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第485回 株式会社boucila 代表取締役 高橋智行氏
update 15/06/08
株式会社boucila
高橋智行氏
株式会社boucila 代表取締役 高橋智行氏
生年月日 1976年11月14日
プロフィール 東京都府中市出身。高校卒業後、いったん大手印刷会社に就職するが、4年後、海上保安庁への転職を志し、「潜水士」の免許を取得。規定の潜水回数をクリアするため沖縄県宮古島へ。飲食と出会ったのは、東京から遠く離れた、その島での出来事。30歳までの独立をめざし、島を離れ、大阪へ、また東京へ。2007年、初の店舗を高円寺に出店。「オレたちが失敗するわけがない」という強烈な自信。出店後、すぐに空威張りでなかったことを証明。10坪の店で高月商を叩き出す「boucila」の伝説がスタートする。
主な業態 「ドンツッキ」「ヴィーノ エ ラーボ」「エヴィーノ」「酒晴」「かわ焼きまいける」「いっぷく」
企業HP http://www.boucila.jp/

あのチームには「高橋兄弟」がいる。

「高橋兄弟」と知れ渡っていたらしい。今回、ご登場いただいた高橋氏の子どもの頃の話である。「兄は、エースで四番。私は快速の一番バッターでした。小・中の話ですが、けっこう強いチームで、なかでも私たち兄弟は、あのチームには高橋兄弟がいると言われていました(笑)」。
スポーツ万能な兄弟2人。ケンカもしたが仲も良かった。
弟の高橋は、1976年11月14日、東京の府中に生まれる。
「父親はわりと大きな米屋で勤務していました。勤務先で母親と知り合って結婚したそうです。我が家は放任主義で、私ら兄弟は特に何か言われたことはありません。代わりに自己責任。だから、放任主義と言っても甘やかされていたわけではない。けっして裕福ではありませんでしたが、家族全員、仲が良かったと思います」。
子どもの頃になりたかったのは、新幹線の運転手。飲食の仕事に就こうと思ったのは、ずいぶん大人になってからだった。
「新幹線の運転手」。淡い憧れのもう一方に、現実があった。「お金がないわけですよ。家に。だから、お年玉も没収されてしまう。そうこともあって、私ら兄弟は私が3年のときかな、それくらいから新聞配達をはじめました。野球もやっていたので、朝刊のみです。それでも、子どもにとってはいいお金になりました(笑)」。
中学になってからは、運送業者で勤務した。むろん、バイトだが、月に数万円。高校生になってからも同じ運送業者でバイトし、月20万円くらいにはなったそうだ。
少年の頃から、高橋は、独立志向があったという。たしかに、当時から「自立も、自律も」経験していた。
ちなみに、本文とはあまり関係がないが、小学生時代、最後の野球の試合で、高橋はトンネルをする。そのエラーが、決勝点となって惨敗。足元をすり抜けたボールの軌跡をいまも高橋は忘れていない。

