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第554回 株式会社ESSENCE 代表取締役社長 酒井 クロード宏之氏
update 16/08/23
株式会社ESSENCE
クロード宏之氏
株式会社ESSENCE 代表取締役社長 酒井 クロード宏之氏
生年月日 1973年11月3日
プロフィール 父であるフレンチ達人、酒井一之氏の修業時代に、フランスのパリで生まれる。両親の帰国とともに、小学1年生の2学期に日本へ。高校卒業後、バーテンダーになるべく修業を開始する。その後、居酒屋甲子園の監事を務められた齋藤芳春氏と出会い、ともに「QUEEN OF CHICKENS」を開業する。
主な業態 「QUEEN OF CHICKENS」
企業HP http://queenofchickens.com/

パリっ子、江戸っ子たちと交わる。

酒井一之という料理人がいる。厚生労働大臣賞をはじめ、東京都知事賞、東京都最優秀技能賞(江戸の名工)を受賞するなど、日本国内のフランス料理界の頂点に立つ料理人の1人である。著名な料理人で結成した「グラン・デ・トラトン」の事務局長を務めたほか、クスクスやジビエ料理、シャルキュトリーなどを広めた料理人としても有名だ。一之氏が家族とともに長く滞在したフランスには、多くの門下生が訪れている。「ミシュラン」において最年少で1つ星を獲得した松島啓介氏も、その1人とのことだ。
この偉大なる料理人を父に持つのが、今回、ご登場いただいた株式会社ESSENCEの代表取締役社長 酒井 クロード宏之氏である。酒井氏が生まれたのは、1973年。出身地は、日本ではなくフランス、パリ。父親の一之氏の年表と照らし合わせると、一之氏が「フランス・ホテルムーリス」で勤務されていた時と重なる。
「私が、日本にもどったというか、来たのは、小学校1年の2学期です。日本語がまったくできなかったわけではありませんが、フランス語のように流暢にはしゃべれないし、漢字も読めない。教科書はもちろん授業はすべて日本語でしょ。ぜんぜんついていけませんでした(笑)」。当時、フランス語を流暢にしゃべれる人は、日本に何人くらいいただろう。少年、酒井は、そのうちの1人だった。代わりに、日本語がそううまくない。その事実からも、当時、酒井少年に向けられた周りの子どもたちの目は、ほぼ想像できる。
「パリにいた時は、ニホンジン。こっちに来たら、フランスジンって、バカにされるんです(笑)」。しかし、それも当初だけの話で、いつしか日本語を母国語のように流暢にしゃべっていた。パリっ子は、案外早く、江戸っ子たちに馴染んだのかもしれない。

一冊の本。

スポーツはサッカーも、スキーもしたが、なかでも空手が上手だった。高校にもなれば、フランス語は忘れ、日本語以外できなくなった。高校の頃からアルバイトにも、精を出した。大学に進学するつもりはぜんぜんない。
「私には、弟がいるんですが、彼は私よりも小さい時に、帰国したものですから、違和感はなかったでしょうね。日本語もすぐにできたし、私は授業にもついていけませんでしたが、彼は、成績も抜群だった。私たち2人は、母の影響もあって、2人とも映画好きになるんですが、弟は大人になってから、アメリカで会社を立ち上げ、3Dのアニメーションの制作などを行うまでになりました。世界的にヒットした作品にも、彼は参加しています」。
弟と比較されると、兄の立場がないように思えた。「そうですね。昔は、父親とも、弟とも口もききませんでした。でも、私の道を開いてくれたのは、この2人なんです」。
高校を卒業し、本人いわく、「ぷらぷらしていた」時のこと、ベッドで寝ていると、弟が、一冊の本を投げてよこした。「何もすることがないんなら、本でも読んだらどうだ」。
弟のジョルジュ眞之氏が、どういうつもりだったか、わからない。しかし、投げられた本は、酒井氏に明確な一本の道を示した。「熊手篤男さんのバーボン専門の本【オンリー、ロンリー、バーボン】です。彼は留学中にバーボンと出会って、帰国してゼロからバーを開きます。当時、トムクルーズのカクテルという映画も好きだったことも影響したんだと思います。本を読み進めていくなかで、『これだ!』『これだ!』と思って」。
その日のうちに、熊手篤男氏が経営する一つのバーの門を叩いた。場所は、渋谷。「たまたまですが、うちの父がやっていた店の隣のビルだったんです。熊手さんはいらっしゃいませんでしたが、店長が対応してくださって。そうですね、当時は、相当、流行っていました。30席で、ウエイティングがでるくらいでした」。すぐに採用された。しかし、殴る、蹴るが横行していた。
「鉄拳制裁もあるような店だったんですが、あの時、はじめて巧くなる喜びを、人生において初めて体験できすることができました。私にとって大きな、大きな体験です」。
もっと、巧くなりたい。向上心に火が付いた。そして、違ったバーも経験するために、いったん退職する。
「いま思えば、話は出来上がっていたんだと思います。その時、父から『どうせバーテンダーをするんだったら、バーテンダーをしながら世界一周したらどうか』って言われて。その話に食いついてしまったんです。世界一周するアスカって船のバーテンダーです」。
ところが、履歴書を持っていくとあっけなく断られた。「高卒じゃだめだということでした。父にそう、言われたと言ったら、じゃあ、専門学校に入ったらどうだ、と。ハナから専門学校に行かすためのしかけだったんです(笑)」。
専門学校では、父に習ってフランス料理を専攻する。しかし、授業中も、ずっとカクテルの勉強をしていた。「昼は専門学校でしょ。夜はバーで勤務していました。ほとんど寝ていません」。それだけのひたむきだったし、それだけエネルギーがあった証明だ。1冊の本との出会い、ともかく酒井氏は、走り始めた。

