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第565回 株式会社オーエムツーダイニング 代表取締役社長 伊丹俊彦氏
update 16/11/08
株式会社オーエムツーダイニング
伊丹俊彦氏
株式会社オーエムツーダイニング 代表取締役社長 伊丹俊彦氏
生年月日 1959年4月29日
プロフィール 岩手県大船渡市に生まれる。父親の転勤で、東京や富山、大阪を転々とする。明治大学卒。大学時代はスポーツアナウンサーをめざしたが、TV局に合格できず、商社に就職。しかし、就職した会社が入社2年で倒産する。ただし、その2年で積んだ経理のキャリアが、人生を決める。転職を重ねたが、いわば、経理一筋。2001年、42歳で、「アウトバックステーキジャパン」にCFOとして入社する。
主な業態 「アウトバックステーキハウス」
企業HP http://www.outbacksteakhouse.co.jp/

大学合格まで。

「大阪の吹田市で万国博覧会が開かれた時は、ちょうど大阪にいた」と伊丹氏は子ども時代を振り返る。「1970年ですよね。小学4.年生でした」。太陽の塔を中心に、各国の館が並び、日本中から人が訪れた。アメリカ館の「月の石」をみるために、数時間におよぶ行列ができたそうである。
もともと伊丹氏は、岩手県で生まれている。小野田セメントに勤めていた父が、典型的な転勤族で、東京、富山、大阪、ふたたび東京と渡り歩き、家族も転々とした。伊丹氏が言う通り、万国博覧会が開催された1970年は、ちょうど大阪で、しかも、開催市の吹田で暮らしていたそうだ。
「いまではマンションが林立したような街ですが、当時はまだ山もあり、田畑も多かった。遊び場には、苦労しませんでした」。なんでも、「万博につづく秘密の抜け道もあった」そうだ。
兄弟は、2人いる。伊丹氏が末っ子で長男とは7つ、次男とは2つ離れている。「上の兄2人が優秀だったもんですから、なにかとコンプレックスがあったのは事実ですね。もっとも高校までは、だれだれの弟っていうことで得していたような気もしますが(笑)」。
親子5人、落ち着いたのは、2度目の東京で暮らし始めてからだ。東京にもどったのは、伊丹氏が小学6年生の時である。「それからは転勤なしですね。あっても、親父1人の単身でした。両親はもともと、三重県。母方は、住職です。これは、のちに私の問題にもなるんですが、ともかく、小学6年生で東京にもどって、落ち着きます。中学を卒業するまでは、サッカーをしていました。次男がサッカーをしていたので、その影響です。ただし、兄の時とは違って、試合では1回も勝っていませんが(笑)」。
高校でも、サッカーをつづけようと思ったが、巧い選手ばかりで、「気後れして、入部を見送った」と笑う。「中学までは兄のあとを追いかけていたんですが、高校はそうはいきません。彼らとちがって、勉強もそうできなかったから。次男は、慶応に進みましたが、私は、明治。それも前日に、読んでいた箇所がそのまま出るといった奇跡もあって、です(笑)」。

就職と倒産。

「大学受験の時にはもう一つの選択肢がありました。さきほど言った母方の住職の話です。お寺を継ぐ人がいなくて、どうだということになったんです。いま思えば、悪くはないんですが、大学もそちらのほうに行かないといけないし、祖父には申し訳なかったんですが、辞退しました。いまそのお寺は、私たちとは関係のない方が住職をされています」。つまり、住職という道を捨てて、選んだのが、明治大学だった。
どんな大学生でしたか? と伺った。「そうですね。大学では、放送研究会に入りました。50人くらいいて、うち3分の1が女子です。あの頃は、真剣にスポーツアナになりたいと思っていました。野球観戦に行って、ネット裏で、1人実況中継を行っていました」。
ラジオを聴くのも、大好きで、それも勉強だった。スポーツアナをめざし、テレ朝を受検したが、惜しくも不合格。スイッチを切り替えた。
「それで就職したのは、TVとはまったく関係のない、大沢商会(一部上場企業)です。入社できたのは良かったんですが、2年目くらいの時に倒産してしまいます。1部上場企業の大型倒産でしたから、当時は、結構、大きな波紋を呼びました」。
配属されたのは、経理だったから、ある程度、推測できる位置にいたが、それでもまだペイペイである。「そうですね。倒産するとは思っていませんでした。2月に倒産し、残務処理やなにやらで5月くらいまでは勤務していました」。
ところで、伊丹氏は「転職マニアだ」と自嘲するが、これが、最初の転職の引き金となった。

