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第625回 大和串Planning株式会社 代表取締役社長 多々納大展氏
update 18/01/30
大和串Planning株式会社
多々納大展氏
大和串Planning株式会社 代表取締役社長 多々納大展氏
生年月日 1972年8月22日
プロフィール 大阪市平野区出身。高校卒業後、大阪の名店「串の坊」で修業。4年後、退職し、いったん飲食から離れるも25歳の時に飲食店を開業。大阪ミナミの宗右衛門町に1.5坪の店をオープンする。それが、すべてのはじまり。飾り気のない、素直で、まっすぐな性格が人を惹きつける。
主な業態 「一献三菜」「九志焼亭」「鉄十」「揚八」「AGEHA」
企業HP http://yamatogushi.com/

「しんどなって、やめました」。

大阪、難波は雑多な街である。心斎橋筋、宗右衛門町、戎橋、御堂筋。バブルの頃は灯りが消えることはなかった。多々納氏の実家は、40年以上、この街で飲食店を経営されている。
多々納氏が生まれたのは、1972年8月22日。大阪府吹田市で万国博覧会が開催されてから2年。高度経済成長期、真っ只中でもある。第二次ベビーブームはちょうどこの頃だろうか。
「運動神経はいいほうでした。小学校の時は、陸上で短距離。中学・高校では硬式テニスをしていました」。たしかに、巧かった。大学は「テニスで行けるのでは」と思っていたほど。しかし、スカウトも観に来たが、最終的には声がかからなかった。推薦で受験したものの不合格。「しんどなって、やめました」。「やめた」というのは大学進学のことである。

「後悔せぇへんこと」。

「テニスをしていた時に1回だけやらかしたことがあるんです。最後の大会の団体戦。私が勝てば、相手に勝って、より大きな大会に進める、そんな試合でした。マッチポイントです。相手がミスショットして、ボールがネットに当たったんです。いつもなら、最後まで走りぬくというのが信条だったんですが、その時は『勝ったぁ』って思いこんでしまって」。
ボールはネットをくるりと反転させ、こちらのコートにぽろりと落ちた。「人前であんなに泣いたことはない」と多々納氏はいう。いろんな思いが胸をよぎり、それが嗚咽となった。小さい頃から何事にも動じない少年が、見事に泣いた。泣き切ったというのが正しいかもしれない。
「悔しかったですねぇ。あれからです。もう、後悔するようなことはしないって。だから、大学に進まなかったことも、飲食を始めたことも、ぜんぜん後悔していないんです」。

「知り合いは300万円の借金をつくって、トンブラです」。

大学に進まず就職したのは、法善寺「串の坊」。いうまでもなく、関西の名店だ。「3〜4店舗くらいに絞って、食べに行っていちばんええなと思ったのが『串の坊』さんでした。こちらで4年、修業させていただきます」。
実家ではたらく選択肢はなかったんですか?
「なかったですね」と多々納氏。
「ただ、飲食に進んだのは親の影響があったからだと思いますし、高校時代から飲食でバイトをしていましたから、抵抗もありませんでした」。
「串の坊」の門を叩き、4年、経った。それがちょうど1995年。「私が『串の坊』を辞めた時、阪神大震災が起こるんです。あの時は、ちょうど無職で。やることも別になかったもんですから、すぐにボランティアに向かいました」。
「困ったことはないか」と聞いて回る役割が与えられた。「そのなかで『車をなんとか手に入れたいんやけど』、なんていうのがあって。それがきっかけで、実は、それから2年くらい車屋をするんです」。
オークションで車を仕入れ、販売する。差額が利益になった。「1人でしたから、贅沢さえしなければそれなりに食べていけました」。1台、販売すれば5万円、高い車になれば30〜40万円の利益が出たそうだ。
「そうですね。車だけの時はよかったんですが、保険も扱うようになって。そのあと、知り合いと手を組むんですが、結局、その知り合いは300万円の借金をつくってトンズラです(笑)」。

