのことだ。

新たな転機。

大学の先輩に誘われた会社は、某大手化粧品会社のトップセールスだった人が立ち上げたコンサルティング会社だった。マーケティングに興味があった矢野にとっては断る理由もない。「親父がいう、汗水たらすのは、あとでいい」。
「飲食ではたらくこと」も、「コンサルティング会社ではたらくこと」も、「はたらく」という意味では同じである。にもかかわらず、矢野にとって前者は「一時代前の産業」と映ったに違いない。はたらくなら、後者だ。そちらのほうが格好もいい。汗水の代わりに、ブレーンとして頭脳を駆使する。クライアントからは、それだけで尊敬もされるはずだった。
しかし、現実はそう甘くなかった。
「当時、地方にある蔵元は東京に事務局をつくることができなかったんですね。それで、その時、私がいた会社が彼らに代わって『東京事務局』をつくり運営していたんです。相手は、地方の蔵元のオヤジたちです。情け容赦ありません。何かを知らないだけで、『そんなこともしらんのか!』と。頭を何度も何度も叩かれました。彼らが、さんざん悔しい思いをさせてくれたおかげで、私も、目が醒めたんです。悔しいから、とにかく本を読み漁り、笑われないよう、知識を増やしていったんです」。
「ものごと」に必死にかじりつく。むろん、矢野には初体験。その初体験は、蔵元の店主たちからの「信頼」の二文字に、転換されていった。
「その仕事を始めて2年ぐらいの時。私が25歳の時に、『そろそろ』という話が会長となった父から、告げられました。とはいえ、『玄海』に入るといっても、飲食店はもちろん、日本料理店でちゃんとはたらいた経験もないわけですから、1度は経験しておかなければと、ある有名な割烹でお世話になりました。今度も身分を隠して、下っ端の仕事からです」。
料理の世界である。最高峰にいくほど理不尽な世界でもある。この店の親方も、例にもれずの人だった。しかし、その一方で、客に対する熱い気持ちを持った人だった。
「この時の親方に出会ったのは、私にとって何より大きな収穫でした。料理人との付き合い方、客との接し方もすべて勉強させていただきました」。
ただ、そう長く在籍したわけではなかった。半年。今度は逃げ出したのではなく、高島屋に進出していた店のリニューアルがあり、そのタイミングに合わせて『玄海』に入ることになったからだ。
はじめて、従業員として「玄海」の暖簾を潜った。

玄海、入社。

先に進む前に「玄海」の軌跡の少し。創業者である曾祖父の跡をついだのが、矢野の父。医師だった祖父は、息子である矢野の父に家業である「玄海」任せ、自らは医師業に専念する。一方、慶應大学を卒業した父も、もともとは「玄海」ではなく、大手ビールメーカーへ行く予定だったそうだ。
だから、「店を継ぐ」という意思は、祖父にも、父にもない選択だった。
父が、卒業後してすぐさま矢野を「玄海」に迎え入れようとしなかった理由も、案外、こんなところにあるのかもしれない。
ともあれ、矢野の父は曾祖父の跡を継ぎ、だれかにバトンを渡す役目を担っていた。息子に譲るとは、ハナから決めていたわけではないのだろう。
「父は早くから代替わりを意識していました。曾祖父が長く経営の最前線にいたこともあって、逆に早く退き、若い者たちに任そうと考えていたわけです。私が、入社した頃、そういう理由で父は会長となり、部下の落合さんに社長の座を任せていました」。
「創業者のひ孫であり、会長の息子ではありましたが、落合さんは私の立場を理解しつつ、うまく育ててくださいました。最初に言われたのが、『ともかく実績を残してくださいね』ということでした(笑)」。
4代目、社長。3代目、当主。正確にいえば、その候補が最初に配属されたのは、新宿高島屋14Fの「玄海」である。リニューアルオープンに合わせて赴任した。

待っていた試練。

新宿高島屋は、もともと本店に匹敵する「玄海」の旗艦店だった。日本中が、レストランブームに沸いた頃には、連日、満席という月も少なくなかったそうだ。
ところが、百貨店のレストラン街に陰りが差すようになる。そうなると「玄海」単店だけであらがうのはむずかしかった。リニューアル前には、「立て直し」という言葉も使われだしていた。
コンサルティング会社も入れ、もう一度、ゼロからビジネスをデザインし、「釜飯」から、玄海の看板である「水炊き」に業態転換した。
そして、新宿島屋の改装に合わせ、2006年12月3日に玄海もリニューアルオープンするのである。
「リニューアルオープンした当初は、大賑わいでした。しかし、店長も、ホールの責任者の私も、『初の経験』だったんです。店長は、会社初の女性店長。むろん、店長は初めての経験だと聞きました。一方、ホールの責任者の私ときたら、接客すらまともにやったことがない素人です」。
「最初から、クレームの嵐です。そりゃそうです。スタッフの心もバラバラで、行き当たりばったり。私たちがどうあるべきか、なにをめざすのかもない。アルバイトたちも辞めていき、50席の店に店長と、私と、もう一人しかいなくなりました」。
「店のなかが、きしんでいました。店長は50代。若いアルバイトと話すのはもっぱら私なんですが、店長と彼らの間に入ることで、ますます店を一つにまとめることのむずかしさを知ります。これでは、もうだめだと思って」。
矢野が店の先頭に立つつもりで、会長に直訴した。「俺を責任者にしてくれと」。
その言葉は、矢野自身の改革のはじまりでもあった。
矢野は次のように言っている。
「どんな道を歩んでも、<きっかけ>をつかめば人生はいつでもかえることができます。過去のどんな経験も、その気になれば、必ず活きるものなのです。人生は自分次第である。若い人には、そのことを理解してもらいたいと思っています」。
「俺を責任者にしてくれ」。この一言は、矢野がそのきっかけをつかんだことを意味する。
またこういう風にも言っている。
「玄海に入る、という段になって私は、日本料理店に入りました。これは私の意志です。そういう意志で動き出すと、風景もかわります。スタッフに怒鳴り散らしていた店主が、裏口から抜け出し、あいさつする。その姿が、尊く映ったのも、私の見方がかわったからでしょう。マーケティングに興味を持ったことも含め、昔のさまざまな点が、最後に線をひくと一つになるように、あの時、私のすべてが1つになった。そこで、生まれたのは、点を落としてくれた人たちへの感謝の気持ちです。このあと私は、父から期待していた言葉ではなく、『厨房に入れ』と言われるのですが、その意味もすぐに理解しました。責任者クラスになってから料理を勉強することはできないから、父なりに私の覚悟を知って、異動させてくれたんです。この経験も大きな財産になりました。そして、半年後には、もう一度高島屋に戻り、指揮を執ることになります。ここで、もう一度、試練に会いますが、今度は、全力で立ち向かうことができました」。

