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第413回 株式会社ピーノコーポレーション 代表取締役 松原博紀氏
update 13/12/17
株式会社ピーノコーポレーション
松原博紀氏
株式会社ピーノコーポレーション 代表取締役 松原博紀氏
生年月日 1977年9月11日
プロフィール 富山県下新川郡に生まれる。高校卒業後、飲食の道に入る。28歳で独立。黒部市と富山市で出店したのち、「本物のやきとん 筑前屋」のFC店で東京初進出。富山市を足掛かりにブレイクのキザシをみせる若手経営者である。
主な業態 「とやま物語」「花朝月夕」「花より魚」「筑前屋」他
企業HP http://www.pino-co.com/

元気に遊ぶ普通の子。

父は「型枠大工」をやっていた。仕事柄、バブル成長の影響もあり出張で家を空けることが多く、子どもの頃に父とゆっくり接したことは少ない。兄弟は松原を筆頭に3人。全員、男子。生まれは父方の下新川郡だったが、3人の男の子を育てるために、母方の実家である宇奈月町(現在は黒部市)に移り住んだ。
「当時はまだ祖母が旅館を経営していまして。宇奈月町は宇奈月温泉でも有名なところですから。大手企業の保養所みたいな感じでもあったんですが、そこに親子4人で引っ越してまして。父も、こちらにいる間は寝泊りするんですが、仕事が入るとまた出かけていくもんですから、あまり父に遊んでもらった記憶はないですね」。
「ばあちゃん子ですよね。母の体調のこともあったのですが、祖母が若かった事もありもっぱら祖母に面倒みてもらったりしてました。私はというと邪魔といたずらばっかりしていましたが(笑)遊び場は旅館の裏に山があったので、よくその山を駆け昇ったりして、山菜なんか採ったりして。そんなことばかりしていましたね」。
どこにでもいる普通の子で正直この頃は経営者になるなんてことは全く考えていなかった。
だが、自然と触れ合いながらすくすくと育ったことで、今の「素直さ」や「純朴さ」があるのかもしれない。

都会に憧れるようになるまでの話。

松原は、1977年、富山県下新川郡に生まれる。前述通り、しばらくして宇奈月町(現在は黒部市)に引っ越す。「引っ越したことで、急に大人しい性格になった」と松原。それでも中学時代には、陸上競技の中距離で優秀な成績を残すなど運動神経には恵まれていたそうだ。
「中学の時は陸上とスキーです。スキーは盛んで、クロスカントリーなんかは授業に組み込まれていました。そうですね、運動神経はいいほうで、スキーの大会にも出場しました。山には縁があって、私が中学生までは、家族で年2回は山に登っていました。父が好きだったんです」。
この頃から都会にも憧れるようになっていた。「TVで観て知っているぐらいでしたが、それでも、いいなと。だれもが思うようなことなんだと思いますが」。
大人になるにつれ、「都会」という刺激的な二文字が、少年のなかで大きくなっていった。

3日目で脱走。それまで、それからの話。

片道2時間。「自転車と電車を乗り継いで、それで毎日通っていました」というのは、高校時代の話である。部活をする時間もなかったが、それでもまじめに通学した。
「高校を卒業する頃には、進学よりも就職という希望を持っていて、それで、親の紹介で、ある大手企業に就職させてもらいました。とはいえ、工場のライン勤務です。勤務地も遠く、車で1時間半ぐらい。朝が早かったのもあったんですが、単純労働に付いていくことができず、1週間の研修が終わってから、3日後には脱走です(笑)。それからですね。ホームセンターなどでアルバイトをするようになり、少しずつ接客の仕事を開始しました」。
フリーターになった。派遣もやった。派遣の時には、大手メーカーから「正社員に」と誘われもしたが、もう富山の片田舎で終わるのもいやになっていた。だから、東京へ向かった。あては何一つない。
「友だちの家に転がり込んで。でも、なかなかうまい話はないんですね。モデルに応募してみたりして。で、いろいろあって、結局、大阪で就職するんです」。

大阪の街で。

ミナミの繁華街で働くようになった。「なかなか仕事が決まらなかった時、ホストの仕事を紹介されたんです。それで、大阪のミナミで働くようになりました」。
東京から大阪。不安を抱えながらも19歳の少年は、ミナミの街で暮らすようになる。
「まだ当時はオープンして1年ぐらいだったんで、それほどでもなかったんですが、のちに超有名な店になります。いまでは社長がカリスマとしてあがめられ、TVにも出演されているほどです」。
「その経営者は、普段から格好いい人で、私の今があるのは彼のおかげです。私よりたった2つ上なんですが、憧れの存在でした。ただ、彼から『ホストという仕事にプライドを持て』と教えられたもんですから、その店を辞め、転職するときに困りました。なにしろプライドを持っていますから、『前職、ホスト』と堂々と書いてしまっていたんです(笑)」。 
純粋な性格は、こういうエピソードにも表れている。
ちなみに、そのホストクラブを辞めたのは体調を壊したからだそうだ。給与はもらっては出ていくばかりだったが、仕事はけっしてつまらなくはなかった。憧れの彼から教わったおかげで、以前より積極的にもポジティブにもなれた。ここでも今の松原を形成する一つのパズルピースが出来上がった。成長を実感できたこともあり、経営者にも憧れていたが、結局、松原は大阪の街を離れることを決意する。
いつか20代で独立を、と思い始めたのもこの頃のことである。

