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第593回 株式会社クラウドプロスパー 代表取締役 羽中田英治氏
update 17/06/06
株式会社クラウドプロスパー
羽中田英治氏
株式会社クラウドプロスパー 代表取締役 羽中田英治氏
生年月日 1956年6月29日
プロフィール 東京都品川区出身。慶応義塾大学卒。卒業後、化学メーカーに就職するが、3年間の勤務を経て、憧れの広告代理店に転職。敏腕、営業マンとして活躍するも、仕事のかたわらで行っていた飲食事業を立て直すため、45歳で退職。飲食人生をあゆみ始める。
主な業態 「ばんぺい柚」「ろくまる五元豚」「若どり」他
企業HP http://www.cdpr.jp/

ボーカルとグループ退団と。

「父は、日立造船の役員を経て、海外邦人医療基金という独立法人で専務理事をしていました。こういうのを天下りじゃなく、天上がりっていうらしいです」。
父親の話を聞くと、羽中田はそういって笑った。
羽中田氏が生まれたのは1956年6月29日。
造船が花形だった時代に、父親は日本を代表する「日立造船」という会社の中枢にいた。「うちでは、父をぜんぜんみかけませんでした。休みの日も仕事漬けだったのでしょう。文字通り、企業戦士です」。
父親も、そうだったように、息子の羽中田氏も慶応大学を卒業している。
「私は中等部から慶応です。中等部時代は、バスケットボールをするかたわら音楽もしていました。高等部になってバンド活動を本格的に始めます。『カシオペア』ってグループをご存知ですか? 私は、カシオペアの前身である『ジャジャ』でボーカルを務めていたんです」。
「カシオペア」というのは1979年にデビューし、アルバムなどの作品制作やライブ活動を行い、人気を博したバンドグループである。
「私が高校の時ですね。天才ギタリストと、天才ドラマーの出会いからスタートするんです。私がいた頃はジャジャというバンド名でした。グループは2人の天才がひっぱっていたんですが、彼らはストイックというか、ファンにチヤホヤされることにも関心がないみたいな。一方、私は、言っても音楽をやっていればモテるとか、多少、そういう浮ついた気持ちがあったのも事実で、大学2年の時に、方向性の違いが明確になって、私はグループを抜けました。違った言い方をすれば、首になったわけです(笑)」。
ストイックに音楽性を追求する。2人の天才たちほどでもないが、羽中田氏自身も、「TVとかにでて、チヤホヤされているグループを恰好悪い奴らだと思っていた」そうだ。
「私は高校に進んだ時に音楽で食べていこうと、いったん学校を休学します。しかし、結果的には、まだ、音楽で食べていくのは早いと断念しました。だから、休学の期間を合わせて1年を3回もやっているんです。ふつうは2回で追い出されるんですが、父がうまくやってくれていまして、それで3回です(笑)」。
つまり、1年生を計3回。そのぶん、学校に長くいて、友人もたくさんできた。
「バンドとか、何かと早熟だったんですね」と話をふると、羽中田氏は、にやりと笑って頷いた。「慶応っていうのは昔から、そういう風土があるんですね。先取りタイプが多いっていうのか」。
大学には、まず進学できるのも自由な時間を楽しむことに一役買っているのかもしれない。もっとも学部は成績順。羽中田氏は、法学部に進む。今でこそ文系の最高位であるが、希望していた経済学部にはいけなかった。大学2年で、高校時代からつづけていたバンドを卒業するのは、すでに書いた通りだ。
ところで、慶応時代、羽中田氏は2人のキーパーソンに出会っている。「セント・リングス」の青木氏と「ピザーラ」の創業者、浅野氏である。いずれ彼らは、羽中田氏の人生にも大きな影響を与えることになる。

