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第528回 株式会社ネクストグローバル 代表取締役社長 時吉宏昌氏
update 16/03/08
株式会社ネクストグローバル
時吉宏昌氏
株式会社ネクストグローバル 代表取締役社長 時吉宏昌氏
生年月日 1977年6月12日
プロフィール 関東学院大学、出身。家業である試作品の加工会社を引き継ぐ一方で、新たに飲食事業を立ち上げる。現在、焼鳥「ごう」を中心に、ラーメン、ピザ、炉端ブランドを9店舗出店。韓国ソウルにも「ごう」を出店している。
主な業態 「ごう」「Bird Area」「麺童 虎徹」他
企業HP http://next-global.jp/

高校1年、秋までの話。

2歳の時に茨城に引っ越したから、記憶にあるのは、茨城の風景。だから、「茨城出身」と言っている。父は、主に試作品を手がける板金工場を経営されていた。業績は悪くない。特に、バブルの頃は相当に儲かったはずだ。
時吉氏は、子どもの頃からスポーツが得意で、小学校からはじめた剣道では群を抜いていた。高校からもオファーがあったというから、相当な手練れだったのだろう。
「公立高校ですが、推薦をいただきました。無条件ではなく、『形だけでいいから、試験を受けてくれ』ということでした。私は、合格するもんだと思っていますから、ろくに勉強もにせず、受験。フラリと試験会場に入り、適当に答案を埋め、試験終了です(笑)」。
時吉氏の予測は甘かった。おなじ剣道部から数人受験し、絶対案パイだった時吉氏がなぜか落ちた。
「いま思えば態度がちょっとよくなかったんでしょうね。ズボンも心持ち太かったし…」と言って、時吉氏は笑う。
しかし、当時は、真っ暗な思いだったのではないだろうか。剣道の強豪校に入る。進学より、そちらが大事だったと思っていたはずだから。時吉氏も「人生初の挫折」と言っている。
公立の強豪校に袖にされた時吉氏は、私立高校に進学。こちらでも剣道部に入ったが、入部2ヵ月ほどでリタイアしてしまった。
「ぜんぜん相手にならなかったんです。3年生が1年生に簡単にやられてしまう。つまんなくて…」。
目標を失ったというより、スイッチが入らなかったのだろう。
「それから、ふらふらするんですが、いままでスポーツをずっとやってきたでしょ。どこかで、『このままじゃいけない』という思いがあって。それで、ヨット部に入るんです」。
それが、高校1年、秋の頃の話である。

波に乗れない、ヨット部員の話。

レスリングか、ヨットかで迷った。どちらも、強豪だったから。
「レスリング部はごっつい奴ばっかりで、ちょっとこわかったんです。で、消去法で、ヨット部にするか、と思っていたら、偶然、ヨット部の顧問に呼び止められたんです。廊下で」。
それが一つの縁ともなって、ヨット部に入部。当時のヨット部は、国体、インターハイの常連校だったそうである。
「湖でぷかぷか浮いて気持ち良さそうだった」と時吉氏は、ヨット部の様子を語っている。しかし、時吉氏自身は、入部早々、停学処分を食らってしまった。
2週間の停学。停学が解けて、登校した時吉氏の頭は、五厘刈り。再スタートの決意を髪型で示した。たしかに、それから2年ちかく、問題は起こさなかったが、3年になり、ふたたび停学となる。バイクに乗っているのが、学校側にバレてしまったそうだ。
本人は、知らなかったが、この時の職員会議は、紛糾。「退学」という意見も出たそうだ。
「これはあとから聞いた話なんですが、そのとき、うちの顧問が体をはって私を守ってくれたそうなんです。『あいつは大丈夫だ。責任はオレが持つ』というようなことだったんでしょうね。それを聞いて、スイッチが入ったんです」。
それまでヨット部にいても、ただただ湖に浮いているだけ。大会にも特別、興味がなかった。
「しかし、あのときは間違いなくスイッチが入りました。私を救ってくれた先生に対して、このままでは申し訳ない、と」。
体をはって引き留めてくれた教師を、まぬけな教師にするわけにはいかなった。「インターハイはもう終わっていたんですが、国体が残っていた。国体まで3ヵ月。もう、やるしかないでしょ」。
部にいても、波に乗れず、ただいるだけだった部員が、猛練習を開始する。
「退学させるべきだ」と主張した教師たちは唖然としたことだろう。時吉氏の思いを知って、「あいつを国体へ」と、思いがけず仲間たちもちからを合わせサポートしてくれた。
とはいえ、たった3ヵ月。いくら運動神経に恵まれた時吉氏といえども、簡単に出場できるほど甘い世界ではない。
「ところが奇跡が起こったんです。茨城で1位になり、国体に選ばれたんです」。
いまもその時のことは忘れていない。
初めて知った仲間のありがたさも含めて。

