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第517回 株式会社ブラザーズ 代表取締役 北浦明雄氏
update 16/01/12
株式会社ブラザーズ
北浦明雄氏
株式会社ブラザーズ 代表取締役 北浦明雄氏
生年月日 1975年2月28日
プロフィール 東京都大田区生まれる。3歳からベルギーで暮らし、10歳で帰国。獨協大学卒。大学卒業後、就職せず、オーストラリアへ。そこで出会ったハンバーガーに魅了され、帰国後、日本にないハンバーガー専門ショップをオープンする。以来、16年、じわじわとファン層を拡大。現在はTVに取り上げられるなど、絶好調だ。
主な業態 「BROZERS'」他
企業HP http://brozers.co.jp/

ベルギーにて。

ベルギーは、ドイツ、オランダ、フランス、ルクセンブルクの4ヵ国に接している。ドーバー海峡の向こうは、イギリスである。
今回、ご登場いただく北浦氏がベルギーに渡ったのは、3歳の頃。父親の仕事の関係だったそうだ。
「父は、パイオニアに勤めるエンジニアで、この時は海外転勤です。家族4人で海を渡りました。まだ3歳でしたので、不安はなかった。向こうで10歳になるまで暮らしていましたので、逆に日本に帰る時のほうが不安だったかもしれません」。
ベルギーでは、ドイツ料理が主食だったそうで、「ソーセージやパン、ハンバーガー」を食べていたという。ベルギーの言語は、フレミッシュ(フラマン語)というらしいが、北浦氏自身は、インターナショナルスクールにいたため、もっぱら英語でコミュニケーションを取っていたそうだ。

10歳で帰国した少年の不安と葛藤。

10歳という年齢がそうさせたのだろう。ベルギーに渡った時より、母国、日本に帰国した時のほうが、馴染むのが難しかった。
「英語中心で暮らしてきたもんですから、日本語にも慣れていないし、何より向こうでは社会や理科という科目を習わないんです。習ってないと言っても、社会と理科もやらないわけにはいきませんでした」。
帰国した北浦氏は、両親の配慮もあり、英語教育が進んでいた、浦和にある私立の小学校に編入する。
当時、異国で育った北浦氏にとって日本という国はどういうふうに映ったのだろうか。10歳といえば小学4年生。帰国子女だからといって、周りの生徒たちがそれに配慮できる年齢でもないが、クラスメイトは友好的に接してくれた。
弱くてはいけないと、ヤンチャなふりをしたこともあった。帰国子女は、そうやって少しずつ日本に慣れていった。

就カツ時代。

英語ができる、それだけで優位だと思うのだが、「就職では苦労した」という。「兄は大手企業に就職したんですが、私は惨敗でした」。
 高校に進学した北浦氏は、学校もさぼりがちだったが、とにかく大学だけはと、3年から猛勉強して「獨協大学」に進学。それから4年経って、いよいよ就職という時のことである。
「そもそも就職活動に対し、漠然と疑問を感じていたんです。これからの人生の大部分を占める仕事を決めるのに、これで、いいんだろうかって。『やりたいこと』『好きだと言えること』って、なんだろうかって」。
考えれば、考えるほど迷走する。答えはいつまでたってもみつからない。ごはんもろくに食べられなくなった、そうだ。
「『みんながやるからオレもやる』はもうやめだって思ったんです」。
その時、浮かんだ言葉は、「好きなことをやっちゃえばいい」だった。魂の言葉だったと北浦氏は言っている。

逡巡の末、オーストラリアへ、行こう、と決めた。

「目的があれば、ぜんぜん違うな、そういうのを頭だけではなく、心や体で感じることができた」というのは、オーストラリアへ行くと決めた時に始めた倉庫のバイトでのことである。
それまで何をしてもなかなか続かなかった北浦氏だが、「オーストラリアへ」という目的があったことで、いままでとは、すべてが違っていた。「目的というものの、力を知った」と北浦氏は言う。
 就職活動に迷走した北浦氏は、就職せずという道を選択し、ワーキングホリデーでオーストラリアに向かうと決意したのである。
「もっと強くならなければ、というのが当時の私の思いです。将来に対する不安があるのも自身の問題だと。だから、私自身を鍛え直すためにも、海外に行こうと思ったんです」。
英語はできるといっても、渡航経験がベルギー以外にあるわけはない。シドニーの空港に降り立った時は「足がふるえて、とまらなかった」そうだ。

