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第627回 株式会社プロジェクトM 代表取締役 村山有志氏
update 17/02/13
株式会社プロジェクトM
村山有志氏
株式会社プロジェクトM 代表取締役 村山有志氏
生年月日 1975年12月26日
プロフィール 東京都江戸川区生まれ。高校卒業後、夜の世界で仕事をはじめ、3年間で1000万円を貯蓄。それを軍資金に24歳で独立。飲食事業をスタートしたのは32歳。1号店は、江戸川区に創業した「居酒屋革命 酔っ手羽」。2017年現在、業態も多様化し、出店も衰えず2〜3ヵ月の割合で、出店を重ねているという。
主な業態 「酔っ手羽」「肉玉そばおとど」「肉の村山」「うなどん丼」他
企業HP http://project-m.co.jp/

野球部、キャプテン。

1975年12月26日、村山氏は東京都の下町、江戸川区新小岩に生まれる。父は看板業を営んでいる。物静かで、怒ることもない父親だった。2つ違いの姉と8つ離れた妹の3人姉弟。母の実家は山梨県の富士吉田。麓過ぎて富士山を仰ぎ観ることができなかったそうだ。
小学校から野球をはじめ、高校までつづけている。中学時代は副キャプテン、高校はキャプテンに選抜された。
「小学生の頃に、松坂大輔とか、石井一久がいた名門チームに誘われたことがあるんです。軟式野球でベストナインに選ばれていたのが目に留まったんでしょうね。ただ、背がちっこくて。2回、練習しただけで『もうこなくっていいよ』って」。
「なんだったんでしょうね、あれ」と笑うが、理不尽な話である。もっとも冷酷な話も村山氏本人は意に介さない。中学では、水泳大会にも学校代表として選出された。とかく運動神経のいい生徒だった。ただし、勉強は大の苦手。
「やったらできたんでしょって言われますが、ダメですね、たぶん。だって、そもそもしたくないし、しようと思っても、やり方をしらないから」。
スポーツなら「やり方」がわかった。だから、野球も、水泳も、それ以外のスポーツもたいていできた。巧くなる方法を知っているからだ。
「仕事でもおんなじだと思うんです、できるやつはできる。イチローは、サッカーでも大選手になっていたはずなんです」。人は、それを「才能」と表現したがる。しかし、村山氏は「やり方」を知っているかどうかだと表現する。もっとも、その先にはやはり「才能」という二文字でしか立ち入ることができない世界があるかもしれないのだが。

逃亡。

高校を卒業した村山氏は、家業の手伝いを始める。小さな頃からみてきた仕事である。従業員は4名。小さな作業場は、ペンキの匂いに包まれていた。
「今は、私が引き継いでいます。親父の代から売上は2倍になり、従業員数も倍増です」。「どうだ」と言わんばかりだが、これは今の話。当時、村山氏は父親からの逃亡を図っている。
「いやぁ、無理でしょ、ふつうは。給料は安い。仕事は長い。朝6時まで仕事をやらされて、7時か7時半には叩き起こされる毎日です」。
半年は我慢したが、それが限界だった。サーフィンが好きだったこともあって海のある街に逃げ込んだ。「あの時は『看板屋なんて、二度とするもんか!』って思っていました」。
寡黙な父親も、この時ばかりは鬼にみえたことだろう。
もっとも仕事をしないと生活はできない。サーフィンも怠けるとさびついてしまう。村山氏は、トラックの助手をスタートする。助手なら、そうしんどくもないだろう。ちから仕事なら自信もある。そう思ってスタートしたが、ここでも、とんでもないキャラが立ちはだかった。
「事務機器の運送がメインです。私たち助手は、荷物を運び入れるためや、ナビゲーターとして横に乗っているわけです。しかし、ナビゲートしようにも見慣れない地図です」。ちょっとでも反応が遅れると、殴られた。「殴るなんて、ましなほうで。もう、犯罪ですね。その運転手が助手にやっていたことは(笑)」。
だから、村山氏以外では、6ヵ月つづいたのが最高だった。
「トラックのなかの空気なんて最悪です(笑)。お互い口もきかない。でも、その運転手さんのおかげで、休むことなく、遅刻することもなく2年、つづけることができたのも事実です。怒られるのもイヤだし、怒られる原因をつくりたくなかったから(笑)」。
村山氏がいうように、その運転手は、村山氏の仕事観に一つのセオリーを叩きこんでくれた。仕事は、休んでも、遅れてもいけない。

