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第550回 株式会社リンガーハット 代表取締役社長 秋本英樹氏
update 16/08/02
株式会社リンガーハット
秋本英樹氏
株式会社リンガーハット 代表取締役社長 秋本英樹氏
生年月日 1954年4月6日
プロフィール 長崎県長崎市出身。近畿大学第二工学部(現産業理工学部)卒業。「リンガーハット」の前身である株式会社浜勝に入社。以来、同社一筋。「長崎ちゃんぽん」とともに、成長する。2005年、専務取締役営業本部長兼マーケティング本部長就任、翌2006年には代表取締役専務就任する。2009年、業績悪化の責任を取り、子会社に出向。「リンガーハット開発」の社長に就任する。2013年11月「リンガーハット」に戻り、副社長執行役員管理部担当に。そして2014年5月27日の株主総会で、代表取締役社長に昇格する。
主な業態 「長崎ちゃんぽんリンガーハット」「とんかつ浜勝」「長崎卓袱浜勝」
企業HP http://www.ringerhut.co.jp/

進路は、公務員以外。

秋本氏が長崎市に生まれたのは、1954年4月6日。3人兄弟の長男である。
父親は日本電信電話公社で勤務されていた。当時はまだ民営化されていないから、公務員となる。
「小さい頃から割と活発な方だった」と、秋本氏。なかでも水泳、野球が得意だった。中学生になると、友人に誘われるまま吹奏楽部に入部。担当はトロンボーンだったそうだ。
中学の吹奏楽部は、つよくて大会で準優勝したこともある。高校は長崎の南山高校。そこから近畿大学に進学している。
専攻は、産業理工学。チューナーをつくるなど、実験主体で、楽しかったそうだ。いつかは父親のように、と思っていたのかもしれない。
ところが、大学生のある夏休み。
日本電信電話公社で、配線のアルバイトをしたことがきっかけで、公務員という生業に幻滅する。「公務員にはなりたくない」。
この時、明確な進路は決めていなかったものの、「公務員」は秋本氏の選択肢から外れた。

飲食は、「水商売」と言われていた時代の話。

就職ではいつかの会社を受けたそうだ。受かった会社もあったが、ピンとこなかった。飲食は、想定外だったが、「長崎ちゃんめん」ですでに有名だったこともあって、秋本氏は、株式会社浜勝を受験する。
まだ飲食が、「水商売」と揶揄されていた時代である。
「そうですね。風当たりは強かったです(笑)。息子を公務員にと思っていたもんですから、そりゃぁ、両親は猛反対でした」。
何も、秋本氏のご両親が特別だったわけではない。大学を出て「飲食」に入るなど考えられない時代だった。それだけ「飲食」の地位が低く、「大学の価値」が高かった時代と言い換えることもできるだろう。
当時の状況を知る意味でも、リンガーハットの沿革を少しお話しておこう。
<リンガーハットの沿革>
昭和37年7月22日、長崎に「とんかつ浜勝」を創業。これが、始まり。昭和39年に株式会社「浜かつ」を設立し、法人化。
株式会社「浜勝」に商号変更されるのは、昭和48年のこと。
「長崎ちゃんめん」(現・「長崎ちゃんぽん」)を主力商品にしたチェー ン店の第1号(リンガーハット長崎宿町店)を長崎市に開店したのは、翌、昭和49年である。
昭和49年は、1974年のことなので、秋本氏が新卒で入社したのは、翌々年の昭和51年となる。秋本氏が入社した頃は、リンガーハットが快進撃を開始する頃と重なる。
ちなみに、店名とおなじ社名。すなわち株式会社リンガーハットになるのは、昭和57年8月のことだ。