父の一言でスイッチが入る。しかし、それは、孤独の始まり。

「ほんとうは、5年かけてと思っていたんです」と時吉氏は笑う。国体に出場したことで、大学からもスカウトがあり、強豪の「関東学院」に入学して4年経ったときのことだ。大学でもヨットをつづけた時吉氏は、日本代表にも選ばれている。
「とにかく、大学時代はヨットです。就職活動もしなかった。だから、わざと単位を一つ残して、確信犯的に留年を目論んだんです。ところが、教授が『単位をあげるから卒業しろ』って。まったくもって、いらぬおせっかいでした(笑)」。
ありがたい話をもらったのは、卒業までもうわずかの時。いまさら就カツもなかった。
「だから、4月になっても職は決まらず、家でぷらぷらしていたんです。そういう息子をみかねたんでしょうね。親父から初めて『うちで働け』って言われたんです」。
時吉氏には継ぐ気がなかったし、父もまた同じだったかもしれないのだが、2人にとって、それ以外の選択肢は、その時、なかった。
試作品の、板金加工。時吉氏にとっては、初めて経験する仕事だった。
「ヨットを始めた、最初の頃のように、やる気もない。だらだらとは言いませんが、可もなく不可もというイメージで。ところがある日、親父が、ふと『3億やりたいな』と呟いたんです。当時の年商は2億4000万円ほど。3億は、相当ハードルが高い数字でした」。
しかし、その一言で、またまた時吉氏のスイッチが入った。父のふと漏らした言葉の響きが、息子の時吉氏の心を打ったのだ。
「よしやるか」。エンジン、点火。しかし、職人たちは、そんな時吉氏にさめた目を向けた。「ぜんぜん協力的じゃないんです。勝手にやってろ、みたいな。いつもなら、ケンカになるところですが、そんなことをしてもなんにもならない。やってくれないなら、オレ1人でやるしかない」。
もともとスイッチが入れば、つよい人だ。めげない、負けない、あきらめない。しかも、全力。
夜中まで作業をつづけた。睡眠時間を削り、朝は誰より早く出社した。丸3年。
「24〜27歳までの3年間です。孤独と向き合い、まるで1人の職人しかいないような、日々。ところが、ある日のことです。急に『楽になったな』と思ったんです。するといつのまにか非協力的だった職人さんたちが、私の仕事を手伝ってくれていたんです」。
ありがたかった。無心でいたのに、涙がでそうだった。感謝の心。勝ち負けじゃないもう一つの思いが、時吉氏の心を満たした。

飲食へ。新たなスタート。

「職人さんたちが一つになってくれたことで、私自身ひとつの坂を上り切った気がしたんでしょうね。可笑しいことに、ふと、昔、板前になりたかったことを思い出したんです」。
「板前」。
もちろん、昔の思いが、ふと頭に浮かぶことはある。しかし、その思いを頼りに新たな道に進む人は少ない。あるようで、現実的にはない話だ。
特に、時吉氏の場合は、いつのまにか職人たちとも打ち解け、時吉氏を次期社長と認めてくれる職人も少なくなかったからである。
しかし、時吉氏によれば、「板前」という二文字が頭から離れなかったそうだ。
「知り合いに聞いたら、年齢はもちろん背丈も問題で、板前は無理だと言われました」。知人の話によれば、背丈がありすぎる人は板前に向いていないとのことだった。
それで、いったんは断念したが、「板前が無理でも、経営ならできるじゃないか!」と思いつく。3度目の、スイッチが入った。
こうして、ようやく、時吉氏の飲食人生は始まった。
平成7年、つまり2005年のことである。
その後、時吉氏は快進撃を開始する。彼を慕って入社する仲間が、時吉氏の原動力だ。
現在、時吉氏率いる「ネクストグローバル」は、焼鳥「ごう」を中心に、ラーメン、ピザ、炉端ブランドを9店舗出店。うち1つは、韓国ソウルに出店した「ごう」である。
「今後も、1年に1店舗のペースで出店する」と時吉氏はいう。
いまもスイッチは、オンのまま。
どこまで駆け続けられるか、楽しみな社長であり、会社である。

思い出のアルバム
 

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