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第681回 ダンデライオン・チョコレート・ジャパン 代表 堀淵清治(ほりぶち せいじ )氏
update 19/02/12
ダンデライオン・チョコレート・ジャパン
堀淵清治氏
ダンデライオン・チョコレート・ジャパン 代表 堀淵清治氏
生年月日 1952年1月18日
プロフィール 早稲田大学卒後、カリフォルニアに渡り、州立ヘイワード大学文化人類学修士課程へ進む。だが、大学は中退し、山のなかでヒッピー生活を開始するなど、奔放な生活を送り、31歳で起業。以来、様々なビジネスを起こし、2016年、ダンデライオン・チョコレート・ジャパンのCEOに就任する。アメリカへ日本の漫画文化をもちこんだ、漫画界の立役者としても知られている。
主な業態 「ダンデライオン・チョコレート」
企業HP https://dandelionchocolate.jp/

アメリカで送った、ヒッピー生活。

ヒッピーっていまも存在するのだろうか。少し調べてみた。ヒッピーは、カウンター・カルチャーなんだそう。当然、ファッションにも、芸術にも影響を与えている。昔、イメージしていた以上に、ヒッピー的な生きかたは、広範囲に広がっているのがわかった。ファッションや映画、音楽を通じて日本にも波及している。ちなみに「ヒッピー」が生まれたのは、1960年代後半ということだった。
今回、改めてヒッピーを調べてみたのは、ご登場いただいた堀淵氏が「ヒッピー生活を送った」というからだ。堀淵氏は1952年生まれ。ビートルズやローリングストーンを通して、世界を知った。そんな世代だ。
「まだ、学生運動が華やかなりし頃で、ぼくは早稲田大学の法学部に進みました。授業はなくレポートだけ。バンドとマージャンに明け暮れた生活を送っていました。そんな中、大学3年の時にともだちと1ヵ月サンフランシスコを旅して、すっかり魅了されてしまうんです」。
アメリカに?
「そうですね。それで、卒業と同時に渡米しました。学生ビザで入国し、カリフォルニア州立ヘイワード大学の文化人類学修士課程に進みます。もっとも、こちらは退学し、それから2年くらい、サンフランシスコから4時間くらい車で行った山のなかで、ヒッピー生活をします」。
「自由」。ヒッピーは体制的なものからの解放を意味している。日本の学生たちが叫んだものも、それにちかいのではないか。
一方、日本では思想的なものよりも、現実的なアメリカ文化の移植が盛んになる。アメリカのTシャツや中古のジュークボックス、ビリヤード台などもその一つで、実は、堀淵氏は個人商店を設立し、この仕事を行っている。
ヒッピー生活は終了したんだろうか?
「起業は、ぼくが31歳のとき。アメリカのポピュラーカルチャーを日本へ、というテーマで仕事を開始しました」。ちなみに、ポピュラーカルチャーのなかにはサブカルチャーも含まれる。堀淵氏が日本に送ったのは、当時の日本人には、充分、マニアックなサブカル的なものだったのではないだろうか。

日本の漫画は、もう、ここまで進んでいるのか。

「衝撃を受けたのはぼくだけではないと思いますが、大友克洋氏の『童夢』は、やはり鮮烈でした」。ちょうど帰国した時の話である。「久々に、日本にもどって、たまたま『童夢』を読む機会があって」。大友氏の、写実的で、それでいてドライなペンタッチは、従来の漫画と一線を画す。「AKIRA」もまた大友氏の作品だ。
「正直、日本の漫画は、ここまで進んでいたのかと、びっくりしました。浦島太郎になった気分です。それもあって、ぼくが33歳のときに小学館のオーナーとサンフランシスコで出会い、『日本の漫画をアメリカにもっていったら、面白いと思うんですよ』って言ったら、『そうだね』って話になり、小学館の出資を受けて『ビズコミュニケーションズ』を設立し、ぼくは上席副社長に就任しました」。
むろん、ミッションは、日本の漫画をアメリカに輸出すること。ただ、当時のアメリカの書店では、漫画が冷遇されていたそう。「それで、漫画の出版比率を少なくして一般書籍を増やそうと計画を立てたんですが/笑」。
その話をプレゼンすると、当時の小学館の専務が、「ふざけるな!」と一喝され、灰皿を投げつけられたそう。「さらに、『初心に帰れ』とね。怒鳴られて、『あ、そうだ』ってね。鎮火しちゃっていた漫画にかける思いが、再度、メラメラと/笑」。現在、堀淵氏は、日本の漫画文化をアメリカで流通させた立役者、世界に広げた第一人者として知られるが、それは同時に、このとき再着火した炎が、ついに掻き消されなかったことを証明している。

