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第417回 日本料理店「くろぎ」 オーナー兼料理長 黒木 純氏
update 14/01/21
日本料理店「くろぎ」
黒木 純氏
日本料理店「くろぎ」 オーナー兼料理長 黒木 純氏
生年月日 1978年8月16日
プロフィール 宮崎県宮崎市、割烹をいとなむ両親の下に生まれる。高校卒業後、上京し、「京味」で修業。和食の神とも言われる西健一郎氏を師と仰ぎ、「和」の道を進む。2007年、29歳で「湯島121」をオープン。2010年、現在の「くろぎ」に店名を変更。2012年10月26日からオンエアされた「アイアンシェフ」では、「和の鉄人」としてTVに初登場。「若き鉄人」として、注目を集める。
主な業態 「くろぎ」
企業HP http://www.kurogi.co.jp/
今、日本で一番予約が取りにくい店、湯島にある日本料理店「くろぎ」。ディナーは6ヵ月待ち。カウンターに限れば、更に先まで埋まっているという。
そんな名店であるにも関わらず、ランチは案外、気軽な気分で利用できる(ただし、予約は必要)。
料金は1000円。メニューは「鯛茶漬け」一つだが、それだけでファンを虜にする。ちなみに、ご飯と鯛のおかわりが自由だ。
儲けは計算されていない。「和食」という形の無いものを次の世代に繋いでいく一つの方法なのだという。確かに、耳で聞く、目で見るだけでは「旨い」という言葉の意味は伝わらない。
いずれにせよ、ディナーに限れば日本一食べることが難しい、黒木というシェフの料理。
一旦そちらは我慢して、今回は黒木という1人の料理人の半生を噛み締めてみることにしよう。

「文武両道」を絵に描いたような少年。

黒木の父親は、宮崎市内で「此のみち」という割烹を営んでいる。黒木が生まれた時には既に店があったというから随分長く経営されていることになる。
「父は銀座で修業して、故郷の宮崎で店を構えました。自宅を兼ねていましたので、私も小さな頃から厨房で包丁を握る父の姿を良く見ていました」と黒木。
「魚を捌くことにアレルギーが無いのは、その頃に父の仕事を見ていたからです」
ちなみに「此のみち」は、客単価5000円前後。決して安くはないが、今も常に賑わっていて宮崎の名店の一つに数えられている。
父が職人である一方で、母は元教師と教育も熱心だった。母の勧めもあったのだろう。幼少の頃から「英会話」「ピアノ」「空手」(空手は父の影響)を習い、宮崎でも有名な国立幼稚園に入学。小・中も、同校の一貫教育を受けて育った。
中学の試験では10指を下ったことがないとのこと。無論、学力だけではない。小学生から習い始めた空手では全国3位。
中学から始めた水泳では、県で8位の成績を収めている。「文武両道」を絵に描いたような少年だった。

「料理の道」へ、修業時代の話。

当時の同級生はみな、有名国立大学に進んだ。だが、黒木は1人「料理の道」に進んでいる。高校を卒業すると直ぐに上京。ツテも無い。不安も無いはずは無いのだが、それ以上に希望があった。「日本一の料理人に」。
修行先と心に定めたのは、日本料理の最高峰「京味」である。希望すれば入店が許される店ではない。
「上京した当時は全く素人でしたから、葉山にあった日本料理店でまず3年間修業をさせていただきました。そのうえで、『京味』に採用していただくのですが、素直にレベルの違いに驚いていました」。
3年ぐらいの経験では全く歯が立たなかった。だからといって逃げ出すわけにはいかない。最高の料理店で薫陶を受ける一方で、休日となれば名店と言われる店を片っ端から訪ね歩いた。軍資金捻出の為に「日雇いのバイト」にも精を出したそうだ。
「食の探求」。京味時代を一言で表すとこうなるが、黒木にとっては「壮絶な修業の日々」だったことは想像に難くない。

独立、開業。閑古鳥が鳴くなかで、師の言葉を信じ、耐え抜いた。

黒木が現在の「くろぎ」の前身となる「湯島121」をオープンさせたのは、2008年のことである。黒木29歳の時。
「当時、周囲にあるのはスナックだけで外国人の巣窟みたいな街だった」と黒木は笑う。それでも開業に踏み切ったのは「美味しいものをつくれば、お客様は何処へでも来てくださる」と、師と仰ぐ京味の店主、西健一郎氏から力強い言葉を投げてもらったからだ。しかし、そう簡単に客がつくほど飲食の世界は甘くない。信じられない話だが、半年は閑古鳥が鳴いていたそうだ。しかし1年間、何が何でもしがみ付くつもりだった。金策に走りながら師の言葉を信じ、奮闘した。

心を込めてつくった料理が、捉えたお客様の心。

その時の奮闘もまた、今の黒木という人をつくっているようにも思う。
「運転資金もままならない状態でしたが、絶対に『旨い』と唸ってくださる料理をつくろうと覚悟を決め勝負しました。もちろん、お客様が少なくとも手は抜かず、最高の料理とおもてなしでお迎えしました」。
そうやって黒木が心を込めてつくった料理が、1人また1人とお客様の心を捉えていくことになる。それが口コミとなって、半年後には状況が一変。閑古鳥はいなくなり、お客様と黒木の言葉のキャッチボールが毎夜続く名店となっていくのである。
師の言葉を信じ、疑わなかった黒木の勝利。
ただ、これを黒木という料理人の視点だけで捉えると片手落ちと言われてしまうだろう。
というのも、黒木という純粋な料理人の志を世間がちゃんと理解し評価した証でもあるからだ。
そういう意味では、若い店主が経営する「くろぎ」を育てたお客様に先見の明があったということだろう。毎夜続く言葉のキャッチボールに、その事実が凝縮されている気がする。料理が好き、そういう者同士の会話は店主とお客様という立場を離れ、途切れることなく今からも続いていくことだろう。

和の文化の継承。

この後、黒木はご存知のように「アイアンシェフ」に登場する。
「30年分の経験を1年でできた」とこの時の様子を語っている。無論TVに出たからといって、黒木は変わらない。
ディスプレイに映るあの凛とした姿は、若い料理人たちの憧れにも指標にもなったはずだ。
さて、最高の料理を追及する一方で黒木は今、和食の未来、言い換えれば日本人の未来を憂う。日本の食文化をどうやって未来に継承していくか。黒木に言わせれば、それもまた重要な料理人の仕事なのである。無論、和の心を持った次世代の料理人を育成することも大事である。しかし、それだけで継承は難しい。
「今の10代、20代の人達に、もっと日本料理を食べてもらう機会を増やしていかなければと思っています」と黒木。
思うだけでなく、実際に行動も起こしている。
その第一弾として、2014年の5月に東京大学内に和菓子店を構える予定だ。
ちなみに、2013年12月「和食」はユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界無形文化遺産として登録された。
料理人及び日本人はこの事実を手放しで喜ぶのではなく、身を引き締めて「和」とは何か、そして「和」の心を継承するために何をすればいいのかを再確認すべきかもしれない。
とはいえ、そう簡単なことではない。そこで登場するのはやはり料理人である。
料理人にとって大事なことは「身体の中に取り込むものであることに気付くかどうか」と黒木は語っている。
その「気付き」の延長線上に「伝承」という意味も含まれているに違いない。
料理人の仕事は、かくも尊い。

思い出のアルバム
 

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