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第653回 株式会社インセプション 代表取締役 西田雅之氏
update 18/08/21
株式会社インセプション
西田雅之氏
株式会社インセプション 代表取締役 西田雅之氏
生年月日 1978年6月27日
プロフィール 亀戸出身。高校中退。19歳。ホテル六本木アイビスのラブネットでアルバイトを開始し、正社員に登用される。23歳。オペレーションファクトリーに転職。当時、東京に進出を図る同社のキーマンとなり、活躍。29歳で退職し、フリーに転向。33歳で会社を設立。母に教えられた「感謝」の二文字を大切にする。
主な業態 「DUMBO Doughnuts and Coffee」「とりビアー麻布十番店」「BRYANT COFFEE」
企業HP http://www.i-ception.com/

逃げ出したいと思っていた、少年時代。

母親は朝から深夜まで働き詰めだった。まだ、西田氏が子どもの頃の話。父親が居なくなったからだ。蒸発した、と西田氏は乾いた声で、笑う。
「僕ら4人兄弟を育てるために、母はパートを掛け持ちしていました。子どものことですから、それがどれだけ大変なのか分かりません。子どもたちには、大変な顔を見せない人ですから、とくに。ただ、何度か引っ越して。いま思えば、あれは夜逃げだったのかな、と/笑」。
それでも、小学校低学年までは、特別、意識したことはなかった。ただ、高学年にもなると、いろいろ分かってくるから辛い思いもした。その分、勉強や運動をたくさん頑張った。中学になってからは陸上部に入り、ハードル・幅跳びでは、区大会で2位や3位になった。
「そうですね。兄弟4人と母1人です。小さなアパート。僕は、早く逃げ出したかった。そういう生活からです。電気も、水道も、ガスも止まった。でも、そんな中でも、母は、僕たちに、人に『感謝』することを教えつづけてくれました。今の僕がいるのは、あの教えがあったからです」。
「かあちゃん」と呼ぶ母親と同年代となった今、西田氏は昔を思いだし、背筋を伸ばすようにして呟いている。「かあちゃんは、誰かを、何かを恨むことがなかった」と。
なんと、母は、まだ、子どもに教えつづけているのだ。

社会が、学校。

高校には進学するにはしたが、交通費もなく、学費も払えずスグに自主退学している。働いて家にお金が必要だったからだ。
「ええ、今もまだコンプレックスです。でも、僕は決してそれがマイナスだと思ったことはないんです。逆にバネになった、苦労をした分我慢や辛抱ができ、忍耐強くなれて人にやさしくなれるようになった。特にハングリーに貪欲にもなった。自分が成長するエネルギー源。そういうことです」。
ただ、今だから明るく、語ることができるが、当時は、這いつくばるようにして生きてきた。アルバイト先の同じ十代の学生が親のお金で学校で学び、仕送りで生活して遊んでいるのを横目で見て羨ましかった。貧乏で学歴がないというコンプレックスと向き合うのは、辛いことだったに違いない。
「16歳でしょ。どこにいっても、仕事がないんです。数十社に、断られました。仕事は一生懸命やると言っても、相手にされない。辛かったです。だから、採用いただいたカレーショップでは、もう残業ウェルカムです。休みだっていらない。だって勉強もできてお金をいただけるんですもん。正直、僕にとっては雇ってもらえ仕事ができる、それだけで感謝だったんです」。
仕事をしていれば、コンプレックスなど感じなくていい。たしかに、仕事は、ある意味ではコンプレックスから解放される息抜きの時間だった。
「カレーショップで2年くらいバイトをさせていただいて、その店で知り合った先輩の紹介で、パソコンを使う仕事をさせていただきます。ええ、エクセルやワード、イラストレーターなどのソフトの操作方法を勉強させていただいたのは、この会社です。当時からパソコン技能は必要とされる人間になる為の術の一つだと思っていました」。
当然、西田氏は、それを望んだ。
ただ、一方で、ある高級カラオケ・レストランで、もう一つのアルバイトを開始している。
「今はもうないんですが、昔、六本木に『ホテル アイビス』という有名なホテルがあって。そのホテルにあった『ラブネット』でアルバイトを始めます。当時、最先端のカラオケ・レストランで、芸能人の方も、沢山いらっしゃいました」。
2フロアで300坪。芸能人から政治家も利用して、連日賑わった。
昼前から夜までは、パソコン関連の仕事。深夜から朝まで、カラオケ・レストランで働く。「寝る時間はなかったですね。でも、それで、全然良かったんです、僕にとっては。お金も貰えるし、勉強もできるし。そんな成長ができる環境ほかにないでしょ」。
青年、西田氏の輪郭が、この言葉で浮かびあがる。