憧れの広告代理店。2度目の挑戦。

「狙っていたのは、電・博です。で、それがだめなら、第一企画(現アサツー ディ・ケイ)だと思っていました」。今度は、就職の話である。電通はいいところまでいった。だが、最終関門が突破できない。博報堂もしかり。「親父のいとこが、第一企画のオーナーだったんです。だから、『最後はここだ、ここなら大丈夫』と高をくくっていたんです」。
第一企画(株)は、1999年に(株)旭通信社と合併して、現在は、株式会社アサツー ディ・ケイとなっている。「ところが、親父が根回しをしていて『息子が頼みにいっても、断れ』と。親父にすれば、広告代理店みたいなのは、まっとうな職場じゃなかったんです。親父は、自分と同じようにモノづくりのメーカーに就職させたかったのでしょう」。
まだまだ古い時代である。公務員が、就職先として幅をきかせていた時代でもある。しかし、その一方で、情報化時代を迎えつつあったのも事実だろう。
敏感な学生たちは「情報」を武器とするTVや広告代理店をかっこいい職業だと認識するようになっていた。羽中田氏もその1人。「そうですね。かっこいいだろうなと思っていました。今も昔も、そういうモノサシって、あるんじゃないですか」。
最後の砦である、第一企画の叔父のもとに出向き、けんもほろろに追い返された羽中田氏は、結局、化学メーカーである日産化学工業(株)に就職する。意に反した就職だったが、「石の上にも3年」という、当時、唱えられていた言葉を守り、3年、きっかりはたらいた。3年で、呪縛が解ける。
呪縛が解けた羽中田氏は、もう一度、「第一企画」を受検する。たまたま中途採用者を募集するという情報を友人から教えてもらったからだ。2000人の応募者なかで採用されたのは、たった15人。そのなかに羽中田氏もいた。本人は「裏口入社」と笑うが、たとえ、何らかの采配があったにしろ、その後の活躍は、すべての批判を一蹴するものだ。
「もともとは、小さなクライアントだった」と羽中田氏。先輩から放り投げられた、とあるクライアントが化けた。
「電電公社です。民営化される前は、広告って言っても小さな枠しか出稿されていませんでした。それで、新人の私にお鉢がまわってきたんです。ところが、数年後に民営化されて、とんでもない出稿量となります」。
正確な数字は伏すが、第一企画のなかでもいきなりナンバー2のクライアントとなる。民営化に寄り添いサポートしたのは、羽中田氏である。それだけの仕事をやってのけたのは、まぎれもなく羽中田氏の実力といっていいだろう。
「もう、そりゃたいへんでした。1日24時間、すべて仕事です。むろん、当時の話です。交際費はいくらでも自由になりました」。今振り返れば、広告が華やかかりし時代である。金が集まり、タレントたちが集まり、広告が時代の流れをつくった時代でもある。いつしか、その先頭集団に、羽中田氏がいた。
「私が退職したのは45歳なんで、合計18年いました。45歳の誕生日の翌々日に退職届を提出したんです」。

さらば、広告。華々しき世界。

華やかな広告業界から「飲食」という地味な世界に転身した裏には、やむを得ない事情もあった。
「まだ、第一企画に在職していた頃です。大学の先輩でもある『ピザーラ』の浅野さんに『できる』と言われて、妻を代表にして、ピザーラのFCを出店するんです。大学時代の同級生『セント・リングス』の青木が、私より早くピザーラのFCを展開していまして。ともかく、話がすごいんです。月商が1000万円、2000万円にもなる、と。その事実を知っているだけに、指を加えているわけにもいかなくて(笑)」。
いつかは独立しようと思っていた羽中田氏は興味を持ち、始めてみると、これが儲かった。飲食経験ゼロ、経営経験もゼロ。それでもわずか3年で店舗数は11店舗まで膨らんだ。「順風満帆。ただし、調子に乗りました」と羽中田氏。「ピザーラ」だけではなく、「かつや」のFCも出店。こちらも儲かった。ラーメン店もしたくて、「よってこや」のFCも出店する。自らは会社の外側にいて、経営は人任せ。とにかく、いきおいに任せて出店を重ねた。ブレーキを踏む人間はだれもいない。
「報告は受けていたんです。ただ、店をみることもなく、数字だけをみて鵜呑みにしていました。ところが、ある時、経営状態の危機を知るんです」。
それが45歳の誕生日を迎える直前のことだった。原因は、すべてを人任せにしていたことだ。都合のいいように加工された数字を、すっかり信じ込んでいた。
「店舗数も、それなりにありましたし。飲食っていうのは、儲かる時もそうですが、その逆もしかりで。いったん赤字になると底が抜けたようになり、ほかの店の利益まで垂れ流すことになる。もう、放ってはいけない。だれも、やってくれないわけですから」。
どちらかと言えば、消極的な選択だった。信頼して、任すことができる人間がいれば、好きな広告代理店の仕事を辞めるという選択肢はなかったはずである。しかし、消極的か、積極的かどうかは別問題で、今や目の前に片付けなければならない問題が山積みだった。
「それまでも、いっぱしの経営者のつもりでいました。本も読み、勉強もしました。しかし、サラリーマンと経営者はぜんぜん違う。勉強して本を読んでも、それは知識なんです。本当の意味での経営力っていうのは、実践でえらいことならないと身につかない。それを思い知らされました」。
おなじような話は、いろんな「飲食の戦士たち」からも伺っている。ともかく、そういうやむを得ない状況に追い込まれ、意に反して、羽中田氏はふたたび広告の世界から、離れることになる。

