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第478回 株式会社奴ダイニング 代表取締役 松本丈志氏
update 15/04/07
株式会社奴ダイニング
松本丈志氏
株式会社奴ダイニング 代表取締役 松本丈志氏
生年月日 1978年10月9日
プロフィール 神奈川県横浜市生まれ。祖父の代から飲食店を経営する。高校を卒業し、松本もまた飲食の道に入るが、実家の暖簾を潜るのは25歳の時。いきなり現れた若旦那に風当たりは強く、経営陣とも意見が合わず、独立を決意する。それが29歳の時。友人たちの支援も受け、奴ダイニングの1号店がオープンする。
主な業態 「ジューシー食堂奴」「もつ焼き牛舎」「漁平の鍋」
企業HP http://www.yakko-dining.com/

太く、短く。

松本家は、祖父の代から横浜で飲食店を経営していた。寿司と和食の店。普通なら、長男の松本が三代目候補となるわけだが、そういうビジョンは松本にはなかったそうだ。
「弟が継ぎたいみたいなことを言っていましたし、私は正直なところ全然、興味もなかったんです」。
松本の会話には、パッションとピュアな心が映し出される。純粋であり、情熱的でもある人だ。時には、そういう思いが、松本をあらぬ方向に走らせたこともある。
「中学時代のことです。私は、生命線が短かったんです。で、周りの人間から長く生きられないと言われて。それを鵜のみにして、ならば、太く、短く生きようと決めたんです」。太く、短く。中学時代から新聞配達を開始。親からの卒業も、太く、短く生きるためには、必須の課題だったからだ。
「高校からボクシングを始めたのも、太く、短くの一環です。17歳でプロを目指したんですが、ケガで挫折。今度はスノーボードのプロを目指そうと考え、両親にその旨を伝えるんですが、その時、気の強い親が、『店を継いでくれないか』と、私にはじめて頭を下げたんです」。
三代目になってくれないか、という懇願だった。

修業の始まり。

「そういう懇願を受けて、快諾とは言いませんが、三代目というのが、私のなかに芽生えます。しかし、状況はそうでも、経営者になる気はさらさらありませんでした。ただ、性格なんでしょうね。やるからには、上を目指そうと思いました」。
「やる」と決めたら、やる。松本にはそういう生真面目さもある。修業が厳しいことで知られていた都内の寿司屋の門を叩いた。住み込みである。「住み込みだと逃げ道はないから」である。噂通り、半端ない厳しさだった。
「何度も実家に帰りたかったんですが、息子の決意を知って盛大に見送ってくれたもんですから、帰るに帰れない。誰にも相談できないということもあって、一時期、人嫌いになってしまったほどです(笑)」。
人嫌い。「どうやって治したんですか」と伺うと、「本屋で名言集や哲学書をみつけては、それを読んで考え方を身につけました」との答え。すると、人嫌いが完治したそうだ。
この寿司屋には5年いた。18歳から23歳まで。人生でもっとも貴重な時間を厳しい修業に費やしたことになる。前述通り、人嫌いとも戦った。
余談だが、この5年で松本の後輩はできなかったそうだ。
「なぜかっていわれると単純なんですが、私より後に入った人間は誰一人続かなかったんです(笑)」。
この事実からも、いかに厳しい店だったかが想像できる。その後、松本はどうなったのだろうか。
「5年間修業した後は、プロボクサーを目指す為、ホストの道を選びました」と松本は振り返った。
ホストの時給2,500円、週休2日制という文言が目に焼き付いた。これだったらボクシングと両立できると思ったのだった。だが、現実はそう甘くはなかった。実際入ってみると、日当は5,000円。嘘をつかれた。そんな状況であったが、真面目に仕事をした松本。なんと3週間でナンバー6まで登りつめることが出来たそうだ。「自分より年が若いホストに色々とタメ語で指図されるわけですが、入った以上真面目にやろうと思いました。また要領も良かったんだと思います。結果、良い成績を残すことが出来ました。ところが昼はボクシング、夜はホストとして朝方まで酒を飲むという日々を繰り返していたので身体に無理があったんです」と松本は当時を振り返った。
そんな時に、自分の未来を見つめ直した。そして実家の暖簾を潜ることを決意することになる。