1.5坪の、華々しいデビュー。

「25歳までに、飲食で独立しようと思っていたんです。でも、車屋で躓いてしまって。300万円の借金を抱えたのは24歳の時。あと1年しかありません」。
ふつうなら、あきらめる。たぶん、多くの人は、そうする。しかし、多々納氏はあきらめない。飲食、パチンコ、運送業。寝る間も惜しんではたらき、一方で節約を重ね、1年で見事、返済。軍資金まで手にした。もっとも軍資金は30万円しかなかったが。
ふつうなら、ここでも断念する。30万円で起業。ありえない話である。しかし、多々納氏は滑り込むように26歳になる前に起業。なんと1.5坪の店をオープンする。
店名は<くわ焼専門店「九志焼亭」>
「家賃は3万2500円です。開業資金は、借金もして200万円くらい。営業は17時〜23時。大阪発祥と言われているくわ焼きの専門店です」。
1.5坪。畳一畳半くらい。どれくらいの収益を上げたのだろう。その答えを聞いても、ぴんとこなかった。たしかに、「大阪王将」も、「がんこ」も、そう広くないスケールでオープンし、高収益を実現した。しかし、1.5坪。畳1畳半。それで、月商100万円!? むろん、従業員はオーナー1人。
「そうですね。もちろん、売上は言うても、月商100万円くらいです。ただ、家賃は3万2500円。光熱費だって、安い。営業時間も、たった6時間ですから。月々、40万円は残りました。11ヵ月やって、あるビルのオーナーからオファーがあったので、こちらのスペースはお寿司屋さんにお貸しし、新店をオープンしました」。
今度は、スケールが違った。空中階。「ビルの3F、4Fの2フロア。45坪です」。客単価4000〜5000円。かなりの大勝負である。むろん、勝算はあった。
「ところが」と多々納氏は苦笑する。大苦戦だったというのだ。「損益分岐点は400万円だったんですが、250〜300万円しか売り上げが立たない。月100万〜150万円の赤字です」。
たしかに、大苦戦だ。毎月、100万円以上の赤字が、積み上がっていく。補てんするお金はどこにもない。かといって、投げ出すわけにはいかなかった。
1.5坪の時代に戻るわけにも、もういかない。

TV出演。

「親父にも、『もう金はない』と言われ、クレジットカードで借り入れをつづけ、それを払いにあてていました。5月にオープンし、毎月、若干は赤字が縮小するものの、それでも100万円以上です」。
「失敗」は、「敗北」とおなじ意味だった。乗り越えられるか、どうか。1か0か。売上は少しずつ改善していた。それだけが救い。ただ、空いた穴はふさがらない。金はどんどんその穴から、零れ落ちた。
「一つは、TVに取り上げていただいたことですね。今でいう魔法のレストランです。私自身スタジオまで行って、うちの料理を披露させていただきました」。
多々納氏、いわく、「うちの串焼きは、鉄板で焼く、いわゆる『くわ焼き』だ」という。そのかわった串焼きが、TVにでるきっかけになったのだろう。むろん、多々納氏の人柄も、観る人の心をとらえた。
「もともと空中階。うちの店があること自体、知らない人が多かったんです。TVにだしてもらったおかげで、お客さんがエレベーターに乗って、やってきてくれるようになりました」。
もっとも1度を2度、3度につなげるには店のクオリティ次第。多々納氏は、見事、客の心をつかんだ。いうならば、多々納氏自身が、神風を吹かせたと言えるのではないだろうか。

人材育成は、「しんぼうづよく」が信条だ。

現在、多々納氏は計9店舗を展開する大和串Planning株式会社のオーナーである。1.5坪からスタートした店は、高島屋など大手百貨店からも、オファーをいただく店になった。大阪だけではなく、東京からもオファーが来る。「これからは、東京が主軸になる」というくらいだ。
「そうですね。今までいちばん苦しかったのは、2号店をオープンした時ですね。なかなかお客様がつかなったから」。飲食はつくづく難しい商売だ。「旨い」だけでも、「楽しい」だけでもだめ。「存在」を知ってもらうことも大事になってくる。そういう意味では、どうアピールするかも、経営者の手腕となってくるのかもしれない。ただ、こればかりは、そうそう自由にできることではない。
「大事なことは地道にやりつづけることだと思います」と多々納氏。それが、飲食の王道なのだろう。算盤を弾くばかりで、経営が成り立つほど、甘い世界ではないということだ。
先日、多々納氏は、Tシャツ、短パン姿でチャリンコを漕いでいた。「買い出しだ」という。「なんか、こういうのは20年前といっしょですね」と笑う。
人材育成は「しんぼうづよく」が信条だという。来年春には、従業員といっしょに遊べる別荘を買うのが今の目標。視線は、いつまでも現場の高さだ。
「うちの店は、深夜営業をしていません。週休二日で夏休み、冬休みがあります。勤続3年目から退職金制度もあります。そういう環境を整えてあげないと、みんな飲食から逃げ出してしまう。そういうのイヤでしょ」。
なんでも、多々納氏のもとから独立した人で、失敗した人は1人もいない、という。多々納氏に、「いちばんの勲章は?」と問えば、たぶん、この話をしてくれるに違いない。

思い出のアルバム
 

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