株式会社浜勝に就職。

秋本氏の話に戻る。
「両親には反対されましたが、大学の就職課の先生には勧めていただいて、それで、株式会社浜勝に就職することを決めたんです」。
もっとも一度は、不採用だったらしい。
「理工学部だったもんですから、電気の試験があったんです。へんでしょ。なんでも当時は、出身学部に合わせて試験もかえていたそうなんです」。
どうも納得できなかったそうで、秋本氏は、人事部に電話をかけた。
「理由を聞くと、『あなたは技術系でしょ。うちが欲しいのは営業なんです』って言われたんです。え、私のほうはもともとそういうつもりだったし、それで『営業します』って答えたら、今度はちゃんと合格しました(笑)」。
ところで、「水商売」といわれていたように、当時、飲食は、3Kの代表格だった。これは、事実である。
会社の規模もまだ小さい。
「研修は1ヵ月。今では考えられませんが、この1ヵ月間、休みもありませんでした(笑)」。
「リンガーハット」の快進撃が始まった頃でもある。当時からすでに行列ができる人気店だったから、当然、客が来る。店員は休みなくはたらいたが、それでも溢れるばかりの客の対応に追われつづけた。
「しかも、当時は、社員しか鍋が振れなかったんですね。だから、社員が休むわけにはいかない」。
ということは、休めないばかりか、社員である限り、「鍋を振るワザ」はマスターしておかなければならないということだった。
「仕事の合間をみつけて、練習しました。鍋に砂を入れてね(笑)」。鍋のなかで、砂が動く。自在に砂を制御できなければならない。もちろん、修業と言っても、悠長なことは言っていられない。
「出店スピードがハンパなかったからです。私も、たった6ヵ月で店長です(笑)」。

理不尽な店長たち。

「1号店を出店した時から『100店舗だ』って号令がかかっていました。しかし、「100店」と言っても、私たちペーペーには、まったく想像がつきません」。
想像はつかなかったが、実際に、店舗が次々できあがっていくのは、まぎれもない事実だった。それを目の当たりにしながらも、想像できないくらい100店舗は高いカベだったのだろう。秋本氏ら社員は、ともかく目の前のことに追われ、その勢いにのみ込まれていく。
 当時の様子を聞いてみた。
「入社した頃は、『こりゃ、たまらんな』と思っていました。当時の店長は、ぜんぜん仕事をしないんです。で、私ら新人をこき使う(笑)」。
 大卒ということで風当たりもつよかったらしい。
「まだ新卒者は少なくって、大卒だなんていうと社内からもへんな目で見られるわけですよ。理不尽な仕打ちも受けました」。
妬み僻みではないのだろうが、「体力が大事だ」と尻を叩かれ、店の外を走らされたこともある。1人マラソンである。いまなら退職の引き金になってもおかしくない話だが、当時を知る1人としては、なんとなくそういう風景も、想像できる。
「親の反対を押し切って入社したわけでしょ。そうそう辞めるわけにはいきません」。
たしかに、あえて、3Kの道を進んだ。公務員の父とは異なる、もう一つの道。理不尽な行為の一つや二つや、三つや四つで辞めるわけにはいかない。理不尽な指導を受け入れた時、ほんとうの意味で秋本氏のリンガーハット人生がスタートしたのかもしれない。

労働組合、三代目委員長。

飲食業界にとって、1970年前後はひとつのターニングポイントだ。チェーンストア理論をもとに、チェーン化が進みはじめるからだ。その代表例は、郊外型のファミリーレストランだろう。モータリゼーションの進歩と、いい具合にタイミングも合い、国道沿いに多くのレストランが誕生する。
いうまでもなく、赤いとんがり帽子の「リンガーハット」もその一つである。経営が近代化され、一方では大卒者が大量に採用され、いつしか従来の水商売というイメージは払しょくされていった。株式を上場する企業も現れる。
新卒当時の秋本氏には、想像もできなかった100号店も、今振り返れば通過点に過ぎなかった。昭和60年にはリンガーハットも株式を上場する。
秋本氏も、キャリアを積み、教育担当、三代目委員長とキャリアアップしていく。労働組合は、経営者と対峙することが役割となる。経営者同様の知識も問われる。
「リンガーハットは、いまもそうですが、業界でも群を抜く労働環境を整えています。そういう意味では当時から経営陣の理解もあって、助かりました」。平成3年には、200店舗達成。翌年には、社員ライセンスオーナー・1号店(熊本健軍店)が開店する。
順風満帆。
しかし、多くの大手チェーン店がそうであったように「リンガーハット」も苦境に陥る。

