株式会社サンマーフィー 代表取締役 鈴木 博氏 | |
生年月日 | 1967年7月13日 |
プロフィール | 高校卒業後、大手飲食チェーン店に就職。33歳の時、ヘッドハンティングされ、焼肉業態の会社へ転職。店舗を次々に立て直し、39歳で独立。現在、10店舗の居酒屋を展開中。 |
主な業態 | 「ありがとう」 |
企業HP | http://sunmurphy.co.jp/ |
茨城県取手市は、千葉県とほぼ隣接している。地図で観れば、利根川を越えることで、県を行き来できそうな位置関係にあった。
鈴木博氏が、この取手市に生まれたのは1967年7月13日。ご両親は米農家をされていた。「兄の影響で小学5年生からバスケットを始めるんですが、それまでは目立たない少年だったと思います」と鈴木氏。
4年生の時。鈴木家は、同じ取手市だが、市内より田舎のほうに引っ越すことになった。1学年、1クラス。少人数の学校だったことも、多少は影響しているかもしれない。バスケットボールを始め、氏の性格は、いっそう明るくなっていった。
バスケットボールで頭角を現した鈴木氏は、クラスでも、学校でも否応なく目立った存在になった。競争意識もこの頃から高まったそうだ。
生徒数の多い中学に進学してからもバスケットボールを続けた。「いったん野球部に入るんですが、兄がキャプテンだったもんですから、『こっちにこい』と(笑)。それでまた、バスケを始めることになるんです」。
当時からバスケットボールは人気のスポーツの一つで、1学年に50人くらいの部員がいたそうだ。そのなかで鈴木氏は1年の終わりにはレギュラーに抜擢されている。ついでに言うと、足も速かったそうだ。とくに長距離。学校代表で、駅伝に出場したこともある。
「兄貴は、私よりもっとスピードがあった。バスケも巧かったし…」。
鈴木氏の話を聞いていると、よく「兄」という言葉がでてきた。「もっとも影響を受けた1人であり、兄の背中を追っかけてきたと言ってもいいくらいですね」と言って笑う。たしかに、鈴木氏にとって「兄」は特別な存在だったようだ。
兄がやれば、弟の鈴木氏もやる。兄が進む道は、鈴木氏の進む道でもあった。ところが、高校は、別々の学校に進んだ。「兄は、県でも有名なバスケットボールの強豪校に進学します。しかし、練習がきつく、夜も遅いんです。そんな兄を観ていて『これは、たいへんだな』と。それで私は、無名の学校に進学しました」。
バスケは好きだったが、兄と違って、もっと楽にという思いがあったのだろう。しかし…、バスケの神は、そう簡単に鈴木氏を手放さなかった。
「無名高校の生徒だったんですが、私は県の代表にも選ばれます。私の時には、無理でしたが、のちに県南の大会で優勝するチームになるんです」。
楽をするはずだったのではないか? どういうことだろう。
「高校2年の時です。全国大会でも優勝の常連校の顧問がうちの高校に赴任します。当然、うちの部を指導することになって。緩かった空気がいっぺんしました。生徒たちも、できるかどうかは別にして、『全国優勝』を意識するようになっていきました」。
「リーダーが替わるだけで、こうも全体がかわるのか」と鈴木氏は驚いたに違いない。
「店長がかわれば、店全体がかわる」と信念を持って語る背景には、この時の体験も少なからずはベースになっているはずだ。
「先生からは基本的なことをおろそかにせず、基本的なことが着実にできるようになりなさいと指導されました」。
こちらの発想も、いまに生きている。いい先生との出会いだった。「やればできる」という自信もまた植え付けられたのではないだろうか。バスケットボールも一段と巧くなった。プロを意識したこともなくはない。
「大学進学も考えたんですが、親に反対されて。膝がもうボロボロだったんです。そういう私のからだを気遣ってくれたんだと思うんですが、とにかく反対され、それで、就職。兄貴の後をもう一度、追いかけはじめました」。
いま鈴木氏の兄は、大手飲食チェーン店で部長をされている。高校を卒業してから、その会社一筋だそうだ。もう一度、兄の後を追いかけるようにして、鈴木氏も兄が勤める大手飲食チェーン店の扉を叩いた。「ちょうど1部に上場する時だったと思います。すごく活気があった時代です」。