「1000万円計画」

「もう2年も経っていますから、私もそれなりの評価をもらっていました。でも、その一方でサーフィンにも益々、のめり込むようになって。海で生活しようと思い立つんです。トラックの助手で100万円くらいは貯まっていましたから独り暮らしもできるだろうって」。
ところが、だんだん目減りする。海までのガソリン代、食事代、節約しても、かかるものはかかった。
「それで、時給のいい夜の仕事をはじめました。ええ、水商売です。海に行ってサーフィンして、水商売に行って仕事して。そういう生活を3年つづけます」。
最初は、サーフィンのほうが主だった。プロになる、そう思っていた時期でもある。
「ただ、現実をみちゃうんです。店に来るのは、それなりにお金をもっている人たちです。一方、サーフィンやっている連中は、プロだって明日食べる『めし』代がない。その両極端の人種を観て、なんか違うんじゃないかって」。
そして「1000万円計画」がスタートする。「30歳までにリタイアできるほどの、金を儲ける」。シンプルで、クリアな目標ができた。1000万円は、その軍資金。仕事を掛け持ちし、節約もして、3年間でともかく軍資金は手に入れた。

水商売の経営、数店舗。

1000万円の軍資金で、水商売をオープンする。4店舗まで店舗を拡大した。
「どうでしたか。遊んで暮らせるお金は貯まりましたか?」と聞いてみた。
「うん、儲けることはできたと思うんですが、それだけ使っちゃった」とのこと。案外、人間、難しいもんだ。ところでどうして、水商売から飲食に転身することになるんだろう。
「直接的な理由はリーマンですね。しかし、それだけでもないんです。水商売って最初はいいんです。でも、お客様にも魂胆っていうか。2年、3年通っても、女の子が思い通りにならないとクレームが入るんです。『今まで、いったいどれくらい払ったのか、わかっているのか』って。最初は、いい子がいるな、なんて言ってくださっていたのに、です」。
案外、純情である。村山氏が「夜の世界」に馴染めなかっただけ、かもしれない。しかし、そう長くいたくないという気持ちはわからなくもない。ただ、夜の世界から離れれば、儲けは、減る。30歳で悠悠自適な生活も、お預けである。それでも、すべてを捨てて、新たなチャレンジを開始した。

「恩返し」が今からのキーワード。

「居酒屋革命 酔っ手羽」を創業したのは、2008年のことである。1年後に法人化し、株式会社プロジェクトMを設立した。「最初の『酔っ手羽』は、水商売の従業員に1人、料理ができる人間がいたので、無事スタートすることができました」。4ヵ月後には、2号店を出店。業績はいうまでもなく、順調。「順調は順調でしたが、飲食は素人です」。やりながら、猛烈に勉強した。「最初はF/Lコストも知らなかったくらいです」。
なかなか理解できない専門用語もあったが、お客様との「Win・Winの関係」は、何よりうれしく、原動力になった。
「飲食店は、これだけ来たんだからってクレームを入れてくる人はいないでしょ。利益率はたしかに低いですが、喜ばれる仕事ですからね」。
異業種からの転身。
「自由な発想」。それが村山氏のストロングポイントである。
「私自身、飲食は初めてですから。何も知らない一方で、何も知らないからできることもあった」。
F/Lコストも知らないから原価もかけた。「日替わり弁当」の要領で、毎日、異なるイベントを開催した。「お刺身10円」や「飲み放題」などのイベントもその一つ。「そんなイベント、今ではやる店もたくさんありますが、うちがたぶん初です。飲み放題も、10年前、うちしかやってなかったはずですよ」。
とにかく、お客さんに楽しんで欲しい。その思いを、次々、かたちにした10年でもある。
「お客さんの立場で観れば『いいお店かどうかは』一目瞭然です。『また、来たいと思うかどうか』。私もそれを判断軸としています」。
居酒屋からスタートした事業は、ラーメン、ステーキレストラン、バーと広がっている。売上はすでに20億円オーバー。
「何度もかべにもぶち当たりました。そのたびに試行錯誤して、少しでもましな方向へ、方向へと進み、今がある。いろんな人からアドバイスをいただいたり、お客様に励ましていただいたり」。
今、おもしろいことにも着手している。江戸川区にある幼稚園や小学校にハガキを無償で配り、子どもたちが保護者宛てに書いたハガキを持参すると、お子様ランチが無料になるという取り組みだ。
「私を育ててくれた、新小岩に恩返しです」と村山氏はいう。
PRのためかとも思ったが、村山氏は、純粋に「恩返し」を行おうとしているようだ。
東京、下町生まれ。情にあふれた経営者でもある。
この「恩返し」が、下町に、何らかの新しいウェーブを起こせばいい。
そんな気がした。

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