マクドナルド元社長、招へい。

2006年、リンガーハットはマクドナルド元社長を社長に迎えるというトップ人事を行った。すでに創業時のような勢いはない。当時、リンガーハットは、通期で赤字と黒字を繰り返していた。
「経営のプロの招へいです。米濱社長は、会長になり退かれた格好です。私は、当時、専務でした」。
経営のプロにかじ取りを委ねることで、一挙に業績をアップしようという目論見だったが、起死回生の一手にはならなかったようだ。
「まずオペレーションが見直されました。麺も、具も、スープも冷凍となり、『冷凍ちゃんぽん』を電磁調理器で加熱して配膳するシステムを導入します」。
いうまでもなく、経営改革の一環である。効率を高めたうえで、価格も399円から450円に値上げされた。
「客足が遠のきました。それで、クーポンです」。クーポンを持参すれば、一皿450円の「ちゃんぽん」が100円引きの350円になる。この戦略でいったん客足は戻ったが、クーポンが常態化すると、単なる値引きおなじ。経営は迷走した。
「新社長が就任前のリンガーハットは、味が最大のウリでした。麺は生麺、中華鍋を振って店内で調理する、職人のスタッフたちが、創業当時の味を守り、継承してきたのです。サービスもしかりです。しかし、社長はマーケティングを重視されました。味やサービス、言い換えれば、お客様を見失った時点で、経営悪化は避けられないものとなっていたのかもしれません。しかし、一方で今までのリンガーハットになかった新しい風もたくさん取り入れてくれました。その点大変感謝しています」。
2009年2月、リンガーハットは過去最大の赤字を計上する。専務の秋本氏の立場も微妙なところだ。アドバイスはするが最終は社長の判断となる。この数年間、忸怩たる思いだったかもしれない。

再生。リンガーハットの未来は。

「社長に退いていただいて、米濱が会長兼社長になり、業績の立て直しを図ります。私は、子会社の社長になりました。いうまでもなく、左遷です。しかし、いい勉強になりました(笑)」。
むろん、リンガーハットのことが気掛かりでしかたない。米濱が復帰し、経営スタイルも、オペレーションも刷新した。昔のリンガーハット流に舞い戻ったと言っていい。ちからを入れたのは、「野菜」である。
米濱の号令で、「ちゃんぽん」に入れる野菜をすべて国産化する戦いが始まった。生産者さえ少ない品種があり、そういう野菜は、栽培をお願いすることから始めなければならなかったそうだ。
「利益がちゃんとでるようになるまで数年かかりましたが、国産野菜というインパクトは強かったですね。当時、ある大手さんで、いろいろ問題があって、やっぱり国産が安心・安全だってことで、注目されました」。
TV局も注目したそうだ。
「客足は伸びましたが、まだ業績が回復するかどうかわからない時に、TV局から取材のオファーがありました。『国産の野菜』のインパクトが、どこまで業績を回復させるのか、を追いかけてみたいということでした。V字回復できないなら、放映はされないわけで、彼らも賭けてくれたんだと思います」。
TVクルーたちが、追いかける、ドキュメントタッチの絵。彼らの賭けは、TV放映という実を結んだ。当然、「V字回復」ということになる。
「あのTVが決定打になったかもしれません。業績が回復したのを、さらに後押ししてくれました」と秋本氏。
国産に賭けたことが、様々な意味で、功を奏す。
さて、今後の目標を伺うと、「2017年2月期までに1000店舗出店」「2020年までに海外の売上比率を50%にまで持っていく」ということだった。
社内の体制も、人材面で更なる強化を実現する。まず、女性管理職の比率を30%まで引き上げることだ。そのため、新卒採用においても女性の採用にとりわけ注力していきたいとのことである。
一方、パートタイマーの店長も、育てていく計画である。
この両者は、資産を上手に活用する、育成上手のリンガーハットらしい一手になることは間違いない。更には、M&Aも視野に入れているとのこと。
話を伺っていると、ふたたび、秋本氏が入社した当時の勢いが戻ってきたように感じる。
「最終的には『外食ナンバー1』、これが目標です。社長へ就任して、現在4期連続増収増益であり、5期連続をめざし、ますます社員一丸となって頑張ります」と秋本氏。
けっして、無謀な目標ではない。

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