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第675回 有限会社翠葉 代表取締役 浅野宜貴氏
update 19/01/08
有限会社翠葉
浅野宜貴氏
有限会社翠葉 代表取締役 浅野宜貴氏
生年月日 1966年12月25日
プロフィール 中国福建省生まれ。福建省師範大学を中退し、22歳、1988年に来日。中華街でスタートしたアルバイトを皮切りに、建築現場でも作業員などをする。ビザ取得のため、日本語学校、栄養専門学校に席を置きつつ、1992年、結婚を機に「翠葉」一号店を開業。業績悪化などを乗り越え、事業を拡大。現在は、教育にもちからを注ぎ、ゴルファーやミュージシャン、芸能人の育成にも取り組んでいる。
主な業態 「翠葉」「翠葉丼丼」「翠葉2000」「よしなさい」
企業HP http://www.suiyo.com/

中国、福建省。

福建省は、中国の南東部に位置する。今回、ご登場いただいた浅野宜貴氏が、福建省に生まれたのは1966年12月25日。六人兄弟の四男。
「私が生まれたのは、福建省のなかでも田舎のほうです。父は共産党員で、日本でいうならば公務員のような仕事をしていました。ただ日本と違って、当時の、中国の公務員の給料は、ぜんぜんです。私たちは、小さな頃から母といっしょに畑仕事をして暮らします」。
さつまいもを細く切って干す。それが、ひと冬明ければ、食料になる。ただ、両親と兄弟6人が食べていくだけの米がない。
「だから、お母さんは、ほとんど料理を口にしません。経済的には恵まれてなかったですが、親子はもちろん兄弟同士のきずなもつよく、両親は、私たちにちゃんと期待してくれていました」。
なかでも四男の浅野氏は、もっとも期待されていた。村いちばんの神童だったからである。
「当時は、中卒もふつうです。田舎ですからね。私の兄弟も、私以外はだれも大学に進んでいません。幸い、私は勉強ができたし、みんながそれを応援してくれたから、大学に進学できたんです」。
学校から帰ると、兄弟たちは畑仕事をはじめている。浅野氏は、料理などを担当した。いつのまにか、兄弟たちの期待も、浅野氏に寄せられていったのではないだろうか。
「田舎には、チャンスがないんです。私は、大学で都会に出ましたから。そのぶん、兄弟たちが観たこともない世界を観たとも言えますね」。
進んだのは、福建省にある、師範大学。先生養成学校だ。ただ、浅野氏は、せっかく入学した大学を中退する。そのいきさつを聞くと、改めて、当時の中国と日本の格差が浮かび上がる。

来日。時給500円のアルバイト。

「実は、次男が私より先に日本に渡ります。我が家の開運はそこからスタートします」。
次男が、日本で生活できるようになった頃、浅野氏も大学を中退し、来日する。
「日本という国に行けば、運が開ける。私も、それに賭けたんです。中国で大学生をするより、チャンスがある。やがて三男も、五男も、六男も。つまり、長男以外、全員、来日します。いまでは帰国した者もいますが、全員、日本で運を開いたといっていいでしょうね。日本は、そういう国だったんです。当時の我々、中国人からすれば」。
浅野氏が来日するのは、1988年。日本が、ある意味、いちばん光る時。異国の方からすれば、まぶしい国だったに違いない。
「最初は、兄の紹介で、横浜中華街で仕事をします。時給500円でした。兄は、コックでしたが、私はホール。でも、日本語ができません。お皿を下げるくらいしかできなかったですね。それから、日本語学校にも通います。葛飾区の平井駅のちかくです。」
時給500円。学校にも通っているから、長くは勤務できない。
「将来が心配ですね。どうしようか、と。ある人に相談し、兄に別れを告げて、東京で暮らしはじめます。新しい店は時給800円。終電ギリギリまではたらきました。そんな時、学校のともだちから、新しいバイト先を紹介してもらうんです。紹介されたのは、現場監督をされている人でした。私の恩人です」。

