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第674回 株式会社カワイハイ 代表取締役 濱野健嗣氏
update 18/12/25
株式会社カワイハイ
濱野健嗣氏
株式会社カワイハイ 代表取締役 濱野健嗣氏
生年月日 1979年3月5日
プロフィール 高校中退。18歳の時、プロボクサーをめざし、上京。20歳、小学生の時に埋めたタイムカプセルを開け、料理人になることを決める。イタリアレストランでホールの仕事に就き、お酒にも興味をもち、バーに転職を決意。ショーパブを経て、縁あって、西麻布の名店「ドランカー」の店長となる。26歳の時、「ドランカー」を買い取り、独立。現在の主要ブランド、焼肉店「ニクアザブ」は、2011年にリリースしている。
主な業態 「ニクアザブ」「ドランカー」
企業HP https://www.nikuazabu.com/

20歳の今と、タイムカプセルに書き記した予想と。

小中学校の頃は、スポーツが好きで活発な少年だったそうだ。しかし、教育システム・学校制度にどうしても慣れず、高校では退学。15〜16歳の頃から土建屋で働いていたそうだ。
「18歳になった頃ですね。岡山にいても何もやることが見えなくなってしまい、一念発起して、東京に行きます。親父が東京で仕事をしていたもんですから」。
東京では、横浜のボクシングジムに通った。「有名なジムだったんですが、芽が出ず、2年でリタイアします」。
東京にでて、2年。20歳。転機は、意外なところに埋もれていた。 
「ちょうど、成人式だったと思うんですが、いったん岡山に帰るんです。でも、その時、みんなで小学校まで行ったんだったかな。とにかく、小学校の頃に埋めたタイムカプセルを開けるんです。そしたら…」。
拙い字で、<これを開けた時、君はボクサーか、料理人になっている>と書いてあったそう。
「小学生の私に背中を押されて、もう一度、東京に向かうんです。今度は、残された『料理人』になるためです」。
「東京にもどり、田町にあるレストランで8ヵ月勤務します。料理人になるためだったんですが、その時はキッチンが一杯で、ホールしかなかったんですね。ただ、ホールは、ホールで楽しくて。お酒にも興味がわいて、『バーもいいんじゃない』と思うんですね」。
一つひとつ、現在地にちかづいてくる。
「それで、西麻布のバーを紹介してもらうんですが、どちらかというとショーが中心のお店で、バーテンダーとしての業務はお酒を作るのが中心で、接客をメインでやりたかった私には物足りませんでした。でも、その店のオーナーが、マネージャーを通じて、一つのバーを紹介してくれるんです。ええ、それが『ドランカー』です」。