「無給でいい」から、とハンバーガーショップへ。

時給は5ドル。日本円に換算して当時のレートで400円くらいだったそうだ。オーストラリアのハンバーガーショップの給料である。このショップで勤務したことが、運命を動かす。
「仕事があるというだけで嬉しかったので、最初は、無給でいいって言ったんです。相手も私がどんな働きぶりをするかわからないですからね。それで、4日目くらいに無事OKがでて、正式にバイトさせてもらえるようになったんです。それで1年間くらい向こうにいて帰国。帰国してからも2年間飲食店で経験を積み、人形町にハンバーガーショップをオープンしました」。
海の向こうのハンバーガーショップを日本へ。
これが、北浦氏の目的である。
しかし、日本には日本マクドナルドをはじめ大手ハンバーガーショップがすでに幅を利かせていた。
ハンバーガーとは? と問われれば、たいていの日本人は、ステレオタイプにおなじハンバーガーを想像する。それらは、たぶん大手ショップのハンバーガーだ。値段は100〜200円か。

ハンバーガー1つが1000円。

ハンバーガーというカテゴリーは、ファストフードというカテゴリーでもある。早くて、安くて、そこそこ、おいしい。
北浦氏が、人形町に開いたハンバーガーショップは、まるで違った。価格からしてまず違う。ハンバーガー1つが1000円である。ダブルバーガー1350円、チーズバーガー1150円、ダブルチーズバーガーに至っては1650円もする。
私が好きなホットドックで、600円。なんとか手が届きそうである。
「この値段は創業からですか?」と伺うと、「その通り」とのこと。
初出店は、2000年のことだから、16年前とおなじ価格ということだ。ちなみに、日本マクドナルドは、この当時、ハンバーガー1つを80円(平日)で販売している。
おなじハンバーガーでも「別物」という北浦氏の言葉にも、頷かざるをえない。とはいえ、人形町の人たちは受け入れてくれたのだろうか。
「最初の数年間は給料も取れなかったですね。月商は150万円くらいでした。当初の目標は300万円でしたので、2分の1です」。
「当時から、高い、高いと言われましたが、私たちはハンバーガー専門ショップです。味には自信がありました。実際、一度食べていただいたお客様は、たいていリピートしてくださいましたし…」。
それでも、この店をオープンするために2000万円くらいの借金をつくった。北浦氏、25歳。明日は、どうなるのか? 
オーストラリアのハンバーガーを日本へ。目的はあったが、どうすることもできないと思った日もあったのではないだろうか。
「安けりゃ、買うのか」と北浦氏は、吠えた。

オープン以来、16年。つかまえ続けたファンの心。

「継続は力です」、と北浦氏は言う。このインタビューをさせていただいたのは2015年9月なので、北浦氏の言う通り16年が経つ。人形町にオープンした、小さいが素敵なハンバーガーショップは今も健在だ。2号店となるデリバリー店舗をオープンしたのが7年後。その後、東雲に1店舗、新富町に1店舗オープンさせた。「創業時は確かに大変でしたが、それは仕方のないことです。なぜならまだ十分に知られていないのですから。」
チラシを配り、掃除も徹底し、知ってもらえるよう努力した。当初から人気だったサラリーマン層を中心に、少しずつ「ファン」が広がった。
「ファン」。たしかに、「ファン」でなければ、出せない値段だ。価値を知っている人が、買う。その「ファン」が増えた。
月商は当初の目標値である300万円を超え、現在はその約10倍となった。TVにも取り上げられ、ますます好調である。

もう一つの旅。

「嬉しいですね」と北浦氏。2015年現在、25歳だった北浦氏も、40歳になる。
この間、15人以上のスタッフが独立した。こちらも、ほかのショップにはない特別な話だろう。しかし、北浦氏は当然のように言う。
「うちには、独立を目指し、地方から来る人たちも多数います」。
はたらく、目的。なんだか、北浦氏の話を聞いていると「はたらく、目的」を持った人が、幸せな人であるように思えてくる。
いい機会である。改めて、自分にとっての、「はたらく、目的」とは?と、問いかけてみるのもいいのではないだろうか。
オーストラリアへの旅から始まった、もう一つの旅。それは「はたらく、目的」を追いかける、もう一つの旅だったに違いない。

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