「アウトバックステーキジャパン」入社。

次に入社したのは、「インテルジャパン」である。しかし、こちらにいたのは短くて、1年くらい。次にの会社は、かつてのユニデン時代のかつて上司が勤めていたところで、7年くらいいました。
その後リゾート開発の1年、アウトバックの前は、テニスの錦織選手が使っているラケッ、ゴルフのクラブなどのスポーツ用品のメーカー、ウイルソンジャパンに10年いました。
今では、転職も当たり前ですが、当時はそうじゃなかった。転職回数が、合否の分かれ目ともなった時代です」。
しかし、どこにいっても経理という仕事は同じ。転職するたびに、スキルアップしたのも事実だろう。
「それから、飲食です。飲食は、究極の小売ですね。前職が卸だったものですから、小売に興味があったんです」。それが、2001年に転職した「アウトバックステーキジャパン」である。
「アウトバックステーキジャパン」は、1988年にアメリカのフロリダ州・タンパで誕生したカジュアル・ダイニング「アウトバックステーキハウス」の日本法人である。日本法人設立は、2000年。
伊丹氏が転職する1年前だ。「私が入社したのは、ちょうど3店舗目がオープンしたか、しないかの時です」。

豊富で多彩なキャリアで、会社を明日へと導いていく。

「もともとは、アメリカ本部の直営だったんですが、日本のビジネスは儲からないということになって、日本企業の資本でやろうということになって、事業譲渡されました。。いわゆるフランチャイズですね。それで、現在は、『エスフーズ』の孫会社です。親会社は、『エスフーズ』の子会社の『オーエムツーネットワーク』です」。
いまのスタイルになったのは、2011年11月。以来、売上も記録的にアップしている。
「そうですね。いまの体制になって、最初の1年に、1年目だから、何をやっても許されるだろうということで、思い切って色々させていただきました。『エスフーズ』さんから、オーストラリアの最高級の肉を仕入れて、プレミアムステーキとして売り出したのも、この時です。多少単価は上げましたが、それでも、エスフーズさんのおかげで、『この品質で、この価格!!』と驚かれるような値段設定ができました。これも、火付け役の一つとなって、2011年の11月決算で23億円だった売上が、2015年の決算では34億円になっていくんです。ステーキブームに乗ったともいえるんですが、黒字もいまや常態化しています」。
そうなると、今後の出店も気になってくる。
「たしかに、いずれのお店も好調ですが、いまはまだ積極的に出店するつもりはありません。飲食は、浮き沈みが小さくないでしょ。だから、慎重になっているのかもしれません」。
上場企業の子会社である。無謀なことはむろん慎まなければならない。商社やメーカーなど異なった業種でキャリアを積んできた伊丹氏だからわかることも少なくないのだろう。
「アウトバックステーキハウスは、オーストラリアをコンセプトにしています。だから、オーストラリアの会社ですか?と言われることも少なくないんですが、アウトバック自体は、アメリカの会社です。私たちは、フランチャイズですから、コンセプトは守っていかなければならないし、縛りがあるのも事実です。ですから、フリーハンドというわけにはいきませんが、良き時代を残すように、創業当初の、職人的な部分は残していきたいと思っています」。
どういうことだろう?
「いろんなステーキのお店がありますが、うちのストロングポイントは、味も、サービスも、雰囲気も、すべて合わせて、なんです。むろん、ブランドという付加価値も高いです。いたずらに出店してしまうと、そういうブランド価値が棄損しかねない、それが心配なんです。だからこそ、原点は見失いたくないと思っています。そして、そのことはすなわち、このブランド価値を守ることができる職人的な人材の育成が大事だということを示しています」。
話を聞いておどろいた。待遇に、である。「ありがたいことに、いろんなところで、うちのスタッフのことを褒めていただくんですね。みんなの頑張りもありますし、その背景もあるんです」。
そのバックボーンの一つが待遇で、店長で700万円、スーパーバイザーとなれば、年収は900万円くらいになるそうだ。飲食では、頭一つ飛び出した額である。こういう風になるのは、基本給与に店舗の利益が加算されていくしくみがあるからだそう。それでいて、休日は完全週休2日制。一般社員で108日、店長よりうえのクラスで105日となるらしい。むろん、これも、多い。
単純に数字だけみれば、うらやましいとなる人もいるのではないか。しかし、これを維持するためには、経営者には難しいかじ取りが要求される。
「スポーツでよくいうじゃないですか。あの時があったから今が耐えられるって。私にとっては、ユニデン時代がそれですね。台湾、香港、マレーシアと渡り歩いて、いろんな経験をしましたが、あの時の苦労を思えば、なんでもない、って思えるんです」。
たしかに、分野は違っても、そういう経験で、人は強くなる。
「まだまだこれからでもあるんですが、強い組織をつくりたいですね」。豊富で、多彩なキャリアを持った経営者。そのキャリアから導き出される、次の一手にも期待したい。

思い出のアルバム
 

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