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第617回 株式会社Dress Circle 代表取締役 雨宮春仁氏
update 17/11/28
株式会社Dress Circle
雨宮春仁氏
株式会社Dress Circle 代表取締役 雨宮春仁氏
生年月日 1975年4月13日
プロフィール 山梨甲府出身。帝京大学卒。大学時代に飲食事業に惹かれ、卒業後、株式会社ラムラに入社。30歳での独立開業をめざし、7年間修業。目標通り30歳となる2005年5月、東京都府中市に「とくとうせき府中店」をオープン。立地の悪さをはねのけ人気店に育てる。2017年現在、府中を中心に7店舗を展開中。
主な業態 「日本酒バルTokutouseki」「ワインバルBiBBER」「餃子バルあわ屋」「日本酒スタンドBACHIYA」
企業HP http://dress-circle.info/

スポーツ少年、ラグビーの日々で何を学ぶ。

山梨学院大学のちかくに学生の御用達でもある中華料理店がある。こちらが今回ご登場いただく雨宮春仁氏の実家である。
「私が3歳の時にお店を開いたそうです。もともと祖父が旅館を経営していて、そのちかくに店を建てたそうです」。
100席くらいある大きなお店なのに、夫婦2人で切り盛りされていたそうだ。だから、雨宮氏も小学校の頃から米を研ぎ、洗い物も手伝った。その一方で、スポーツに精をだし、小学生の頃は少林寺、水泳、バスケット、中学から野球、そして高校からラグビーを始める。
「ラグビーの早明戦を観て『これだ』って思って」と雨宮氏。「それで、山梨でいちばんラグビーがつよい日川高校に進学します」。
「ふつうはなかなか進めないんですが、お客さんに高校の先生がいたことと、私自身が相撲取りみたいにでっかかったもんですから」。ラグビー部の監督もOKしてくれて入学できたそうだ。
入ったはいいが、周りはバケモノのような生徒たちばかり。「私も90キロ。走れるデブたんですが。とても、とても」と雨宮氏。それでも、辞めずにつづけた。
2年時にチームは全国大会でベスト4に食い込んでいる。「あの時は、悔しかった。あと一歩で、優勝した伏見高校に勝てていたんです」。
「辛かった」とは思うが「やっていてよかった」とも思う。辛かった時を思い出しては、勇気を奮い立たせる。

大学進学。飲食に進むと決意する。

「ラグビーばかりで、全然、勉強しませんでした。ラグビーで就職できるちからもない。推薦をいただいた大学もあるにはありましたがトップクラスじゃない。それで、ちゃんと大学に進もうと思って勉強を開始するんですが、2年かかってしまいました」。
なんでも、予備校の先生に言わせると、「中学生程度の学力しかなかった」そうだ。ただし、やるといえばやる。さぼらず1日10時間、勉強した。いつしか、教師になりたいと思うようになる。
「それで教員免許が取れるということで、帝京大学に進みます」。
山梨からとびだし、独り住まいも開始する。アルバイトもしたが、授業をおろそかにすることはなかった。「教員免許を取るって宣言していましたから、それは取んないといけない。ただ、一方で、飲食にも惹かれていきました。ええ、そうです。アルバイトで、料理っていうか、その楽しみに目覚めてしまうんです」。
このあたりは雨宮家のDNAのなせる業なのだろうか。
「昔は、飲食なんて頭になかったんですが、たしかに、影響があったかもしれません。小さな時から米を研いでいますからね(笑)」。
教員免許は宣言通り、取得した。中学の社会科の先生らしい。ただ、卒業時に教師になることは選択肢のなかに残っていなかった。「就職活動すら念頭になかった。飲食でアルバイトをして、その店に就職しようと思っていたんです」。
雨宮氏が就職を前提に選択したのは、当時、府中にオープンした株式会社ラムラの和食ブランドである「土風炉」だった。
「こちらに6年勤め、とあるホテルに転職します。ただ、ホテルにいたのは1年くらいです」。
27歳くらいの頃から、「いつか7店舗を経営しよう」と思っていたそうだ。うち4店がラムラで学んだ「和食店」。残りの3店で異なった業態を展開するために「洋食を勉強したくて、転職した」という。
ラグビーの話もそうだが、これだと思えば一途に突き進む。それが雨宮氏の真骨頂だろう。

