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第713回 株式会社敦煌 代表取締役 兼 総料理長 村岡秀治氏
update 19/06/11
株式会社敦煌
村岡秀治氏
株式会社敦煌 代表取締役 兼 総料理長 村岡秀治氏
生年月日 1968年10月22日
プロフィール 山口県周南市出身。高校時代から敦煌でアルバイトを開始。卒業と同時に就職し、中国料理の神髄を極めていく。会社は、株式会社ジー・テイストにM&Aされるなどしたが、自身は敦煌の料理を守りつづけ、27歳で料理長、エリアマネージャー、部長などを経て、一昨年、社長に就任。総料理長も兼務している。
主な業態 「敦煌」
企業HP https://g-taste.co.jp/tonkou/

オヤジは、星一徹。

「星一徹みたいな親父」。村岡氏は、父親のことをこう表現する。食事のときに正座しないと殴られる。左官職人として、中学卒業時より丁稚奉公に出ており、昔ながらの頑固一徹、その環境下の中で育ったそうだ。
「私は、山口県のコンビナートの街、徳山市(現/周南市)で生まれました。1968年ですから、当時の徳山市はコンビナートに囲まれ、街の中心地はデパート、商店街と活気づいてた時代でした。徳山市は、山あり、海あり、川あり、と中心地から外れるとド田舎で、野球や、「アアァ〜」って、そうターザンごっこもしました。」。
とにかく、幼少期は遊び盛り。勉強には目もくれない問題児だった。
「小学2年生の頃、母が乳がんで入院していた時期があり、その時ですね、おやつを食べたくて料理のマネ事というか、焦げたホットケーキを作った覚えがあります」。
むろん、料理人になるとは思ってもいない。
ただ、源流は案外、ここかもしれない。
中学生になってからは、テニスに没頭。学業は万年ビリから2番目だったが、幸か不幸かキャプテンに選ばれた。高校もかろうじて公立高校へ進学し、テニス部に入部。
「高校でも勉強はしませんでしたがというより、中学以上に勉強が分からなくて、毎日放課後マンツーマンでの課外授業が毎日の日課でした/笑」。
青息吐息で、卒業する。

「センスがある」とほだされて。

「高校時代のもう一つの思い出が、高校2年生から始めたアルバイトです。ええ、そのバイト先がその後の人生を左右する『中国料理 敦煌』です」。村岡氏によれば、当時から街で有名な中国料理店だったそうだ。
部活が終わると自転車をこぎ通う。当時の時給は450円、月2万円くらいにはなった。
「職場ですか? そうですね、当時の職人同士の喧嘩はしょっちゅうでしたが、バイトには優しいんですよ。当時私は16歳、大人の世界を始めて垣間見た瞬間でした」。
「バイト始めた半年は鍋洗いだったんです。でも、だんだん仕込みや、デザートまでさせてもらって、良く厨房の方に「センスあるな」なんて、みんなからヨイショされていい気になってね。考えてもみなかった料理の世界へと足を踏み入れたんですよ/笑」。
ただし、「センスがある」といった先輩は、あながちヨイショだけでいったのではないかもしれない。なにしろ、村岡氏はやがて総料理長を務めるようになるのだから。

いきなりの宣言。「今日から会社がかわります」。

もう一度言うと「敦煌」山口県中心に展開する老舗中国料理店である。歴史を少しだけ追ってみる。創業は1956年「五平太食堂」を開業したことに始まる。1966年に「株式会社五平太」を設立して法人化。1995年には、広島証券取引所に上場している(当時の社名は株式会社パオ)。その当時で中国料理敦煌は13店舗まで拡大。村岡氏は1986年新卒で入社している。当時の初任給は10万円、手取りで8万円くらいで、入社した初めの月だけ残業手当がつき、手取りで18万円もらえたが、その後は残業もつかなくなり、しばらく手取り一桁が続いたそうだ。
「当時はお金がなく、休みのたびに近所の魚屋へ魚をさばきに行っておこぼれをもらったり、近隣の敦煌へ賄いの時間を狙って「手伝いに来ました!」と賄いをごちそうになったりもしました」。
ジー・コミュニケーショングループ入りしたのが2006年。その時村岡氏は30歳。突然「本日よりジー・コミュニケーショングループ」となります」と宣言されたそうだ
そう、М&Aである。当時厳しい状況に置かれてた株式会社パオは、ジー・コミュニケーショングループとなり、会社が変わったのである。その時、社長に就任されたのが阿久津氏である(現株式会社ジー・テイスト代表取締役)。
たしかに、不安にならないほうがおかしいだろう。「翌日から改革ですと言われても。。。」。
改革の嵐はすさましく、結果もすさましかった。赤字続きの会社が翌年から右肩上がりのように増収増益で黒字化、現場はとにかくFLの徹底。無駄な経費の洗い直しの日々。現場は耐えきれず、去っていく人も多数。
村岡氏自身も日々変革の波に飲み込まれ様々な葛藤が続いたとのこと。従来の職人の勘に頼った経営から、綿密な計画の基に経営手法が変わったことで職人もきちんと数字が見れるようになったそうだ。

総料理長村岡氏、社長になる。

村岡氏も気づけば、総料理長の立場となり現場に立っていた。
この子会社、株式会社敦煌の社長に抜擢されたのが、総料理長だった村岡氏だった。肩書も料理長→エリアマネージャー→ゼネラルマネージャー→営業部長兼総料理長と、役職を重ねて行った。
ところがある日、来期から社長に就任させるから・・・と。
耳を疑った。「どういうこと?」
子会社にし、代表取締役として旗を振ってほしいと打診が来たのが2017年12月。3か月後には株式会社敦煌として設立するとのこと。
こうして2018年4月2日【株式会社 敦煌】が生まれ、村岡氏も代表取締役兼総料理長として就任した。
ここまでの道のりは平たんなものでは無い事は言うまでもない。経営悪化による、閉店、同じ釜の飯を食った同僚たちのリストラ等…
「ときには荒行もやった」と語るとき、唯一、言葉が乱れた。

経営理念からもたらす未来。

「利益をだす方法は知っていても、実戦で結果を出すのは難しいです」。
そういいながら、村岡氏は子会社になる前まで、7年連続増収増益、利益率10%を維持している。
ところでこれから「株式会社敦煌」はどんな道を進むのだろう?
経営理念は「一座建立」
「一座建立とは茶道に使われ招く側と招かれる側が一体感になり、お客様には出来る限りのことをしてあげ気持ちの良くなることを意味します。似た言葉で「一期一会」がありますが、一期一会は一度の出会いです。私たちが求めるものそれは人が携わっている限り永遠に必要なことだと思っています。一座建立はお客様だけでなく社内風土にも必要と考えており、組織として社員からPA含め、当社で働く従業員・家族まで出来る限りのことをしてあげ、幸せを共感したいという思いもあります」。
この言葉の通り、現場からのたたき上げで思い描き続けたことが、経営理念にも反映されているのだ。
現在、中国料理敦煌5店舗、仙台下駄や1店舗、しゃぶしゃぶ清水3店舗、新中国家庭料理浅野1店舗、アモーレ・ガウディ1店舗と山口県を中心に広島、岡山、首都圏で展開している。
昭和〜平成、令和と変わりゆく時代に先代の意思を受け継ぎ未来へと発展させ、尚且つ従業員への思いやりを「村岡の野望」と共に強みを生かした戦略を打ち立てていくだろう。

思い出のアルバム
 

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