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第760回 株式会社田 代表取締役 内田克彦氏
update 19/12/10
株式会社田
内田克彦氏
株式会社田 代表取締役 内田克彦氏
生年月日 1963年5月23日
プロフィール 佐渡島出身。専門学校で上京。ゲイバーで仕事をつづけたあと、石井誠二氏が率いる「八百八町」に転職。石井氏の下で、修業を重ね独立し、カフェを立ち上げるがうまくいかず、44歳の時に「際コーポレーション」の門を叩く。中島武氏の下でも就業を重ね、49歳の時、もつ焼「でん」をオープンし、2度目の独立を果たす。
主な業態 「もつ焼でん」「たこといかのでん」
企業HP http://www.den-inc.net/

佐渡に生まれた1人の少年の話。

佐渡で金がとれたのは、いつ頃までなんだろうか?
今回、ご登場いただいた株式会社田の内田氏は、この佐渡相川の出身。「当時、佐渡には高校だって11校くらいはあったんです」。今は、その半分くらいになっているそうだが、佐渡は、東京の23区くらいの大きさがあるというから、案外、広い。
「父は公務員です。通っていた小学校は、1学年2クラス。1クラス40人ですから、1学年80人ですね。スポーツは当時ですから野球です。私は、広島カープのファンでした。赤ヘル軍団って響きが恰好いいな、と」。
中学になって野球部に入る。
「とは言っても9人いるかどうかのね。中学時代は音楽も好きになりました。TVの影響だと思います。フォークソングもそうだし、ロックもね」。
「中3か、高1で、ギターを買った」と内田氏は目を細める。「ギターは大好きで、今は、何台ももっています」と笑う。いまじゃ、高価なギターもあるんでしょ?というと、「そうですね」と一言。
高校は4クラスあった。
「高校の頃には東京へ行こうと思っていましたね。可笑しいのは「化粧」とかしていたことかな。パーマをかけて、頭髪検査の時、全校生徒の前で往復ビンタされたこともありましたね」。
パーマはいいとして、化粧って?
「薄くね。ロックミュージシャンの影響でしょうね。いつもいっしょにいる女の子たちが、『あれ? 今日、内田、白くない』っていいだして。それで、バレちゃった」。
むろんバレてもいいと思っていたから、本人的には問題はないわけだが、教師からは目をつけられたことだろう。フォークソングはいいとして、ロックはNG。
不良というレッテルが貼られていた時代だからだ。

ゲイバー、9年。八百八町、10年。

「けっきょく大学には進まず、専門学校に進学します。照明や音響などの専門学校です。しかし、その道には進まなかったです/笑」。
進んだのは、ゲイバーの道。「じつは、ゲイバーで9年、在籍しています。給料は高かったですね。あの当時で月給28万円でしたからね」。
流行っていたんですね?
「ママが芸能人なんかとも仲がいい人だったから」。
名前を挙げていただくと、俳優、芸人と、知っている名が、次々、挙がる。
「私は、ノーマルだったんですが、いい経験がいっぱいできましたね。ショーなんかもしていましたしね」。
特別なショーじゃなかったが、演じているほうも楽しかった。
この時の経験から、人が商品だなと思うようになったそうだ。
「この9年間は、私の人生のターニングポイントですね。ただ、この道を進んでいこうとは思いませんでした。それである日、『八百八町』に面接に行くんです。その時、いらしたのが石井誠二さんです。いうまでもなく『八百八町』はもちろん、『つぼ八』の創業者です」。
どんな印象でしたか?
「みんな石井さんを勘違いしていると思うんですね。べらんめえ調っていうかね。そりゃ、創業者だから、そうイメージされがちなんですが、ぜんぜん怒鳴らないし…。いまのベンチャーみたいに社長じゃなく、『石井さん』だし、石井さんも、私を『内田さん』と言っていました。そんな人だから最初から、もう、好印象しかないですよね。ええ、それで、入社し、副店長からスタートします」。
店長がいない新店だったから、内田氏が実質的にはトップである。旗とアメをもって、子どもたちに配ったそう。「ねり歩きですね/笑。誰かに、やれっ、て言われたわけじゃないんです。ただ、いいアイデアかなと思って」。
結果、月商2000万というモンスター店舗が生まれる。
「石井さんにお会いできたのは、私の財産ですね。私は39歳で独立するんですが、独立の話をすると『そうか』『本当に辞めるのか?』とさみしい声で言ったのを覚えています」。
じつは今も石井家とはお付き合いがある。内田氏に「人生の師を挙げて」と言えば、間違いなく石井氏の名が挙がることだろう。それだけ、背中を追いかけてきた人が、石井氏である。

独立と失敗と、出合いと。

「最初にオープンしたのは、39歳で、カフェです。カフェブームだったし、石井さんの下で、実績も残してきましたしね。間違いないだろうって。ところが…」。
ぜんぜんダメだったんですね?
「そうなんです。お客さんがぜんぜんいらっしゃらない。1日40万円を想定していたんですが、なんと10万円。それもいかない日がある。3年間やるんですが、給料が取れたのは、何回だったと思います? たった1回です/笑」。
うまくいかない。内田氏に「ちから」がないのではなく、飲食は、時に冷徹なのだ。運もいる。
「そうですね。今、私は、もつ焼の『でん』を経営しているのですが、これもたまたま食べた『もつ』に感動したからだし、44歳の時に際コーポレーションの中島社長が審査委員長を務める『伝説への扉』ってコンテストに出場し、中嶋塾賞と熱演賞をもらったのも、運といえば運ですからね。ちなみに、この賞をいただいて、私は中島社長の下でも仕事をさせてもらっています」。
 際コーポレーションは、3年半だったそうだ。
それで、2度目の独立?
「そうですね。ただ、1回目は私1人じゃなかった。今度は、私1人です。じつは今度も2年くらい、ぜんぜんダメだったんです/笑」。むろん、当時は笑いではすまない。
「ランチもやったんですが、ぜんぜんで、みんなが体調を崩したりすることもあったんで、ランチも辞めてしまいます」。運から見放されたように思えたが、飲食の神は案外、内田氏をじっくり観察していたのかもしれない。その志が、本物か、どうか。
実際、2年経った頃、業績は急にアップする。
「どうしたんだって感じですね。それから快進撃が始まります」。
味には自信があるという。相手は、おじさん。商いの基本が、詰まっている。

地方創生。今いちばん新しいテーマ。

「いま私がやろうと思っているのは、地方創生です。うまく行くかどうかは、今からなんでわからないですが。期待してください」。「地方創生」。たしかに、飲食は今や、そんな、創生の役割を担うまでになっている。それは間違いないことだ。
最後に内田氏に飲食の心得的な話を聞いた。
「飲食っていうのは、小さなことの固まりなんですね。だから、仕事中は小さいことでも絶対うそをつかない。私の会社では、これを徹底してもらっています」。
なるほど、大事なことだし、言えば飲食の本質かもしれない。
佐渡から海を渡り、都会というもう一つの海原で、石井誠二氏や、中島武氏といった2人の巨匠に出会い、彼らを羅針盤に進むことになる。ある意味、うらやしまい経歴だ。
これだけどっぷりと、飲食の仕事にハマる経歴はないと思うから。いずれにせよ、海を渡った少年のチャレンジは、うまくいっている。
「地方創生もつ焼き出店計画」。
きっとそれも、うまくいく。

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