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第643回 株式会社ISSEI 代表取締役 浅田一世氏
update 18/06/12
株式会社ISSEI
浅田一世氏
株式会社ISSEI 代表取締役 浅田一世氏
生年月日 1979年2月13日
プロフィール 京都府出身。明徳義塾卒。「よしもと」に入団し、2年間、修業に励むもバイトが忙しくなり、リタイア。そのバイト先「株式会社トラジ」で、頭角を現し、取締役と営業本部長を兼務。独立は、27歳。独学で、ラーメン店を開業するが、なかなかうまくいかず、得意の焼肉で挽回。次の手として、デリバリーやステーキハウスも出店するが、こちらも採算にのらず、赤字ばかりが膨らむ。その時、「焼肉一本で」と決意し。焼肉店にすべてのちからを注ぎ込む。
主な業態 「焼肉ここから」「ラーメンここだけ」「大衆酒場IMAKARA」
企業HP https://issei-kokokara.com/

中学でスポーツの名門校に進学。

サッカーで有名な三都主アレサンドロや相撲で有名な朝青龍ともおなじ寮だった。調べればわかるが、ともに明徳義塾に留学。つまり、今回、ご登場いただいた浅田氏も、高知にある明徳義塾出身である。
浅田氏の生まれは京都。小学6年生まで京都で暮らす。中学に進学する際、独り高知に向かい「明徳義塾」に入学する。浅田氏は「海と海、山と山に囲まれた陸の孤島」と表現する。
中学時代は野球に専念していたが、高校で断念。カラテ部に進む。
「だれもかれもスポーツ選手でなきゃだめな学校なんです。私は中学から野球でしたので、そのまま野球部に進もうと思っていたんですが、1週間で心が折れて(笑)。だって、段違いの奴らばかりで。『あぁ、こういう奴らがプロに行くんだな』って。でも、野球部を辞めても、どこかの部に入らないといけない。唯一ウエルカムだったのが、空手部だったんです」。
これが、地獄のはじまり。二度とあの頃には戻りたくない時間がスタートする。

青春の香りは、シャンプーとリンス。

明徳義塾では、ほぼ全員が、寮生活を送ることになっている。むろん、浅田氏も、寮生だ。寮生活は6年間に及ぶ。中学の時は、それなりに楽しかったが、高校に進学してからは、「ヤバイ」の一言だったそう。
「なんていったって陸の孤島です。しかも、きびしい監視下に置かれての生活です。そのうえ、高校に進学する前、食堂から酒を盗んで飲んだことがバレちゃって。要注意人物のレッテルが貼られました」。
要注意人物だったが、かなりの人気者でもあったそう。当然、目立つぶん、上級生からも何かにつけ、可愛がられた。とくに寮の先輩たちは、ひどかった。いろんな先輩がいるなかでも、いちばん悪い奴に目をつけられた。空手部の2年上の先輩。
「ちっちゃかったんです。だから、からかうにはもってこいだったんでしょうね。いまでは、その先輩とも親しいんですが、当時といったら」。
先生たちの監視下に置かれ、先輩たちには、顎で使われたた。それでも、青春の1ページはあった。「洗剤っすね。俺たちの青春は」と浅田氏。「服も決まっているし、恰好つけようと思ってもできるアイテムがないんです。頭はみんな丸坊主だしね。唯一の楽しみが、洗髪の時のシャンプーやリンスなんです。あれのええ奴で、ね。ええ匂いがするでしょ、それが、唯一のおしゃれで」。
実は、禁断の山にも登ったことがあったそうだ。山の上にあるのは、女子寮。どうやっても、侵入できなかったらしい。こちらも青春の1ページ。ブランド物のシャンプーとリンスでキメて、頂をめざしたのはいうまでもない。
ちなみに、奥様も、実は明徳義塾の出身。1つ下らしい。「まぁ、いろいろあった中・高ですが、卒業する時には、さすがにウルウルきちゃいました」。
ところで、浅田氏は、空手でインターハイにも出場している。先輩が目をかけてくれたおかげでもある。「あんだけいじめられたら、そらぁ、つよなりますよ」。
浅田氏はそう言って笑う。卒業することで、たしかに少しだけ、笑い話となった。

