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第453回 株式会社KODA's Table オーナー 小田厚二氏
update 14/10/07
株式会社KODA's Table
小田厚二氏
株式会社KODA's Table オーナー 小田厚二氏
生年月日 1976年7月18日
プロフィール 兵庫県西宮市に生まれる。姉と兄の3人兄弟の末っ子だが、兄とは双子。中学卒業後、それまで何をするのにも一緒だった兄弟の道は分かれる。器械体操が巧い兄は特待生として、強豪に進学。一方、自ら風変わりという小田自身は、学区を離れ、誰も友人のいない高校に進学する。
主な業態 「ビストロ割烹koda」
企業HP http://www.kodas-table.com/
日本料理の奥深さに魅了されたのが、ビストロ割烹「koda」が誕生する背景だそうだ。日本料理に出会ったのは上京してからだ、という。『独立・起業』という言葉は知りませんでしたが、父が八百屋を経営していましたので、いずれ私も商売をするんだろうなと小学校の頃から思っていました。ただ、飲食を志すようになったのは、そう、高校生になってからですね」。どうやら、小田氏と飲食を結ぶ糸は、高校時代にあるらしい。では、いつも通り、小田氏の足跡を追いかけてみよう。

八百屋の店主だった父と小田。

小田は1976年、兵庫県の西宮市に生まれる。西宮は、高級な住宅地としても知られ、野球好きな人には、お馴染みの甲子園球場もある。海沿いにはヨットハーバーがあり、海と山が、案外近い距離にある。
「私は、ファミコン世代なんですが、もっぱら外で遊んでいて、真っ黒でした」。小田家は、5人家族。姉と兄がいて、小田は末っ子である。だが、兄とは双子。遊び相手は、いつも目の前にいた。「父は、八百屋を経営していました。朝市で販売していたこともあって、午後には仕事が終わり、夕方には家にいました。だから、母よりも接する時間が長かったかもしれません」。遊んで貰った記憶が蘇る。「ただし、私ら兄弟にとっては怖い存在でもあったんです」。
礼儀には特に厳しかったそうで、放任主義な母とは対象的だった。「父の背中は、いつも近くにありました。兄には確かめたことはありませんが、私は、いつか父の仕事を継ぐと思っていました。そういう意味では、小学校の頃から独立心はあったんだと思いますね」。サラリーマンという生き様を目にすることのない小田にとって、父の生き様は、唯一のお手本でもあったのだろう。

双子が進んだそれぞれの道。

小さな頃から何をするのも一緒だった。一緒に遊んで、一緒にご飯を食べ、一緒に大きくなってきた。「中学になって器械体操部に入る、これも一緒でした。でも、兄の方が断然、巧くて…」。
一緒にいることで2人は、比較の対象になった。小田も下手だったわけではないのだが、兄が巧すぎた。「私たちが中学2年の時、父が、病気になり八百屋を手放すことになりました。これで、いつか父の跡を継ぐという私の構想はなくなってしまったわけです」。父が病になったことで、生活を考えると家族は誰一人、安穏とはしていられなかった。
「私たち兄弟は、2人とも高校には進学します。ただ、兄は特待生。だから授業料もかかりません。一方、私は、そういうわけにはいきません。それに私はちょっと変わりもんで…」。小田は、地区ごとにあらかじめ決められている学区から抜け出し、誰一人友人のいない高校に進学したそうだ。ともかく、これで双子の兄弟は違う道を進むことになった。それは大人の階段を歩み始めた証拠だったかも知れない。

バイト漬けの高校生活。

「高校になって、毎日が俄然楽しくなった」と小田はいう。しかし、厳密に言えば、高校生活のことではない。バイト生活のことである。
「1年生の時から、近くのレストランでアルバイトを始めました。これが楽しくてしかたなかったんです。授業が終わるのが待ち遠しいくらいでした。周りは大学生の先輩ばかりでしょ。同年代とは違って、話も面白いんです」。もちろん、仕事も楽しかった。辿りに辿れば、小田というビストロのオーナーの源流はこのレストランにある。「3年間ずっと働いていた」と小田。むろん、楽しいだけではなかった。「高校になってから父が亡くなり、私たち兄弟も生活を支えなければならなくなったんです」。
バイト代のいくらかは母に渡した。