でかいカブト虫とでっかい海。

父方の田舎に行ったことも、子どもの頃の記憶として鮮明に残っている。
「父は秋田出身。田舎というか、秋田のなかでも、さらに山奥。良く言えば、大自然のなか。でっかいカブト虫とかもいたりして…。虫取りとかにも熱中していました」。
新幹線の運転手になりたいと思ったのは、この時に乗った東北新幹線の車上でのことかもしれない。
ところで、小・中と野球漬けだった高橋。高校に進学すると、ラグビーに鞍替えしている。野球とはまた違ったスポーツを試してみたかったそうだ。
高校を卒業した高橋は、大手印刷会社に就職する。「喰うに困らないだろう」という動機。この会社には、22歳まで4年間勤務している。
大学進学は考えなかったのですか? と聞いてみた。「お金があれば、100%進学していました(笑)」と少し悔しそうな表情をする。「進学するなら、自分で働いて」というのがご両親の指示だったらしい。「結局、私は就職するのですが、この頃から独立への思いが大きくなりました」。でも、何をして独立すればいいかわからない。だから「ひとまず就職した」というのが本音。「喰うに困らないだろう」という選択肢もわからなくもない。
では4年で、やりたいことがみえてきたのだろうか。
「海が好きだったんです。そういうこともあって、2つの選択肢がありました。海外を一周するか、海に関わる仕事をするかです」。で、後者を選択する。自然を相手にしようと思ったあたり、少年の頃に大自然のなかで遊んだ記憶があったからだろうか。
ともかく、高橋は海上保安庁への転職を決意する。海猿である。「あ、海猿とはちょっと違うんです。私がめざしたのは、海中でモノを探したり、橋桁の工事をしたりする仕事です。それで、潜水士の資格も取得しました。でも、ダイビングの経験が足りなかったんです。それで、沖縄の宮古島へ。早く、経験を積んで、海上保安庁に転職しよう。それが、目的だったんですが(笑)」。

楽園で、みつけたものは?

宮古島は沖縄本島より、更に南に位置する離島である。本島からも、300キロ近く離れている。もちろん、南国の楽園。気候は「亜熱帯」である。
「ちょうど住み込みで働かせてくれる店があって。そちらで、そうですね、宮古島では3年半くらい暮らしました。最初は彼女も残してきていたんで、とにかく早く帰ろうと思っていたんですが…」。
南国に魅了された? 「そうですね、とにかく、アホでした。ソウルバーみたいなところでバイトしていた頃は、アフロで、ピチピチのラメ入りシャツを着て、おねぇさんや奥さんたちと踊るんです」。アフロ? 「そう、アフロです。アホでしょ」。
アホはともかくとして、潜水はどうなったのか、聞いてみた。「もちろん、回数経験するために、インストラクターもしていたんですが、趣味を仕事にしているようなもんでしょ。ある意味では天職とも言えるんですが、だんだん冷めてきてしまったんです。仕事というより海に対して」。
「その一方で、飲食の仕事に惹かれ始めたんです。きっかけは、20席くらいのカウンターが、私のお客さんで連日、一杯になったからなんです。当時の私は、完璧な人見知り人間でした。にもかかわらず、いつの間にかたくさんのお客様の心をつかむことができた。それが凄く嬉しくて、飲食に惹かれていったんです」。
急いで帰ろうと思っていたが、いつしか、その必要もなくなった。南国の夜は、毎日、客との会話でふけていった。
そして、飲食で独立しようという野望が、夜空にかがやき始めたのである。

独立、開業。つかんだ成功の二文字。

「30歳までに独立しよう」という目標通り、30歳となった2007年に高橋は高円寺に10坪の店をオープンさせ起業する。宮古島を離れてからは、この日のために走ってきた。
「宮古島を離れたのは、大阪に帰ってフレンチ関連の店をやるという先輩がいたので、無給でいいから住み込みでとお願いしたんです。それから3年くらい、大阪で飲食の勉強をします。大阪では『商い』について、特に勉強させてもらいました。大阪って街は、すぐに電卓がでてくるような街でしたから(笑)」。
そのあとはどうしたんですか?
「3年ほど勉強して、まだまだ勉強が足りないと思ったんです。特に数字につよくなければ、と思って、東京に戻り『北の家族』に入社します。これも、私にとっては大きな転機だし、自信にもつながりました。というのも、私が所属したのは北の家族ではなく、アラビアンロックやロックアップという新ブランドでした。まだまだ新しかったこともあったんだと思いますが、とにかく自由にやらせてもらえたんです」。
個人店とおなじ感覚だった、と高橋。高橋の力量を見抜いた上司が、チャンスを与えたに違いない。ただし、自由にできるというのは、それだけ責任を持っていることの裏返しでもある。
期待に応えるべく、高橋は懸命に働いた。1年半、休みも取れなかったそうだ。それでも、苦にならない。30歳までの起業。勉強するため、進んで仕事にでた。
開業前夜。宮古島で知り合った仲間を誘った。ワンフロアーのマンションに2人住んだ。「彼女といっしょに暮していたんですが、出て行ってくれって言って(笑)。それで、昔の仲間と2人の生活が始まります。店がオープンするまで、奴を私が店長をやっていた店でバイトをさせたりして」。
「それで、奴と2人、高円寺で10坪の店を開くんです」。
これが、「boucila」の伝説のスタート。以降、出す店、出す店が、黒字となる。
「1号店は、すぐに軌道に乗りました。私ら2人も給料を取って、従業員も7〜8人雇ってたんですが、それでも毎月黒字でした。開店前、オレたちが2人でやって失敗するようだったら、東京の街も終わりだなんて豪語していたんですが、まさかこれほど成功するとは、いくら強気でも、正直、想像の範囲外でした」。
2号店も、成功した。3号店もバカあたりする。怖いものなんて何もない。「飲食ってなんて簡単なんだって思いました。苦戦する理由がわからなかったくらいです」。