チーム矢野。いままで玄海になかった組織。

さて、それから。 「指揮を執る」といってもあいかわらず2番手。昔からの習慣が、若手の矢野を責任者にすることを拒んだ。しかし、そうとばかりはいってられない時が来る。リーマンショック。「玄海」だけではなく、高島屋14Fのフロアに人がいなくなった。
「あの時、はじめて存亡の危機というのを感じました。それまでは、いっても老舗、いっても昔からの信用があるわけですから大丈夫だろうと。しかし、あの時は、そういうのを簡単に吹き飛ばしてしまうぐらいの落ち込みでした。何しろ、フロアにお客さんがいないんですから、どうしようもありません」。
「もう、遠慮している時ではない」と思った。「店長を俺に替えてくれ」ともう一度、父である会長に迫った。条件もだした。
「半年間で、FLコストを60%未満にする。できなければ、もう一度、皿洗いからスタートする」と。うそではなかった。それだけ、開き直ることができた。これを覚悟という。
「当時、お恥ずかしい話ですが、FLコストは75%ぐらいあったんです。もともと売上の想定が高く、切り詰めようもなかったんです。それを60%以下にする。これはたいへんな作業です。がんばってくれていたアルバイトたちにもきびしい話をしました。『君たちアルバイトの時給もあと2ヵ月したら、200円下げるから』と。「2ヵ月でほかのアルバイトを探してくれ」という思いだったんです。もちろん、全員、辞めると思っていましたから、改めて採用広告も出稿しました。ところがです。1人も辞めなかったんです。それどころか、その時、採用したアルバイトたちも加わり、みんなが店の改革に取り組んでくれるわけです」。
チーム、矢野が結成される。いままで「玄海」になかった組織である。
「代わりにベテランの人たちには残ってもらえませんでした。ただ、さまざまな改革はもう待ったなしで、『玄海』が生き残るには、改革を推し進めるしかなかったんです」。
半年もかからず約束の60%を達成する。
売上は、伸びなくても利益がでる体制が整っていく。同時に老舗「玄海」が新たな姿を現しはじめたと言えるだろう。

3代目当主、4代目社長の改革。

2013年4月、矢野は落合氏からバトンを引きつぎ、4代目社長に就任。曾祖父から数え、3代目の当主となる。しかし、血族で事業を引きつぐこと自体、矢野からすれば時代遅れなのかもしれない。当主、社長となり、更に改革の狼煙を上げつづけた。
「げんかい食堂」というブランドがある。こちらは、もともと水炊きを提供していなかった。「『「げんかい食堂」』は、廉価なブランドだったんです。だから廉価の店で、創業からの「水炊き」を提供することに抵抗があったんです」。
その不合理なルールも、あっさり捨てた。しかも、廉価なブランドだからと、価格も下げて提供した。
グルメサイトで確認したところ、一般的にはけっして安くない料金だったが、それでも、高得点がついていた。
「将来的には、水炊きを横文字にしたいですね」と矢野。新鮮でおいしい日本料理を海外の人に知ってほしいという思いがある。
そういえば、玄海は2013年11月3日で創業85周年を迎える。100年企業に向けていよいよカウントダウンがスタートする。
「この15年が、玄海にとって大事だ」と矢野は、前を向いている。85年の軌跡を、将来につむいでいくためにも。
もちろん、15年後がゴールではない。100年という区切りの一つに過ぎない。だが、仮にその区切りを一つ目のゴールとすれば、ゴール手前がいちばん熱いのは、いうまでもないこと。
ただ、それを楽しむ心も生まれている。周りを見渡せば改革の実りもある。「いま店長などの要職についているのは、あの高島屋の改革の時に、いっしょに戦ってくれた連中なんです」。
もうだれも矢野をボンボンとは言わない。矢野は、立派な戦士になっている。そういう意味では、改革の総仕上げがいまから始まるのかもしれない。

矢野は最後に若い人たちに向け、メッセージを送ってくれた。
「私がそうだったように、若い頃から心を定め、それに向かってまっすぐ進める人は少ないと思います。仕事をするうえでも、日々、目的もなく、意味もわからず、失敗したり、逃げ出したりする。でも、人間は、かわることができます。」
「店を立て直そう。そういう目的があって、はじめて私は、みんなと<かわる、かわれるきっかけ>を共有できました。すると、その人間関係が財産となりました。すべにお話した通り、あの時、店をいっしょに立て直してくれた当時のスタッフが、いまでは会社の中枢となってくれています。自分の可能性を信じて、前向きに生きること。これは、だれにでもできることなんです。私の人生が、そう誰にでもできることを物語っています」。
矢野の半生を聞いたうえで、この話を聞くと、うつむいている顔が、自然とうえを向く。

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