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第582回 有限会社ハレノヒ 代表取締役 高野昌宏氏
update 17/03/14
有限会社ハレノヒ
高野昌宏氏
有限会社ハレノヒ 代表取締役 高野昌宏氏
生年月日 1971年5月3日
プロフィール 福島県相馬市に生まれる。神奈川大学卒業後、フリーターとして、飲食店を転々とする。24歳で、大手飲食店で正社員となるが、25歳で退職。あることをきっかけに、30歳での起業を決意。正確には31歳と1ヵ月となるが、父親の誕生日である6月1日に開業。当時まだめずらしかったホルモン焼きの「魅惑の七輪らんまん」で、デビューを飾り、3年後には、法人化に成功する。現在、全店黒字だが、今後は、からあげの「らんまん食堂」一本に絞り、資本も、人も投資するという。2016年7月にはシンガポールに海外1号店を出店。
主な業態 「魅惑の七輪らんまん」「らんまん食堂」
企業HP http://www.rangmang.com/

少年時代から、大学時代まで。

5月は空が高くて、青い。1971年の5月3日。その日の相馬市も、きっと晴れやかだったに違いない。「私は3人兄弟の末っ子でした。兄とは11歳、姉とは7歳と、ずいぶん年が離れています。私が生まれたのは、1971年の5月3日。生まれは、福島県の相馬市です」。
ご両親は、元々、クリーニング店や茶店、布団屋などを手広く経営されていたそうだが、高野氏が生まれた1971年、医療ミスによって、父親が半身不随となってしまう。「母1人でしょ。だから、クリーニング店だけを残し、あとは店じまいしたそうです」。
高野氏にとって、母はきびしい人だったらしい。高野氏は、1人、年の離れた末っ子だった。かわいいに違いないが、1人店を切り盛りする母にも、やさしく接する余裕がなかったのだろう。
代わりに兄がいて、姉がいた。2人は、兄弟だが、喧嘩相手ではなく、親代わりだった。
「私は、小学校の頃からバレーボールをはじめました。私もそうですが、チームのみんな筋が良くって、全国大会にも出場します。バレーボールは中学でもつづけますが、こちらは県大会でベスト8くらい。小学校の頃のように、真剣に取り組んではいなかったんで、中途半端な結果で終わってしまいました(笑)」。
それでも、バレーボールは、特別で、勉強は二の次だった。ところが、本人いわく、「高校に入って、勉強に目覚めた」そうだ。「高校に入って、ちょっとまじめに勉強を始めると、コツがわかったんです。コツがわかると、問題もスラスラ解けるようになって、学年で3番くらいに入るようになりました。それでも、そうたいした大学に進学したわけではないんですが(笑)」。
大学は「神奈川大学」に推薦で進学する。「特別、大学に進学するつもりもなかったんですが、母から『お金のせいで大学に行かせられないのは私の本意じゃない』と言われ、母に対する感謝の気持ちもあったもんですから、素直に言葉に従いました」。
大学生活がスタートする。

彼女にフラれて、スイッチON。

「飲食に出会ったのは、大学時代です。1年の10月になってアルバイトを始めます。学費は、私が払うことになっていましたから、のんびりしているわけにもいなくなって。応募したのは、居酒屋を少しおしゃれにしたカフェ・バーのオープニングスタッフでした。初めてのバイトでしたが、楽しかったですね。大学を卒業してからも、フリーターとなってバイトをつづけます。でも、結局、その店はクローズしてしまいました」。
その後も、飲食店を転々とする。正社員として就職したのは24歳の時で、入社したのは『モンテローザ』。「でも、『モンテローザ』時代は、長くありません。25歳の時、地方への人事異動みたいな雲行きになって、それがイヤで退職したんです」。
当時、付き合っていた彼女がいたそうだ。転勤がイヤだった理由の一つかもしれない。「でも、彼女にもいいかげん愛想を付かされて、フラれてしまうんです」。
それが、奮起をうながした。「あの時、初めて真剣になったかもしれません。人に言えば笑われそうですが、私にとっては、それだけ大事な出来事だったんです」。
「30歳までに社長になって、見返してやろう」と思ったそうだ。炎が灯った。今思えば、その炎は、高野氏の奮起を願いつづけた彼女の置き土産だったかもしれない。
30歳。5年あれば、できると思っての数字だったかもしれない。しかし、現実的に言えば5年しかない。5年間で何ができるのか。
「30歳までに起業する。それを前提にすると、料理の技術も、従業員の質も、そう必要としないホルモン焼きの店がいいだろうと思って、その道に進みました」。
当時はまだ、ホルモン焼きの店は少なかったそうだ。「大阪の鶴橋にあるような、ああいう店は少なかったんです。もっとゴージャスな焼肉店ばかりです。ホルモンの専門店はほとんどありません」。
そのようななかで、予約も取れない店があった。「あらちゃん」という。「偶然ですが、うちのそばにあったんです。7坪の、けっしてきれいでも、おしゃれでもない店です。ダクトもなく、匂いは外に流れ放題。店員は外国人です。これは、いい、と門を叩きました。これなら、技術も関係ないだろう、と思ったからです」。
手に職をつける選択肢もないではなかったはずだ。だが、5年。このしばりを考慮すれば、遠回りはできなかった。それだけ、30歳の起業にこだわった証だろう。もちろん、起業しただけでは、意味がない。ちゃんとした男となり、見返すのが目的である。どうすれば人気店をつくれるのか。
ハングリーな青年は、事業のすべてにむしゃぶりついた。