100人の友人。

ホームページで確認すると、現在、7店舗。うち1店舗は、2014年の8月にオープンしたばかりである。後、数店舗の出店は、計画のなかに入っている。
もっとも、無理をするつもりはない。
「私らにすれば、最初の店だけで良かったんです。2人とも、お金に貪欲なわけじゃない。だから、無理のない範囲で、どちらかといえばスタッフのために出店してきたんです」。「3店舗目は練馬区に出すんですが、この店も、二番手で、ヤキモキしていたスタッフの1人をてっぺんに立たせてやらせてあげたいと思ったからです」。この店が更にバカあたりしたのはもうすでに書いた。「この店は18坪とちょっと広いんですが、すぐに繁盛店へとなりました」。
「苦戦する理由がわからない」といった高橋の気持ちもわからなくもない。毎月、毎月、大きな利益を上げた。
「もっとも4店舗目で少し苦労するんです。売上というか、人の問題ですね。それまでうちが店を出すんだから、大丈夫だとタカを括っていたんですが、この店で頭を打ちました」。それでも、赤字というわけではなさそうだから、贅沢な話でもある。
従業員教育にもちからを注いでいる。待遇も良い。従業員に結構な額の一律のボーナスを支給したこともある。
なにが、「boucila」という会社の軸となっているのだろう。高橋は、まだその意味を知らないのかもしれないが、オープンしても、客が来ないと、嘆くオーナーは少なくない。
損益分岐点を下回り、低空飛行のまま、赤字を垂れ流す店もなくはない。
「そうですね。結果として売上も、利益も立っていますが、あくまでうちからすれば結果なんです。私がスタッフにお願いしているのは、売上や利益のことではありません。1人、100人の友だちをつくる、これだけです」。
この話を聞いて思い出した。宮古島での話である。
カウンターが、いつしか高橋の友人で一杯になった。儲けは気にならなかった。今日を楽しんで、明日も楽しんでもらおう、とそれだけだった。「だって、友人だから」と高橋なら言うだろう。
客ではなく、友人だから、たのしく、大事にもてなす。友人が笑顔になると、こちらも心底、嬉しくなる。
客と友人の違いは、どうも言葉だけではないようだ。むろん、高橋の店には、客もいる。ただ、高橋からみれば、それは全員、友人でもあるのだ。
府中生まれ。飲食人としていうなら、宮古島、育ち。「宮古島」と改めて書いて、まぶしい空を想像した。そのなかで、育まれた高橋の心のなかは、たぶんいつも快晴だ。
ちなみに、いっしょに店を立ち上げた後輩には、退職金とともに店を1店譲っている。
「2人で稼いだお金だからね。後先も関係ない」。高橋にとってはひょっとすると、従業員もまた友人なのかもしれないと思った。

思い出のアルバム
 

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