独立までの話。

「田舎にもどって、回転寿司の店で店長をしました。飲食の経験なんてなかったんですけどね。「店長」ってかっこいいな!と思って(笑)飲食は最初抵抗ありましたけど、サービス業という意味では前職と変わらないですし、やってみたら楽しくもなりましたね。弟も一緒に働いていたんですが、弟はすぐ辞めてしまって。僕自身も一時、仕事を辞めて福岡にいったこともあったんですが、やりたいと思える仕事もなく、馴染めずに戻ってくることにしたんです」。
結局以前お世話になった会社に雇ってもらいまいた(笑)。そんなある日、すぐ下の弟から声がかかった。「にいちゃん、イタリアンをしないか」と。
「実は、辞めていった弟がその時はイタリアンレストランで働いていたんです。小さな店だったんですが、料理長が辞めてしまって。それで人手も足りなかったんでしょう。オーナーの奥さんとうちの弟、そして、私ということになりました。そのうちこの店でも店長を務めるようになります」。
最初は弟にパスタ・ピザのイロハを教えてもらったりもした。ばあちゃんに教えてもらっていたりして、魚はもう捌けるようになっていた。むろん寿司屋の経験もある。
「イタリア料理のほうが格好いいと思って、そういう単純な動機で始めたんですが、料理も任せてもらい、店長というポストも与えてもらって」。
「こちらの店では、以前の店とはまるで違ったんですが、回転寿司店でのマネジメントが役立ちもしましたね。そのうち、お店づくりから経営まで任せてもらえるようになり、ステップアップできたこともあり、だんだん飲食の仕事の奥深さに惹かれ、のめり込んで3年間続けましたね」。
様々な経験を重ね、目標であった独立がしっかりと固まってきたのもこの頃である。

黒部に生まれた小さな店が、経営者、松原の始まり。

「黒部の居酒屋ダイニング 花朝月夕」という店がある。
松原が28歳の時、はじめてオープンした店。つまり、松原の1号店である。最初は、18坪の小さな店だったが、スグに入りきらないようになり、いまではウェディングの1.5次会、2次会もできるスペースを持つまでになっている。言い換えればそれほどの人気店ということだ。
「最初は、イタリアンでいこうと思っていたんですが、焼き鳥も人気だし、ビールをだすと経営が安定すると助言をいただいて、それで、居酒屋ダイニングってことでスタートしました。たまたま黒部にいい物件があったもんですから。資金は、いつか独立と思って貯蓄していた分と、親からも少し借りて、合計1200万円でスタートしました」。
格好良くイタリアンで行きたかったが、背に腹は代えられない。懸命に働いた。それがいい結果を生んだ。黒部を本拠地に、富山市にも出店。
「地産食彩 越中舞華」「隠れ居酒屋 とやま物語」「富山すし居酒屋 花より魚」を富山市にオープン。成功の秘訣は松原の人脈や情熱からも来ているようだ。
「花より魚」は漁師である友人から「獲った魚をそのまま出すお店を持ちたい」という相談から始まった。自身の飲食ノウハウと友人との太いパイプで市場を通さず直接流通させる。そんな新しいスタイルを採用している。だから旨い。
そして、ついに東京にも進出した。
「こちらは、『本物のやきとん 筑前屋』さんのFCなんです。もともと東京に来たかったのと、いままで手探りでやってきましたので、違った店のノウハウも吸収したかったもんですから」。
大田区にオープンした「本物のやきとん 筑前屋 糀谷店」はたちまち人気店になる。100席あまりが2回転するというから驚きだ。
この「本物のやきとん 筑前屋」を今度は、富山市でオープンさせた。
さらに12月、4月にも金沢で新店を2店舗オープンする予定。これで8店舗目。
北陸・関東に既に5店舗以上の出店計画もあり、海外進出の計画まである。
今後も勢いが止まることはなさそうだ。
出す店、出す店、繁盛店となるが、むろんつぶれそうになった時もある。
しかし、松原は負けない。負けなかった。夜の街からスタートしたとも言える松原の飲食人生。ただし、その心はいささかもけがれていない。
飲食の経営には、熱意とともに「素直」や「純朴」というピュアな要素が大事なのだと教えられた気がする。

思い出のアルバム
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ホスト時代 回転寿司時代 イタリアン時代
思い出のアルバム3
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