ノートに描いた未来。

高校生、バイトに明け暮れるなかで、飲食という仕事にも惹かれた。「いつか、独立しよう」と明確に考えるようになったのもこの頃。
「あの頃は、カフェをしたいと思っていました。カフェ&バーです。1・2階の2フロアで、1Fはカウンターと木だけ。テーブルは丸。そういうのを細かくノートにも描いていました。資金さえあれば、すぐにできるイメージです」。
もっともかりに資金があったとしても、オープンするだけで精一杯だったろう。ノートに描いたものを、形にするために、小田は走りだした。高校卒業、すぐにとあるレストランチェーンに就職する。

就職、そして東京へ。

大学に進学しなかった背景にはむろん家計のこともある。しかし、それ以上にレストランの仕事が楽しかった。
「とにかく、高校でも学校に行くより楽しかったわけですから、就職するのも楽しみでした」。就職したレストランでは、厨房に入った。だから、小田は料理もできる。余談になるが、店では披露しないが、休みになればいまも小田はフライパンを振る。「休みの時は、家で私が料理担当なんです。『パパ、お願い』、みたいな感じで(笑)」。ちなみに小田は、仕事がある日でも朝早く起き、子どもと一緒に公園に出かけサッカーを楽しんでいる。小田自身が父から、そうして貰ったように子どもたちに接しようとしているのだ。
話を戻す。最初に就職したレストランで7年勤め、接客もしてみたいと、中華の老舗料理店である「神仙閣」に転職する。「老房(ラオファン)というブランドができる時です。神仙閣は、高級な中華料理店ですが、老房はカジュアルなレストランで、客層を拡大していくのが目的でした。私はマネージャー候補で就職し、すぐにマネージャーをやらせていただきました。こちらでは経営に関することや販促などを勉強させていただきました。老舗が新たな業態に挑戦する、とても濃密な時間を過ごせたと思います」。
ここで、自信を付けた小田は、上京する。「東京でもやっていける自信がついたんです」。

日本料理に魅せられて、辿り着いた「ビストロ割烹」。

いま小田という経営者を語るうえで、外せないのが「ビストロ割烹」という言葉だろう。ネットで検索すると、小田の店が上位表示される。
だが、小田はカフェ&バーと言っていたではないか?ノートにも構想が描かれていたはずである。「上京して、考えが変わるんです。というのも、上京して日本料理の奥深さを知ったからです。特に、日本料理には、四季があるでしょ。そういう料理の奥深されに魅了されてしまったんです」。上京した小田は、築地のふぐ料亭「Wanofu」に転職し、その後、独立。これが、2013年のことである。店内を覗いてみて驚いた。2フロアではなかったが、オープンキッチンを囲むようにカウンターが設置されている。こちらは、職人の技を目の前で楽しめるように。テーブル席も、むろんある。こちらは、家族や友人とゆったり食事を楽しむスペースだ。和と洋とは異なるが、高校時代にノートに描いた構想が、形になっている。カフェとは違うが、「ビストロ」という気軽さも、構想から外れていない気がする。

KODA's Tableの意味。

最後にKODA's Tableの意味についても、伺った。「KODA'sのSは複数系なんです。次につながるという意味も含まれています。テーブルは、ターンテーブルではありませんが、時を刻むという意味です。簡単にいえば、みんなでテーブルを囲み、次につなげていく、そういう意味です」。
なんだか、洒落ていると思った。「自分を信じること。自分がこうと決めたら自分を信じて進む。そうすれば、かりに失敗であれ、自分の糧になる」と小田はいう。これが小田流の生き方でもある。兵庫県西宮市、出身。それでも関西ではなく、東京で、戦っている。
「小さい時は怖い存在で、正直、うざいなと思ったことがありますが、いまは父と話がしたいですね。父も店をしていましたから、愚痴を聞いて貰ったり、『昔はたいへんだったんぞ』みたいな話を聞かせて貰ったり」。もちろん、その願いはもう叶えられない。しかし、父のアドバイスはもういらないかも知れない。かりに父が存命であったとしても、わき目もふらず飲食に生き、まっすぐにその道を歩み独立し、人を幸せにすることを考えられるようになった、そんな息子に父が送るとしたら、たぶん、それは拍手だけだと思うからだ。

思い出のアルバム
 

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