ゼロからの挑戦。

「いっきに80キロオーバーになった」と羽中田氏は笑う。今度は、退職後の話である。「経営に専念するようになって、売れる店は売って、退職金も結構な額がでたので、それと合わせて、相当な資産ができたんですね」。店を切り売りするなどして当面の問題を片付け、羽中田氏は内外に経営力を示す。幸い、退職金も上積みされ、前途洋々。しかし、そこにまた落とし穴があった。
「私は、弱い人間なんでしょうね。店が順調な時も、調子に乗ってたいへんことになったのに、また、少しうまく行くと調子に乗って、仕事もせずに遊び呆けてしまいました」。その結果、体重がいっきに増えた。逆に、資産は、あっというまに目減りした。
「ある日、かみさんと娘に、『もういいかげんにして』って言われたんです」。あの一言が、私を目覚めさせてくれました」。
退職してほぼ1年。80キロを超えた体を動かし、仕事をはじめた。「いままで飲食店を経営していたけれども、実は何も知らなかったんです。FCじゃなく、次にやるなら自分の店だと思っていましたから、すべてゼロからです。でも、そうなると何もわからないわけです。出店するにしても、何をどこにだせばいいのか。仕入れひとつわからない。それでもなんとか知人のちからも借りて、1号店をオープンします」。
それが、赤坂に出店したラーメン店である。ところが、ぜんぜん流行らない。
「そもそもお客様がいらっしゃいません。まるで、うまくいかない。飲食店は、儲かる時には、想像以上だけど、その逆も、ある。FC店をやっていた頃の経験で、それは身を持って学んでいましたので、『どうする?』『どうすればいい?』という毎日でした。ただ、資金に余力があったのが、幸いしました。六本木に2号店、『ROKU-MARU』を出店します。こちらは、もつ料理のお店です」。
何でも、料理には多少自信があったそうだ。「ある店でもつ鍋をいただいて、これならオレでも、と思ったんです。それで、畜産会社に出向き交渉して。当時、まだ『もつ』は、比較的入手しやすかったんですね。それもラッキーでした」。
いい素材を手に入れることができた。まだ、もつ鍋がブームになる一歩、手前だったからである。そういう意味でも、先見の明がある。もっとも本人に言わせれば、たまたま運があっただけの話となる。
「ROKU-MARUも、実は、オープンから6ヵ月間は、閑古鳥だけが威勢よく鳴いていたんです。これで、2店目です。心が折れそうになったこともありました。それでも、つづけていたら、『いいこと』があったんです」。テレビ局が取材に来たそうだ。

羽中田流、飲食店のつくりかた。

「ある番組で紹介され、紹介されたとたん俗にいう、火がついた状況になりました。TV局が近く、朝まで営業していたのも功を奏したのでしょう。TV局の人が、一晩中、入れ替わり立ち代わりやってきてくれたんです。それから半年も経つと、常時、お店にお客様が入りきれなくなって、増床しました。月商は1500万円にもなりました」。
「もつ鍋」がまだそれほど一般的ではなかった時代だったそうだ。だが、「ROKU-MARU」もそうであるように、「もつ鍋」料理が人気化し、やがてブームが到来する。繁盛の要因は、間違いなくそれである。しかし、狙って、そうなったわけではないらしい。
羽中田氏は、いう。
「飲食って、やってみないとわからないところがあると思うんです。旨ければ、それでいいというものでもない。時代もある。時流というのも、ある。そういう不確定な要因がたくさんあって、それらが、ひとつになった時に、はじめて繁盛するんだというのが、実感です」。
もちろん、次のようにも語っている。「場所と金があれば、飲食店ってできるんです。でも、つくるのは簡単でも維持するのが、むずかしい」。これもまた、独立して、15年、飲食にどっぷり浸かった今の本音だろう。

本籍、現住所、ともに飲食。

「今は、私自身の目の届く範囲がいちばんいい規模だと思っています。チェーン店ならいざ知らずですが、うちは、店舗数を増やすことに、それほどの意味がありません。むしろ、一つひとつの店を強くすることが大事です。そのほうが、スタッフの給料も上げてやることができますからね」。
「一つひとつの店を強くする」「スタッフの給料を上げる」。いうのはたやすいが、いちばん難しいことだ。「ほんとうにいいお店は、お客様はもちろん、スタッフにも愛されるようなお店だと思っているんです」。
いま行っているのは「シュリンクする作業」だと羽中田氏はいう。シュリンクとは、縮小などを指す言葉だが、その言葉の意味は「店舗を1つ1つ見直していき、本当に質の高い良いお店を作っていきたい」との事である。
今後の大きな出店に対して準備段階という構想が伺える。
いずれにせよ、その視点や発想は、広告代理店時代のものではなくなっている。
「いつ頃までかな。第一企画を辞め、飲食の仕事一本に絞ってからも、心のどこかで『本籍は広告代理店』だと思っていたんです。つまり、『本籍、広告代理店。現住所、飲食』というようなね。でも、いまやぜんぜんちがいますよ。『本籍も、現住所も、飲食』です」。
広告の世界で脚光を浴び、一度の商談で何億ものお金を動かしていた華やかな時代。その時代の、華やかさと甘い蜜を経験している羽中田氏が、今もっとも魅了されるものは飲食である。
羽中田氏もまさに飲食の戦士である。

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