月商50万円まで落ち込んだドランカーの話。

ホームページには、<始まりは2000年8月 東京都港区西麻布のはずれ BAR ドランカー(1984年5月創業)を引き継ぐために作られた会社でした。ハワイが大好きだった 先代のマスターにちなんで ハワイ島の小さな町 ”Kawaihae” を元に名前が付けられました。>とある。
そして、当時の代表取締役は<ポール近藤>とある。
「そうなんです。『ドランカー』っていうバーのマスターが亡くなられて。そのバーを残したいからと常連だった4人の方が投資されて経営を引き継がれるんです。当初の代表取締役、ポールさんも、その1人です。そして、私がマスターに代わって、店に立つことになりました」。
最初は、「だれだ、お前?」だったそう。「そりゃそうですよね。マスターがいると思ってきたら、私なんですから」。客が来るたびに、怒られた」と笑う。もとのマスターのファンが姿を消す。300万円ほどあったという月商は50万円にまで落ちる。いっしょにはじめたアルバイトスタッフもいなくなってしまった。
「いやー、あのときは大変でしたですね。でも、なんか、仕事は楽しかったんです。もとのマスターのファンは離れていきましたが、なかには、『ドランカー』がいいと残ってくださるお客様もいたし私のファンも少しずつ。ハイ、それで、半年後にはなんとか、月商150万円くらいには切り返します」。
お客様との言葉のキャッチボール。
「東京に来てから、友達も少なく、話し相手もそんなにいなかったので。でも、『ドランカー』で仕事をしている時は、毎日が楽しくて。タダで、いろんな人と話ができるわけですから。それだけでウキウキしていました」。
西麻布。大使館もある。外国人の方もたくさんいらしたそう。
「そういう外国人たちにも刺激されて、お店を辞めて、1年間バックパッカーをします。22歳の時です。オーストラリアに8ヵ月。ケアンズから、ゴールドコースト、タスマニアにも渡り、パースでは4ヵ月くらい仕事をしながら生活しました」。東南アジア、ヨーロッパ、アメリカにも渡った。
「計1年ですが、私のなかでは、むちゃくちゃでかい経験ですね。お金がないから、ドミトリーっていう1泊8ドルとか10ドルの、そうですね、10人くらいいっしょの部屋に泊まります。最初は警戒心がありましたが、慣れてくると、逆に安全だと思うようになるんです。人と会話して、心を通わすことが、どれだけ大事かを知りました。もっとも、東南アジアでは40人いっしょ。1泊、150円くらいなんですが、僕にとっては居心地がよかった/笑」。
1年で帰国して、もう一度、「ドランカー」にもどっている。

8坪で、最高月収420万円。

「23歳で帰国し、もいう一度『ドランカー』で仕事をします。学生のバイトもきてくれて。月商も250万円に。最初の5倍ですね。安定して利益も出せるようになりました。そして、25歳で結婚するんですが、すぐに子どももできちゃって。嫁さんがはたらけなくなると、とたんに生活ができなくなります。嫁さんが、『ヤバイ、お金がない! 佐川でも行きなよ』って/笑」
「それで、たまたま帰省した時、めずらしく親父と話をして、『佐川でもいこうかな』っていったんですね。そしたら、親父が、『何をしたいんだ』って聞いてきて」。
正直に、胸の内を明かしたらしい。息子の話を聞き終わったあと、父親から、600万円をポンと渡されたそうだ。ちょうど「ドランカー」を買い取ることができる資金だった。
4人のオーナーのなかには反対する人もいたが、ポール氏は快く、「オッケー」といいい、残りの出資者たちを説得してくれたそうだ。
西麻布、8坪。ちっちゃな店だがオーナーになった。同時に、有限会社カワイハイの社長にも就任する。
晴れて、オーナー。どうでしたか? と聞くと、「ぜんぜん、ちがいますね。お店を買い取ったのは、ちょうど長女が生まれた日です。娘のおかげですね。娘ができたから、私もつぎに進めたようなもんですから。これまでと違い、今度はやればやった分だけ、でしょ。もう、すっかりドランカーワールドができちゃって。ビルが取り壊しになって、2年前の2016年にクローズしたんですが、最高420万円までいきました/笑」。
家賃は14万円。一般的な計算式でいえば、損益分岐点は、家賃の10倍。つまり、140万円。これを超えれば利益もでる計算だ。420万円から140万円を引くと。
「ただ、たいへんでした。15時には店に入って、翌朝6時までですから。ヘロヘロでした」。
しかし、その時にはもう、ちからも、体力もできあがっていた。
3年の準備期間を経て、2011年、西麻布にまったくジャンルが異なる「焼肉店ニクアザブ」をリリースする。これが、ヒットし、2014年には恵比寿にも同店をオープン。2015年には、有限会社から株式会社に法人登記を変更。2016年にも六本木にもオープンし、2018年現在では7店舗を展開中だ。
バーとはまったく異なるブランドだが、バーを長らく運営してきたバーのマスターでもある濱野氏がつくった店である。
「ニクアザブ」は、肉も旨いが、酒も旨い。

思い出のアルバム
 

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