退職宣言。

この「ラブネット」で、西田氏は、恩師に出会っている。「当時の店長です。彼のおかげで、社員になり、実は、前職の『オペレーションファクトリー』に連れて行ってくれたのも、この店長なんです」。
「オペレーションファクトリー」は、大阪生まれの飲食会社だ。1998年、大阪堀江で創業。2001年、東京に「燈花(西麻布 個室和食)」を初出店している。
「ぼくが入社したのは、22歳。『オペレーションファクトリー』が東京初進出した頃で、ある意味、創業期です。約7年在籍し、最終的には数店舗を統括するディレクターとなります。ハイ、最年少でした」。
まさに創業メンバーの1人となった西田氏の中には、今も「オペレーションファクトリー」の鼓動が息づいている。
「デザイナーズレストランが、バーンといく時ですね。そういう意味ではとても恵まれていました。独立した今も可愛がっていただいていますが、社長や上司には本当に感謝です」。
とんがっている。時代を映しだすのではなく、時代のエッジに立ち、次の時代を先駆ける。そんな、レストランをいくつも携わる。
「29歳になった頃ですね。ちょっと、ぼく自身が天狗になっているのがわかったんです。給料も良かったですし、部下もたくさんいます。クライアントにも高く評価いただきました。でも、全て『オペレーションファクトリー』という会社に居るからなんですね。それが分かって、考えました。このままではいけないと、会社を辞めさせていただきました」。
まだ若い。西田氏は、こう思ったそうだ。
「人にちゃんと、頭を下げて、会社の役職や看板の無いところで、勝負する。そうして受け入れてもらわなければ、成長できないって。だから、社長に『あと1年で退職させてください』って言ったんです」。

独立、開業。その道へ。

「もし」、もしくは、「タラレバ」という言葉がある。「オペレーションファクトリー」に居たら、いま西田氏はどうなっているのだろう。豊富な資金のなかで、どんな素敵なレストランを仕掛けいたろう、とも思う。しかし、その点を西田氏は明確に否定する。
「制限や制約がないのは、だめなんです。『お金がない』や『時間がない』、『環境が悪い』など、制約があってはじめて知恵を絞る。それがいいんです。そうしないと、クリエイティブなものは生まれません」。たしかに、そうだ。
「私は、30歳の時、独立して初めてプロデュースの仕事を手がけました。いまも営業していて、ちゃんと利益を出しています。ええ、会社を辞めてからは、フリーで仕事をしていました。ニューヨークにも行ったりして。フリーでデザインの仕事もさせていただきました。もう一度、勉強ですね。そして33歳、たった一人で起業しました。それがインセプションです」。
インセプションの事業は、基本2つに分かれている。一つは、大衆を狙ったオーソドックスだが、収益の柱ともなる事業。これは、「とりビアー」で推し進めている。もう一つは、「DUMBO Doughnuts and Coffee」に代表される時代の先端を走る飲食業。これらが、前輪、後輪となって、力強い駆動力を生んでいる。
2018年7月現在、潟Cンセプションは直営店3店舗、業態開発プロデュースをしたとりビアー業態は合計14店舗(うち6店舗は、鰍ニりビアーが経営の元、当社でコンサルティングサポートをしている店舗となる)であり、他、ハワイアンカフェのディレクションや、百貨店デパートでの催事出店、海外へポップアップ出店案件なども随時進行中とのことだ。

好きな仕事。それは、可能性を広げる仕事だ。

西田氏の今の生き方は、「好きなことができていいね」とうらやましがられるそう。たしかに、時代を走る事業で手がけるショップは、おしゃれで、それ自体が、西田氏のクリエイティビティな発想を具現化したようにも映る。しかし、西田氏は、決して、「好きなことをしているのではない」という。言い替えれば、「マーケットがいま望んでいることを形にする」。それが、仕事なのだ、と言いたげだ。
「その一方で、大事にしているのは、メーカーのプロダクトデザインみたいな考えですね。いわゆる新しい価値観と付加価値を、アンテナの高い方に向け提供することで、新たなウェーブを創造するような仕事です」。
すでに挙げた、「DUMBO Doughnuts and Coffee」はその好例だろう。「これは、ニューヨークで食べたドーナツショップに刺激されて、よし、日本でもやってみよう、と。ただ、マネがキライだから、全部オリジナルです。SNSやインストグラムを意識した戦略を取りました」。プランニングを始めた当時は大手さんの大量閉店やコンビニ進出などドーナツ市場は波瀾でした。みんなに辞めた方が良いと言われましたが、僕はチャンスだと革新し、自身もありました。
このショップは、なんと、8坪6席、客単価750円で、1000万円弱の月商を叩き出したこともあるモンスターとなる。客数は月1万人を超えたそうだ。
いま、西田氏は、スタッフに、日ごろから「自分の可能性を信じること」、「できる・できない」ではなく「やるか・やらないか」と言っているそうだ。たしかに、西田氏の人生は、ある意味、「ない」「ない」尽くしだ。お金もない、学歴もない。それでも、いやそれをバネにして、いまがある。だから、こそ、西田氏は、信じているのだろう。「可能性」という言葉を。いや、信じるではなく、体験している。だから、その一言が重い。
もう一つの「タラレバ」。もし、西田氏にお金があり、学歴があれば、どうなっていただろう。
答えは、明白である。だから、この人は凄い。

思い出のアルバム
 

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