入社して十数年、兄同様、鈴木氏も頭角を現し、業態開発なども任されるようになっていた。そんな時、ヘッドハンディングの話が来た。
「大手チェーン店の方は、基本的に和食だったんですが、こちらの業態は焼肉でした。兄にはもちろんですが、いろんな人に相談したんですが、たいてい『やめておけ』って反対されるんです。当時の社長も引き止めてくれました。でも、私はチャンスだと思ったんです。いずれ独立とも考えていたからです」。
「唯一、兄だけは反対しなかった」そうだ。どういうお考えだったのだろうか。
ともあれ、兄とは異なる独立につづく道がスタートした。しかし、もう肩書はない。「いままでは大手のネームバリューがあったので、その分、仕事も進めやすいところがありました。しかし、転職したのは、3店舗ほどの焼肉店。もう看板に頼るわけにはいかなくなりました」。
「最初に任されたのは、42坪50席の店でしたが、売上は月500万円くらいに留まっていました。駅前で、条件も悪くない。それで、私に白羽の矢が立ち『立て直してくれないか』とお誘いを受けたんです」。
業態は違ったが、肉のことがまったくわからないわけではない。みると肉の質は悪くなかった。しかし、質をキープしたまま、テーブルに出せていない。その原因は、人、だった。
「初めて店に出た時は、そりゃまぁビックリ仰天です。勤務中、しかも、ピーク時に煙草をふかしている子がいるんです。また、勤務中ですよ、フラっとコンビニに出かけていくのもいたんです。万事がそうで…」。
アルバイトの無法地帯になっていた。もちろん、そのままにはできない。就任してから2ヵ月間で6回のミーティング開いた。アルバイトにも真剣に語りかけた。「いまのまま社会に出ても、君たちは生き残ってはいけない」と説いた。
「辞められたらたいへんです。でも、それ以上に彼、彼女らのいまからが心配だった。だから、真剣に話をしたんです」。1人だけ辞めていった。勤務中でも煙草をふかしていたアルバイトのドンのような女性だった。
「少しずつ、店の雰囲気がかわりました。すると、それを待ってくださっていたかのようにお客様が入り出したんです。着任して4ヵ月後には、1000万円の月商を叩き出す店になりました。スタッフの表情も、いままでとはまるで違いました」。
飲食店の仕事は、多くのアルバイトやパートスタッフに支えられ成り立っている。彼、彼女たちをいかにやる気にさせるか。店長たちの実力が、問われるのはその点である。
「スタッフがかわれば、店の雰囲気がかわるんです。だから、売上も違ってくる」と鈴木氏。自身の体験も交えて語る本音である。「だからこそ、リーダーである店長次第でもあるんです。飲食店というのは…」。
長年、飲食に携わってきた鈴木氏の信念でもある。それは何も、飲食に限る話ではないかもしれない。組織は確かに人によってかわる。高校時代、強くなったバスケットボール部の話は好例だろう。
ともかく、鈴木氏は、1人の人間のちからを認めている人である。そんな鈴木氏が、いよいよ独立し、組織の長となる日が来た。
「焼肉店では、ほかにも業績の良くない店があり、そちらも立て直しました。給料もそうですね、1000万円くらいはもらえるようになっていました。しかし、『いつまでも』という気持ちではなかったんです。40歳を一つの区切りと考えていました。それで39歳の時に、会社を辞めさせてもらって、うちの第1号店をオープンするんです」。
手っ取り早いということもあって、出店したのは居酒屋である。こちらが、順調に立ち上がる。
1号店がオープンしてから9ヵ月後には2号店を、更に半年後に3店舗目というペースで出店した。
6店舗目からは、家族経営から脱し、企業という意識で取り組むようになり、2014年現在、10店舗を展開している。目標は?と伺うと、「30億円」という答えが返ってきた。むろん、目標達成のためには、更なる出店が欠かせない。その出店を実現するためにカギとなるのは、やはり「店長」である。だからだろう。鈴木氏が今いちばんの課題に「教育」の二文字を挙げている。
果たして、どんな「店長」を育てられるのか。経営者、鈴木の手腕が問われるところである。
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