新たな炎。

「卒業後、渡仏して、向こうで数年間勤務すれば、日本で勤務の口をみつけられる」と担任に言われたが、酒井氏は日本に残った。まだまだバーテンダーとして、勉強することが山盛り残っていたからだ。「次に勤務したのは、有名な飲食会社が経営しているバーで、アイスピックで丸氷をつくったり、ジャズの生演奏があったりして、王道のバーです。このバーで私は10年くらい勤務します。しかし、バーテンをやっていたのは、3年。あとの7年は、マネジメントに徹しました」。
10年経って、30歳。突然、やる気がなくなった。
「どうして、でしょうね」。一冊の本と出合って、燃え上がった炎が、消える。できることが増えたかもしれないし、追いかける何かを見失ったからかもしれない。しかし、そんな時、ある人物と出会い、いままでとは異なった思いが沸き起こる。
「出会ったのは、齋藤さんです」。酒井氏が、齋藤さんというのは、齋藤芳春氏のことで、氏は「居酒屋甲子園」で監事も務めた敏腕経営者である。「齋藤さんから、『銀座で新店をやるから、いっしょにやろう』と誘っていただいて。でも、結局その話は流れしまったんです。もう会社は辞めていたんで、バイトを掛け持ちして、なんとか乗り切りました。実は齋藤さんのほうもたいへんだったそうで、最初は会社の新ブランドってことだったんですが、会社から『待った』がかかったそうなんです。それで『クロードも無職になってしまうし、それなら、新会社をつくてしまおう』ってことになって。齋藤さんをオヤジと慕う飲食店経営者や仲間が集まって、この業態を一緒に,作ったんです。ハイ、それが、うちの会社。つまり最初は、齋藤さんが社長だったんです」。
そこで経営者として勉強して、社長を引き継いだのは2015年2月とのことだ。
オープン時の話も聞かせてもらった。「1号店は新橋です。店名は「QUEEN OF CHICKENS」新橋本店。現在は2号店が、2Fにあるんですが。そうですね。スタートした初月から、快調でした。初月から600〜700万円です。雑誌にも取り上げていただいたおかげで、しばらくすると800万円を超えるようになりました」。
看板メニューは、なんといっても「ロティサリーチキン」である。14種類のスパイスとハーブを使い、2日間マリネした鶏を丸ごと一羽を、店頭のロティサリーマシンでじっくりローストする。サイズは、1羽のほか、1/2サイズ・1/4サイズとなる。ちなみに、父親の一之氏が顧問となって、目をひからせている。一之氏の料理を楽しめる。それだけで価値がある。「そうですね。もうすぐ新店をだすので、合計直営で4店です。フランチャイズは、現在、5店舗あり、まだ10件近く申し込みがありますので、すぐに十数店までは行くと思います。今私たちが取り組んでいるのは、新たなブランドづくりです。どんな店を展開するか、楽しみにしておいてください」。
すっかり、以前の酒井氏である。齋藤氏に出会い、新たな火を灯したことで、今の酒井氏がある。現状でも、かなりの成功と言えるが、むろん、師匠でもある齋藤氏は、それでよしとしないだろう。その思いは、当然、酒井氏に共有されていく。
酒井氏のなかに再度、点火した炎は、まだまだ消えることはない。ちなみに、「もうフランス語は話せないよ」と笑う酒井氏だが、フレンチの巨匠である父の遺伝子も、生まれ育ったパリ仕込みのセンスも、氏のなかには間違いなく存在する。そんな酒井氏が繰り出す、次の一手。たしかに、待ち遠しい。

思い出のアルバム
 
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