30歳で起業するには、時間との戦いだった。

「すぐにオッケーがでて、仕事をはじめました。人手が足らなかったんでしょうね。独立の目標を言っても、『大歓迎だ』と言われました」。ところで、これはフラれたその日の翌日までの話である。決断力の早さもそうだが、頭のどこかに、予め、構想が眠っていたのかもしれない。「当時、流行っていた、こちらも数少ないホルモン焼きの名店でも勤務しました」。メモ帳片手に、仕入れ先、値段、住所、金額を写し取った。
「タレが旨いんですよ。レシピを知りたいわけですが、もちろん直裁に『教えてくれ』って言っても、殴られるだけです。だから、質問一つにも気を遣って、探りを入れるんです。調味料の種類は、わかっていましたから、一つひとつの答えをピースにして、並べていくと、だんだんと全体が観えてくるんです。この店にいたのは、3ヵ月。でも、それで充分でした」。
数にも対応できなくては、と、もう一つの人気店でも勤務した。来店数1日100〜200人。スピードを経験し、体得した。「結局、3つの店のいいとこ取りです」。
仕入れ先は、宝だと聞いたことがある。新鮮さが勝敗を分けるホルモンなら尚更だ。だから、高野氏は、仕入れ先を探り、金額も記した。交渉すらできなければ、相手にもしてもらえないからである。ホルモンが今ほど、ポピュラーになっていなかったことも功を奏したはずだ。
ともあれ、そういう風にして、5年が経った。

「魅惑の七輪らんまん」。四捨五入すれば、ギリギリ30歳の起業である。

「私は5月3日生まれです。リミットはその日だったんですが、結局、6月1日に初めてのお店をオープンすることになります。まぁ、四捨五入すれば、30歳だし、許される範囲だろう、と。それに、6月1日は、父親の誕生日だったんです」。
2002年、中目黒にオープンした店のネーミングは「魅惑の七輪らんまん」。「七輪」という二文字が興味をそそる。もっとも「丸の内総本山」を観ると、想像とは少し違った。鶴橋の名店を東京式にすれば、こうなる、という感じである。煙もうもうではない。焼肉臭も、つかず女性でも、気軽に入店できる。話は飛ぶが、現在、全店黒字、というのも頷ける。
2005年3月に、「ハレノヒ」を法人化する。34歳の時だ。すでに、目標も、達成しているかと言えば、そうでもないだろう。そもそも、彼女は、今の高野氏を知らないはずだ。しかし、今の高野氏にとっては、もうどうでもいい話かもしれない。
さらに、11年経った。友好関係も広がり、店も有名になった。しかし、次の一手に悩んだこともある。「7〜8店舗で行きつ、戻りつ、なんです(笑)。個人商店から脱していないんですね。それが目下の悩みです」。
そう言いながらも、大胆な手を打とうとしている。「スーパーバイザーじゃないんですが、そろそろ2番手に店を離れて、全体をみるように指示しようと思っています。業態も、これからは『からあげ』一本に絞るつもりです。その一方で、ハノイとシンガポールに進出します」。

大胆な次の一手は、選択と集中。

なんとも大胆な一手のように思える。たしかにグルメサイトを観ても、「魅惑の七輪らんまん」でも「からあげ」は人気メニューだが、それ一本というのももったいない気がする。「たしかに全店黒字ですから、そう思うのがふつうでしょう。しかし、正直にいうと何が本業かわからない、というのは性に合わないんです」。
選択と集中。
高野氏が、「からあげ」というのは、「らんまん食堂」のことである。
「らんまん食堂」は、からあげと、レモンサワーとサラダが、イチオシのお店である。からあげを軸にロケーションによって、何をオシにするかを決めていくという。「らんまん食堂、一つに絞ることで、逆に戦略の幅が広がる」ともいう。フランチャイズなども、その一つだし、海外戦略も、その一つだ。
「名古屋のLEGOLANDに出店する店は、新たなスタイルの店になります。業務委託のような」と高野氏。次の一手にかける自信が伺える力強いトーンで言い切った。
むろん、高野氏の頭にある絵を、リアルに描き出すには、人材もまだまだ必要だ。現場での指揮はもちろん、経営に関する高い見識があればいうまでもないだろう。しかし、高野氏は、そうは言わない。「私自身、この仕事を通じて、大人になれた気がします。そういう経験を積んでくれる人がいれば、経験なんか問いません」。
大卒でなくても、大歓迎だ。人には、ターニングポイントがある。スイッチが入る時と言い換えてもいいかもしれない。彼女に三下り半を突きつけられたとき、高野氏のスイッチはONになった。そして、いま、もう一つ、選択と集中という新たなスイッチを押そうとしている。

思い出のアルバム
 

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