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第594回 株式会社プラスワンマインド 代表取締役 藤原 肇氏
update 17/06/13
株式会社プラスワンマインド
藤原 肇氏
株式会社プラスワンマインド 代表取締役 藤原 肇氏
生年月日 1974年3月23日
プロフィール 大阪府高槻市に生まれる。小さな頃から社長になろうと思うような少年だった。高校3年の1月、卒業を待たずに渡米する。3年間のロス生活を終え、帰国。ウエスティンホテルを皮切りに、波乱で、濃密な人生の幕が上がる。
主な業態 「幸せの黄金鯛焼き」他
企業HP http://plus1mind.net/

TVドラマに触発されて、ロスに渡った。

小さな頃に、和歌山に引っ越した。生まれは、大阪府高槻市である。「小さな頃、どんなことを考えていましたか?」と伺うと、藤原氏は、こう答えた。「子どもの頃から社長になりたかったんです。社長イコールお金持ちだと思い込んでいたからです」。どうして、お金持ちになりたかったのか。「うちは社宅だったんですね。今思えば、ぜんぜん貧乏でもなかったんですが、友だちの親が医者や不動産関係ばかりで(笑)」。藤原氏の父親は、超大手企業に勤務していた。けっして貧乏ではなかったが、社宅というだけでお金がないと思っていたのだろう。
「母親から女の子のように育てられていたもんですから、子どもの頃は、とにかく大人しい子どもでした。子どもの頃に着ていたのは、赤い服ばっかりなんです(笑)」。ところが、サッカーを始めて、大人しい少年は、たくましい少年にへんぼうする。
「小学2年生の時に、ちかくに住んでいたお兄さんに誘われて、サッカーを始めました。とたんに自我がめざめて」。才能があった。「サッカーは、ぶっちぎりで巧かったです。けっこう盛んなエリアだったんですが、5年生の時には、早くもレギュラーに抜擢されました」。
周りに認められることで、自信もつく。グランドを駆け回るたびに、評価が高まった。
「代わりに、学校の成績はぜんぜんだめ。だいたい勉強する気もまったくなかったもんですから、しかたありません」。小学5年生からレギュラーとなり、6年生になってからは、チームいちの注目選手だった。そのまま和歌山で暮らしていたら、また違った人生があったかもしれない。
「小学6年生の12月に、奈良県の生駒市に引っ越しました。小学生でしょ。転校生は、へんな目でみられます。まったくもってアウェーです。しかも、生駒にはサッカーという文化がない。なんじゃこれ!ですよね。サッカーを知らない町があるなんて思ってもいませんでした」。
それだけが原因ではないだろうが、中学に上がって、本人いわく、グレ、始める。中学校でもサッカー部がなかった。それも要因の一つだろう。高校の時には、学校に内緒でバイトもした。「プールバーで、深夜までバイトしていました」。
深夜までバイトはつづく。授業中の爆睡もつづく。
「転機は、一つのTVドラマを観て、訪れます」。「どんなドラマですか?」と聞くと「織田裕二の『お金がない』です」と笑う。ちなみに「お金がない」は、当時、毎週水曜日にフジテレビ系列で夜9時から放映されていたTVドラマ。1人の極貧青年が、出世するサクセスストーリーである。「学もない」「貧乏」という共通項があった。
「それで、『お金がない』といえばアメリカだと思って、高校3年の1月、卒業をする前に渡米しました。英語ですか?もちろんぜんぜんできません(笑)」。
強烈な、行動力だ。言い換えれば、無謀の二文字となる。
「ロスで3年くらいですね。日本人だから寿司バーで仕事をしました。給料はむちゃくちゃ安い。だから、お客様を口説いてヒモ生活をしていました」。危険とも隣り合わせだったそうだ。「スパニッシュには負けたことがないんですが、黒人には勝ったことがない。奴らはバネが違うんです。一つひとつのパンチが重い」。
銃で撃たれたこともあったらしい。至近距離から放たれた銃弾は、藤原氏の太ももを貫通した。おまけに言えば、運転していた車にも、鉛玉を叩き込まれたことがあるそうだ。そういう意味でも、ギリギリの暮らしだった。3年経って、奈良に帰った。