30歳で独立。40歳の時には7店舗を出店。これが、ゴール。

「ただ、そのホテルの料理が、言い方は悪いんですが、料理と言える代物じゃなかったんですね。缶詰だったり、チンするだけだったり。勉強する意味がないと思って、1年で退職し、もう一度、ラムラに戻りました」。
なんでも、尊敬する先輩から何度もお誘いがあったそうだ。
「ホテルの時は正直、収入もきつかったですね。手取りで10万円くらい。それじゃ暮らしていけないから、仕事が終わってからも、別の店でバイトしていました」。
朝7時に出勤し、夕方に仕事が終わり、それから深夜までバイトをする。体力があるからできたことだろう。「そういう時ですね。ラグビーをやっていてよかったなって思うのは。だって、当時と比べれば、それでも、全然、楽ですから(笑)」。  
スポーツを経験してきた経営者がよくいう一言である。スポーツのスパルタ体質は、けっして賞賛されるものではないが、その一方で、精神的にも、肉体的にもつよい人を育ててきたのは、事実だろう。ともかく、ラグビーで培った根性で、修業時代を乗り越える。
独立したのは、30歳の時だ。
「30歳で独立と思っていたので、こちらは目標通りですね。ただ、40歳まで7店舗というのは、2年遅れてしまいました」。
「言ったことは実現する」。それが雨宮氏の信念である。
「うそつきになりたくないんです」。いうならば有言実行タイプなのだろう。ただ、このタイプは、ともすれば大風呂敷を広げがちだが、雨宮氏はそうではない。
「お金儲けにも、株式を上場することにも、まったく興味がない」という。現在でこそ、2020年に10店舗という、当初の目標を超える出店計画を掲げているが、当初からゴールは「7店舗」と決めていたらしい。それ以上は、雨宮氏の頭になかった数字である。
「お金儲けだけだったら、1店舗だけの時がいちばんよかったかな」と笑って、「でも、お店ってお金儲けのためだけじゃないでしょ」とつづける。
「ちょっとお金が儲かり始めると、そっちばかりに興味がいって、それで店を潰してしまうオーナーもいるじゃないですか。みんな独立した時のことを忘れている。つくった料理をお客さんに食べていただいて『旨い』って言ってもらうのが、そもそもの始まり。この原点を忘れちゃいけないんです」。
たしかにそうだ、と思う。とはいえ、店を拡大し、利益を上げ、スタッフたちに、年齢や仕事に見合った給料を渡す。それも経営者のちからであり、責任でもある。「休みもそうですね。なんとか月8日にしていますが、そういうのも、より良くしていかなければならない。だからたいへんです」と今の心境を教えてくれた。
ゴールを駆け抜けた今の話をしたが、もう一度、話をスタートラインに戻そう。30歳で、独立。果たして、結果は?

半年間、閑古鳥が鳴く。お店を救ったのは1人の女性の一言。

「最初にオープンしたのは、このお店です」と指さすのは、府中にある「日本酒バル Tokutouseki」である。最初はひらがなで「とくとうせき」という店名だったらしい。現在も府中を中心に店舗展開を行っているから、府中に記した第一歩ということもできる。
どうでしたか?と伺うと、「いやぁ、ぜんぜん。立地が悪かった。今なら断る」と雨宮氏。しかし、当時は経験も浅い。突き進む。初期投資2000万円。スケルトンからお金をかけて「やりたい」と思うお店をつくってしまった。27坪。40席は余裕で取れるのに、35席しかつくらなかったのも気持ちが先走った結果だろう。
「7年ちかくラムラにいて、評価も受けていたから自信もあったんです。でも、ダメでした」。
35席もいらなかった。「お客さんの喜ぶ顔をみたいと思っても、そもそもいらっしゃらない(笑)」。2000万円を投資したうえ、運転資金もだんだん枯渇する。資金面から言えば、6ヵ月もったのは奇跡だろう。
「損益分岐点が200万円で、初月が120万円、2ヵ月目は180万円。それが半年つづいて」。打開策がない。
そんな時、1人の女性がふらりと現れる。
「昔の知り合いです。『どう?』っていうから、『イマイチ』って正直に言ったら『ぐるなびに掲載したら』っていうんです。まだ『ぐるなびって何?』って時代だったもんですから、知らなくて。でも、ほかに方法がないから、いちばん安い広告を出したんです。当時月1万円でした」。
半信半疑だったろう。しかし、掲載した翌月100万円アップする。いまも交流がある当時の営業マンのおかげで更に100万円アップする。損益分岐点をはるかに超えた。
メディアのおかげ、ではある。しかし、店に魅力がない限り、結局は一時の波で終わる。それを継続させたのは、やはり雨宮氏のちからだろう。
「あれ以来、一度も売上が落ちたことがない」というから素晴らしい。

雨宮氏がめざす、次のゴールは。

利益が出るようになり7店舗という目標に向け、改めてアクセルを踏む雨宮氏だったが、2号店でまたしても躓く。
「2号店はなにをやってもだめ。3号店がいい利益を出したので、なんとか6年つづけましたが、毎月4〜50万円の赤字ですから、きつかったですね」。
利益が、ぶっとぶ。経営者にとっていちばん避けたい現実だ。しかし、6年間、頑張った。その店は撤退したが、経験を積んだ。それが血肉となる。むろん、それからも紆余曲折があった。だから、雨宮氏の「今」があると言っていい。
目標から2年遅れたが、42歳で7店舗を出店し、2017年現在では、2020年までに10店舗体制という目標も掲げている。たぶん、そこがゴールだ。
だが、ゴールの向こうには、また新たなスタートラインが待ち受けている。雨宮氏は、どんな目標を立て、新たなゴールを設定するのだろう。そこが、いちばん興味深い。

思い出のアルバム
 

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