実家を改革。しかし、波高し。

25歳になって松本は父の店を継ぐ決心を固めた。両親に頭を下げられてからすでに7年経っている。
「スタートは和食店です。地元の名店だったんですが、私が入店した頃には毎月100万円の赤字を出していました」。
松本氏は、迷わず経営に踏み込んだ。「親友に19歳で起業して、年商200億円の企業をつくった奴がいたんです。彼に経営について教えてもらって。『必要なことは改革だ』と言われ、言われるまま経営の改革に踏みきったんです」。
「従来通り」との決別は、波紋の原因となるのもわかっていたが、赤字のまま放置することもまたできなかった。「経費の削減に取り組んで深夜営業も開始しました。夜は和ダイニング。私が、責任者です。定休日もなくし、年中無休に切り替えようともしたんです。しかし当時、店の業績が回復していたこともあり、自分の案は周りに反対され、思うように事が運びませんでした。29歳になった時に、方向性の違いを確信しました。それで、自ら会社を興すと決意したんです」。
29歳、いよいよ松本の真価が問われる時がきた。

独立。しかし、垂れ込める暗雲。

「なんとかなる」と思っていたが、想像通りにはいかなかったそうだ。何故だろう。
「連日、店は満席だったんです。でも、利益が上がらないんです(笑)。ランチも1回転しかしない。そう、ビジネス街でも、繁華街でもないでしょ。だから、回転率が悪かったんです」。もちろん、それだけではなかった。
結局、私の問題と言いながら、松本は話し出す。「オペレーション自体が、できていなかったんですね」。腕は良かったが、それ以外には関心のない料理人を店長に抜擢したのもいけなかった。問題はこじれ、いつしか「松本」対「店の人間たち」という対立の構図まで完成していた。
悩みに悩んだ末、松本は一本の糸にすがりついた。「きっかけはフードスタジアムの勉強会に参加したこと」と松本。この勉強会に参加したことで「人材の重要性を理解することができた」とも語っている。
講師に立った大物経営者に、「どうすればいいか」と質問した時、シンプルな答えが返ってきた。「クビにすればいい」。もちろん、それだけの強い気持ちで相手と対峙しろということだろう。
「あの時が一つのターニングポイントだった気がします。一つは、問題を解決できたこと。そして、もう一つは、あの勉強会がきっかけとなって、それ以降も多くの経営者に出会えたからです」。
店を任せていた店長には、話し合った末、辞めてもらった。彼に従っていた従業員、全員辞めるとふんでいたが、誰一人辞めなかった。「店長が怖かったから」。その一言を聞いて彼らの気持ちまで理解できていなかったことに、松本は気づいた。

新たな、旅立ち。

ホームページを観れば明らかだが、奴ダイニングは5店舗を経営している。「ジューシー食堂 奴」「もつ焼き牛舎 新杉田店」「もつ鍋牛舎 上大岡店」「もつ焼き牛舎 関内店」「漁平の鍋 関内北口店」である。
 これらの店を松本は、時を置かず出店した。「あの頃は、まず目標ありきだったんです。もともと私自身が立てていた目標があって、全然達成できてなかったもんですから、よし、加速しようということで、3号店まで一気にいって、4号店、5号店も、次々に出店しました」。
それが上記の店である。業績自体悪くないが、まだまだ手を入れていかなければならない点も少なからずある。その問題を解決するために、松本はいま店の中でも、外でも、懸命に答えを探っているところだ。「数多くの経営者の方ともお会いでき、優秀なスタッフと出会うこともできました。これがいまの私の財産です」。さて、その財産をどう活かすか。それがいまからの戦いとなるのだろう。
「太く、短く」ではなく、「太く、そして長く」愛される店づくり。松本の手のひらに未来は握られている。

思い出のアルバム
 

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