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第536回 株式会社マル安 会長 中山 望氏
update 16/05/02
株式会社マル安
中山 望氏
株式会社マル安 会長 中山 望氏
生年月日 1963年12月28日
プロフィール 中国、河南省出身。23歳の時、研修生として来日。26歳で再来日してから、日本に滞在。様々な事業を行い、2005年、横浜市中央区に「料金均一」の店舗『遊食家 楽店』をオープンし、ブレイク。「料金均一」のブームの先駆けとなる。
主な業態 「300宴商人」「135酒場」いずれも商標登録済み

中国河南省。

中国河南省は、黄河の下流にあり、殷の都をはじめ、中国の歴史のなかでも重要な都市が置かれたところだそうだ。ちなみに、殷は紀元前17世紀頃に建国されたという。日本ではまだ縄文時代である。
さて、今回、ご登場いただいた中山氏が、この河南省に生まれたのは、1963年である。兄弟は3人で、弟と妹がいる。両親は学校の先生をされていた。中山氏が初来日したのは、23歳の時。1986年のことである。
「当時の日本は、バブルの只中です。私は、中小企業の研修制度に応募し、初めて日本に来ました。研修という名目ですが、人手不足の解消が狙いだったんだと思います」。
勤務したのは、沼津の水産会社。
「研修期間は1年でしたので、初めての日本はわずか1年です。ですが、この1年はとても濃い1年です。上司に銀座に連れて行ってもらったのも、この時です。衝撃を受けました(笑)」。
もともと中山氏は、研修団の副団長という肩書で来日していた。当時の中国は改革解放政策を行っていて、資本主義について学ぶことが一つの目的だったそうだ。
1年の研修期間を経て、帰国した中山氏は、今度は学留学生として再来日。それが26歳の時だ。
「当時の中国は留学ブームだったんですね。私は日本で、日本語学校に通いました。この時、ラーメン店や居酒屋、ホテルの配膳などのアルバイトを経験します。今の原点と言えるかもしれません」。

33歳、経営者への道。

「26歳で再来日し、いろいろなアルバイトをやりながら生計を立て暮らしました。33歳の時に、在日中国人の先輩に『店をやらないか』と声をかけてもらい、新宿歌舞伎町にあった和風居酒屋店の店主となります。同時に、内装業も開始しました」。
33歳、中山氏の人生が大きく動く時である。アルバイトから、経営者へ。結局、この時は失敗に終わるが、それも、一つの経験であり、財産となったはずである。
「内装のほうでは愛知万博にもかかわったんですが、どうもうまくいかない。結局、どちらも行き詰まってしまったんです」。
店も、内装事業も手放した中山氏は、中国人向けの新聞発行を手伝ったり、貿易の仕事に手を出したりした。
「やりたいと思ったことには、なんでもチャレンジしました。2005年、横浜市中区で料金均一の居酒屋をオープンしたのも、この挑戦の延長と言えるかもしれません。『遊食家 楽店』というお店です」。

料金均一。

中山氏は、「楽店」で2つの仕掛けをした。一つは、営業時間である。
「当時は、深夜帯に営業しているお店が少なかったんです。私は、歌舞伎町で店をやっていたもんですから、深夜帯にもお客さんがいることがわかっていました。だから、営業時間を深夜から朝9時までとしたんです」。
もう一つはすでに書いたが「料金均一」である。のち、この料金均一はブームとなるが、その先鞭をつけたのが、この中山氏がオープンした「楽店」である。
「もともとは、古民家風の高級なお店だったんです。しかし、もうバブルの頃でもないし、いわゆるデフレです。デフレ時代に、いままでと同じ発想では、通用しない。それで、思いついたのが、料金均一です」。
バブルの頃から日本に来た中山氏は、日本人以上に日本を観てきた人である。
「いまでは、かなりの数になりましたが、当時、何百円均一なんてお店は、まだまだ少なかったんです」。
デフレの風に乗った。「料金均一」と銘打ったお店は、すぐに客の心をつかんだ。営業を開始すると同時に、客が殺到する。ようやくつかんだ勝機である。

和風から中華へ。

「『均一料金』というビジネスモデルが、私の一つの原点となるんですが、すぐに真似られてしまいます。料金均一のビジネスが評判になるほど、つまり、『楽店』が人気化すればするほど、競合店が増えていきました。やがて大手の居酒屋まで、参入してきたんです。むろん、大手に太刀打ちできません」。
豊かな発想力と豊富な知識に裏付けられた思い切った行動が、中山氏流ビジネスの神髄だ。
「大手チェーン店まで料金均一に参入してきたものですから、うちの店は、和風から中華に思い切って舵を切ったのです」。
先を見越して大胆に攻める。
「これが功を奏して、1号店は錦糸町にあるんですが、隣のビルに大手チェーン店が何店も入っていましたが、負けることはありませんでした」。
むろん、失敗もある。錦糸町の成功で、大阪にもおなじ店を作ったが、こちらは撤退。「関西は粉もんの世界だった」と中山氏は笑う。

薄利多売の人生は、深い。

23歳で初めて来日した中山氏は、当時の銀座を観て、息を飲んだ。26歳で再来日し、33歳から経営者の道を進んだ。成功もあれば、失敗もある。失敗のほうが多かったかもしれない。それでも、中山氏は、へこたれずまっすぐに歩んだ。
「私たちが日本にきた頃の中国と日本では、ずいぶん経済にも格差があったし、貨幣価値も違った。日本で働いて仕送りしている人も少なくなかったはずです。でも、今は逆に、向こうからちゃんと仕送りがあるそうですよ」。
世界の工場から、世界の大消費地に、中国は、発展した。その一方で、日本に来た青年も、日本で大きく成長した。それが中山氏の足跡である。
料金均一。たしかに中華で、というのは面白い発想だが、それだけではないような気がしたので、直截に「どうして人気なのでしょう?」と聞いてみた。
すると「うちは安くて、おいしい。だから、お客様に選んでいただける。ボリュームも大事にしています」と至極、まっとうな答えが返ってきた。
至極まっとうな、この答えにこそ飲食の原点をみた気がした。
薄利多売、そういう商売を追いかけてきた人生でもあるのだろう。
交友関係は広い。中国人だけではなく、日本の飲食経営者などに幅広いネットワークを持っている。日本の飲食店の歴史にもくわしい。
そういう意味では、中国出身の中山氏だから語れる「日本の飲食の歴史」があるような気もした。

思い出のアルバム
 

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