一号店、オープン。

「それまでは、飲食ですが、それから建設現場の仕事をはじめます。いわゆる3Kです。でも、お金がいい。1日はたらけば2万円。いいでしょ。現場監督をされている人にも親切にしていただいて、実は、外国人たちの元請けのようになり、月に200万円くらい稼ぐようにもなりました」。
月200万円とはすごい。
「もっとも稼いだお金は、仕送りしますから、手元には残りません。1990年に結婚するんですが、その時にも200万円くらいの借金があったくらいですから/笑」。
家族のため。兄弟のため。中国では、それが当然だった。むろん、妻のため、我が子のためもある。
「結婚して、そうですね。彼女も、中華街で仕事をしていたもんですから、結婚した平成4年に横浜市の南区に飲食店を開業します。ハイ、それが一号店です」。
新たな未来へための一歩。
この時のビルのオーナーとの出合いにも浅野氏は深く感謝している。
「だって、たいてい話も聞いてくれないんです。でも、そうでしょうね。実績もないにもないんだから。中華街に出店したかったんですが、まったく話になりません。だから、あのオーナーがいなければ、いまのうちはないんです」。
ただ、そのオーナーのビルは南区だった。中華街ではない。
「それがわからなかったんですね。だから、中華街と同じようにしてしまうんです。けっして高級店ではなかったんですが、それでも、酢豚1500円、エビチリ2000円です」。
最初は、よかったそうだ。まだ、バブルの余韻が残っていたから。月商は300万円。悪くない。

業績悪化とV字回復。神が舞い降りる。

「でも、だんだん下がって、200万円を切るようになります。そうなると、赤字です。どうしようもない。私はコックじゃないから、私だけ店を離れて昔の仕事をしようかとも考えました。でも、そうはいかない」。
いくら頑張っても振り向いてくれなかった運が、ほほ笑んだのは、ある物件を手にしてからだった。
「もう、追い込まれていたんですね。出前もするようにして。ただ、家賃もそうだし、人件費もそれなりに高かった。だから、いま言ったように昔の仕事をするかとも思ったんですが。そうじゃないな、と。ここは、攻め時だって、考えを改めたんです。そうしないと、いつまで経っても『あした』がない」。
平成9年になっていた。
一号店を出店して5年。
「不動産屋さんに声をかけていたんです。どこかにいい物件ないですか?って。その時に、紹介いただいたのが、いま本社ビルとなっている、ここです」。
もともとはラーメン店だった。立地は悪くないが、経営がうまくいかなかったようだ。ただ、浅野氏の目には、申し分なく映ったそう。最初は、居抜き。800万円で店だけ取得した。
「このあたりは東京で言えば、歌舞伎町なんです。深夜になっても客足が絶えません。ラーメンに、お酒に。月商は600万円になり、利益がでます。そして、これを境に、三号店、四号店と、私の快進撃が始まるんです。まるで、神が舞い降りたようなもんですね」。
この物件によって、人生がかわったと浅野氏は大げさなことをいう。しかし、浅野氏にとっては、まぎれもない事実だった。もちろん、それだけではない。出会った人、すべてを尊敬し、出会いに感謝する。
出会いから、生まれた人脈はいま、さらに広がっている。新聞社やTV局の経営者とも深くつながっている。
知人から勧められたゴルフを通して、輪はさらに広がった。
実はいま「ジュニア育成トーナメント」なるものまで開催している。

いい出会い。

話を伺っていくと、それだけではなかった。
「実は本社ビルの3階はライブハウスなんです。音楽関係者の方と出会って、ビルを建てた時にオープンしました。店名は、『セ・ラ・ヴィ』です。通常は、プロのミュージシャンに利用していただいていますが、いずれ、子どもたちの発表の場にもしていきたいな、と思っています」。
師範学校出身である。教育への関心も高い。
「さらに、若手芸人を育成したいと思って、ビートきよし師匠と芸能プロダクションを立ち上げました」。たしかに、ホームページには、ビートきよし氏の写真も載っている。
「いまがあるのは一つひとつの出合いのおかげだ」と浅野氏はいう。たしかに、そうだ。しかし、その一つひとつをこれだけ大事にできる人はそう多くはないだろう。
「裏表がないんです。だから、じゃないですか」と浅野氏は人と付き合う極意のようなものを教えてくれる。「つまり、感謝したうえで、互いになにかをシェアするんです」。
実は、この取材に備えて、浅野氏は一つのキャッチフレーズを用意してくださっていた。それを最後にご紹介する。
「出会いに感謝! そしてお互いにシェアしあう浅野の人間ドラマを一挙公開」。
私たちもいま、確実に、いい出会いをしているのだろう。果たして、何をシェアすることになるのだろう。

思い出のアルバム
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