年間数千万円の利益。「天才」という二文字は、オレのためにある。

「うちに帰ると父親が、『一度でいいから大手で勤務してくれ』っていうもんですから、祖父のコネを使って、ウエスティンホテルに潜り込みました」。なんでも、おじい様は近鉄の重役をされていたそうだ。「ウエスティンホテルでは3年勤務します。祖父のコネで入社していなかったら、間違いなくすぐに退職していました。しゃれにならないほど、たいへんでした(笑)」。
ただし、しゃべり方、立ち振る舞い方などは、ぜんぶ、この一流ホテルで学んだ。つまり、藤原氏の基礎は一流ホテル仕込みである。
「目標だった黒服になることもできたんで、3年で退職します」。石の上にも3年。祖父に対する免罪符ともなっただろう。「その後は、ブライダルホテルで1年弱勤務し、焼肉屋の店長をしているときにヘッドハンティングされて、『牛角』の関西1号店の出店にかかわり、合計、5年勤務しました」。
当時の目標は、30歳までの起業。「30歳までどんだけ転職したろか、と思っていました」。ブライダルホテルを退職したのが25歳。「牛角」でも勤務する。30歳が近づいてくる。「当時、勤務していたのは、メガフランチャイズです。ビアードパパやビックリドンキーのフランチャイズもしていました」。様々な業態を体験し、その経験をもとに、宣言通り、独立を果たす。
「天王寺に、日本酒と米料理の店『銀シャリ』を出店しました。もちろん、オリジナルブランドです。酒はもともとは米でしょ。親和性が高いんです。2階20坪のお店でした。部下と嫁と合わせて4人でスタートです」。
好調にスタートし、2ヵ月目には早くも軌道に乗った。「あの頃は、もう天才だと思っていました」。2号店、3号店と出店を重ねる一方で、コンサルティングの仕事も殺到した。「お店自体は、それほどでもなかったんですが、コンサルの仕事に箔をつけるために私自身が店を経営していることが大事でした」。コンサルティングを行うことで、年間、相当な売上が立った。「天才」とうがった言葉もあながちオーバーに聞こえない。「北新地」がホームグランドになる。1日100万円を使おうが、問題はなかった。
しかし、宴は、いつまでもつづかない。
「リーマンショックで、ぜんぶいかれてしまいました。コンサルの仕事もなくなり、店もうまくいかない。月に400〜500万円の赤字がでました。数ヵ月、がんばりましたが、最後にはスタッフに1ヵ月分の給料を払って辞めてもらって。店も叩き売りました」。
「タダでも良かった」という一言が当時の状況を良く物語っている。
数年間に亘り、億単位の金を動かしていた藤原氏だったが、結局、手元に残ったのは、たった数万円。
しかし、藤原氏の人生でいえば、そこからが、ほんとうの意味のスタートだった。

1坪からの再挑戦。

結論から先に言えば、2016年5月現在、藤原氏は「幸せの黄金鯛焼き」と銘打つ、鯛焼きの店舗をFC合わせ60店舗運営している(上海にも出店済み)。それ以外にも多彩な事業を行っているが、昨年からは、障がいを持つ子どもたちへの支援事業もスタートしている。
では、話をもとにもどそう。手元に残ったのは、数百万円。そこからの話。
「手元に数百万円しかないので、選択肢はそう多くありません。コンサルの収益率が高いのはわかっていたんですが、店舗がないから裏付けがありません。もちろん、もう一度飲食ができるほど、資金もない。それで、考えたのが物販だったんです」。「いも」「くり」「なんきん」。さて、どれで勝負をかけるか。「くりは中国産しかなかったんです。なんきんは、難しい。それで、残る『いも』でスタートしようと。その先に、鯛焼きがあったんです」。
「神戸の端だ」と笑う。坪数わずか1坪。「知り合いの店を間借りして、始めました。家賃ゼロ、光熱費ゼロの好条件です。とはいえ、たった1坪。しかし、この鯛焼きが、大爆発するんです」。
1日、14〜15万円、売れたそうだ。たった1坪の売上げである。藤原氏が大爆発というのもうなずける。脅威的な数字である。月商は300万円にもなった。直営を増やす一方で、FCも拡大した。上海にも進出する。その一方で、前述通り、障がい者の支援事業も開始した。これが、藤原氏の現在地である。
障がい者の支援事業を始めた理由を伺うと、「リーマンでお金がなくなったでしょ。そのあと、たった1坪からスタートして、なんとか、事業を再興することができました。そんな時に、東京にでかけたんです。そこでね。あいかわらず金を湯水のように使う人たちをみたんです。どうしようもなく、かなしくなりました」。笑いながらシャンパンで手を洗う。それは、かつてのジブンの姿だった。
「あの時はね。1年間で、1億円くらいなくなってしまったんです。そりゃ、きつかったですね。でも、もしあの時、そんなことになってなかったら、私は、ゴミのままだった、と思うんです、それに気づいて、大人としてできることをちゃんとしよう、と。それが障がい者の支援だったんです」。「凄いですね」というと「まだ始めて、1年だから」と謙遜する。
「社長にはなりたかったですし、お金も欲しかった。でも、金がすべてなんて思ったことはない。30歳で社長になって成功して、毎晩、浴びるように酒をあおって。ま、それもいいんですけどね」。
たしかに、人間、どういう生き方がいいのかわからない。しかし、藤原氏にとっては、今のジブンのほうが誇らしいはずだ。1坪からの再挑戦は、人の生き方をかけた挑戦だったかもしれない。 むろん、その挑戦は今もつづいている。

思い出のアルバム
 

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