肉が食えるんちゃうかな。未来の取締役は、そう思ってバイトを始めた。

「卒業したら駒沢大学に進学する予定だったんです。空手部のルートです。でも、それってヤバイでしょ。だって、そんな大学に行こうもんなら、あの、イヤな先輩たちがいるわけですから」。
それで、進学を断念し、「吉本」に入った。「吉本ってあの『よしもと?』」 「そう、あの『よしもと』です。1年間は関西、2年目に東京進出です。進出っていったって、時々、舞台にでるくらいです。アルバイトしないと生活もままならない。トラジのバイトをスタートしたのは、東京に行って1年が終わろうとしている頃ですね。それまで、どっちかっていうと、アルバイトっていっても独りできるような奴ばかり。だんだんさみしぃなってきて。みんながしているような『ふつうのバイトしてみよかな』って思うようになった時に出会ったのが『トラジ』です」。
貼り紙をみて、ココだと思ったらしい。「何しろ焼肉屋でしょ。肉、食べられるんちゃうかなって」。単純な動機だが、それで人生が決まるのだから不思議なものだ。
「ほんまですね。アレが俺のはじまりですもんね。それから、いうたら、ずっと肉です」。
ちなみに、浅田氏はトラジで取締役まで昇進。代表取締役社長 金 信彦氏の懐刀にもなる。

独立するも、独学でつくったラーメン、マズし。

「トラジを辞めたのは27歳の時です。その時には、取締役で、営業本部長も兼務していました。すると、会議ばっかりで、いうたら、会議室で缶詰です。そんなん、ぜんぜんおもろないでしょ。それで、社長に『辞めます』っていうんです。でも、なかなか辞めさせてくれへんかったけど、ある日、金さんから『飯でも食いに行こうかって、言われて』。そこで『わかったって』はじめていうてもろたんです。だいたい半年くらいかかりましたっけ」。
「それで独立?」
「そう、それで独立です。でも、焼き肉はあかんわけですよ。義理もありますから。それで、ラーメンです。インターネットで調べて、つくったんですが、みんなが『めっちゃマズい』って(笑)」。
「でも、まぁ、客はいないこともなかったんです。とくに深夜は。ただ、『ラーメン』はマズいからだれも食べない。つまみと、酒で、みんなとしゃべりに来て、帰らはるんです。ま、そんなわけですから、赤字です。それで、金さんにも了解してもらって、焼肉屋をはじめます。こっちは、俺のフィールドですからね。失敗するわけはない」。
実は、トラジからの支援はいまも受けている。トラジのセントラルキッチンを利用させてもらっているのは、その好例。1号店には、金氏も出資してくれているそう。
「あれがなければ、独立なんて無理だったですね。いま、資本は50%・50%です。金さん抜きでは、考えられないです。いまも感謝がたえません」。
むろん、金氏の行動は、期待の表れでもあった。しかし、目をかけ育て、独立も支援してきた浅田氏が途方にくれていたことは、どれだけご存知だろうか?
つい3年前、つまり2015年の話である。

焼肉一本にシフトチェンジで、V字回復を果たす。

「焼肉屋をスタートして、いったん軌道に乗るんですが、それ以外が、ぜんぜんだめ。ラーメンはそもそもアウトだったし、それ以外にはじめたデリバリーもパっとしない。ステーキハウスも、ぜんぜん儲かりません。赤字で、借金だらけです。嫁さんとかには、心配かけないようにしていましたが、『もうどうにでもなれ』って」。
自暴自棄。
前に進もうとすればするほど、借金が膨らんだ。ただ、負のスパイラルが何十回転した時、ふと光明がさす。
「もう、どうしようもなくって、やる気もぜんぜん起こりませんでした。にもかかわらず、この時、突然、スイッチが入って。『そうや、焼肉屋にシフトしよ』って。一点集中です。焼肉店は儲かっていたのに、それに集中することができなかった。相談したら、金さんも『やれ、やれ』っていってくれたのに、そんな金さんのふところの広さにも、実は気が付いてなかったんです」。
もう一度いうが、焼肉は浅田氏のフィールド。焼肉、一点集中で、奇跡にちかいV字回復がスタートする。
ちなみに、以来、知人もどんどん入ってきて、そのなかには、明徳義塾出身者も顔をそろえる。「30名の社員のうち6名が明徳義塾出身です。なかには、甲子園で優勝した野球部上がりの後輩もいます」と浅田氏。それも、さも嬉しそうだ。
「先日、母校で講演もさせていただきました。校舎に入ると、ぜったいもどりたくないあの頃に少しタイムスリップしたような感じでした」。
それは、四六時中ゲンコツが飛んできた辛い青春の場所であったが、人生をともにする仲間と出会った場所だった。こういう場所を持っている人はつよい。
最後に今後の目標も伺った。
「海外も含め、300店舗を目標にしています」とのこと。「明徳、魂」というのがあれば、その「魂」で、焼肉に人生をかけた1人の敏腕経営者が、ここにいる。将来が楽しみだ。
ちなみに、明徳義塾がある高知には、いちはやく出店している。

思い出のアルバム
 

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