多彩で、多芸。2016年、ダンデライオン・チョコレート・ジャパンCEOに就任。

「小学館と集英社が合弁したのに合わせ、『ビズコミュニケーションズ』は、『ビズLCC』へと社名を変更します。そのときに、社長/CEOに就任しました。また、日本映画の配給を行う『ビズピクチャーズ』を設立し、こちらでも社長/CEOに就任します」。
実は、2015年に「ブルーボトルコーヒージャパン」の共同代表を務めている。
「『ビズピクチャーズ』が『ブルーボトルコーヒー』などをテナントとする複合商業施設「NEW PEOPLE」を2009年にオープンしたことがきっかけで話が進み、6年後の2015年に日本に上陸。そのときに、共同代表を務めることになりました」。
多彩で、多芸、様々な顔をもつ。ただ、ご本人は、やりたいことをやってきただけというだろう。
「その後、日本の第1号店である清澄白河店と2号店の青山店をオープンさせたのち、ブルーボトルコーヒージャパンを辞任しています。そして、翌年に『ダンデライオン・チョコレート』の日本上陸に参画し、ダンデライオン・チョコレート・ジャパン株式会社のCEOに就任しました」。
そういう意味で、いまやりたいのが、これ。「ダンデライオン・チョコレート」だ。

美しくとろける。

日本の1号店は、台東区蔵前にオープンした「ファクトリー&カフェ蔵前」。1階はチョコレートファクトリーとスタンド、2階はカフェとワークショップスペースを併設したファクトリーということだ。
「『Bean to Bar』という新しいチョコレートの文化を作っていくのが、ぼくたちのミッション」と堀淵氏。
ちなみに、ホームページには、「Bean to Bar(ビーントゥバー)」とは、カカオ豆からチョコレートバーになるまで一貫して製造を行うことを指し、2000年代後半からアメリカでBean to Barがクラフトチョコレートのムーブメントとして興った」と記されている。
それにしても、ホームページをご覧になられた人は溜息をつくのではないか。ホームページ自体もそうだが、店舗もまた、美しい。美しい日本の文化のなかに、美しいチョコレートが、美しくとろけている。

知らないものの、価値はでかい。

堀淵氏が生まれたのは、1952年1月18日。2人兄弟。出身は、徳島県小松島市。こちらも調べてみると、小松島という名称だが、「島」ではなかった。当時は、四国の玄関口の港として有名だったそう。父親も、祖父もお堅い銀行員。母親は徳島に文化服装学院を開く、当時にすればハイカラな女性だったという。
一兵卒のサラリーマンになりたくないと、こどもの頃から、小説家、アーティスト、音楽家、弁護士を志していたそう。小学校の時は学級委員長にも選出されたことがある。
徳島大学教育学部附属中学校から徳島県立城南高等学校へ。そこから、早稲田大学法学部へ。田舎者が、大都会で観たものは。
案外、堀淵氏の奔放な人生は、そんなところから始まっているのかもしれない。
知らないものの、価値はでかい。目をまるくし、目をひからせた、堀淵氏の顔が浮かぶ。

思い出のアルバム
 

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