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第799回 MAJIMA株式会社 代表取締役社長 眞島充友氏
update 20/08/04
MAJIMA株式会社
眞島充友氏
MAJIMA株式会社 代表取締役社長 眞島充友氏
生年月日 1974年12月27日
プロフィール 近畿大学法学部卒。2000年、ワタミフードサービス株式会社に入社し、関西1号店の立ち上げに参加。2号店では店長を務め、以降も店長やエリアマネージャーを歴任し、部長に昇格。そののち、独立支援制度を用い、業務委託をスタート。2010年3月19日、MAJIMA株式会社の前身であるマジマフードサービス株式会社設立する。
主な業態 「ほし寅」「ちょーちんスピカ」「七縁」「炉暖」他
企業HP http://www.majima.biz/

充友。名は体を表すか。

ともだちで充たされるように「充友」と名付けられたと眞島氏は笑う。小学3年生になると、名前の通り、ともだちが周りに充ちるようになる。当時は、サッカー選手。「親父も長嶋世代で、私も野球が好きだったんですが」。案外、流されるタイプだったらしい。
「野球は中学になってからですね。高校は、登美ヶ丘高校と奈良では真ん中くらいでしょうか。その高校に進みます」。新設校で、眞島氏は4期生。勉強はできないほうじゃなかったが、いつのまにか、眞島氏のあとには、成績順でいえば1人の生徒がいるだけだった。「そりゃ、大学進学もままなりません/笑」。
プロ野球選手をめざしたこともあったらしい。しかし、普通の公立校ではなかなかそのレールには乗れない。「1浪して進んだのが、近畿大学です」。
近畿大学といっても夜学。かろうじて滑り込んだ格好だ。だが、多少なりとも、それが人生にプラスになっている。「仕事をして、勉強もしようという人たちです。そこらへんの学生とは、いろんな意味で違います」。
眞島氏も、勉強とバイトに打ち込んだ。

ロン毛で、ピアス。

「私の人生の、最初の師に出会うんです」。バイトの話をうかがっている時に、師の話がでた。師は、ロン毛で、ピアス、推定50歳。「植木屋の大将です。この人がとにかく、格好いい。ロン毛で、ピアス。たばこではなく、パイプです/笑」。
大学3年時の話。師に倣って、眞島もたばこをやめパイプにしたそうだ。
「なにが格好いいかって、スタイルもそうなんですが、生き様ですよね。植木屋なんですが、塀などの外壁もやっていたんですね。ある時、ようやく一つの塀が完成したんです。私らが、『できたぁ〜』と一息ついていたら、『コワセ!』です。いい意味でも、悪い意味でも職人のなかの職人ですよね。それでいて、ロン毛で、ピアスっていうのが、ギャップがあって、またいい/笑」。
仕事がある日は、昼飯も、風呂も、晩飯と晩酌までもいっしょだったらしい。当然、大将のおごり。「もともと私は公務員になりたいと思っていたんです。なんたって、楽ちんそうでしょ。でも、言われちゃうんですね。『白シャツして、いやな上司に従って、それでええんか』って」。
師は心の自由を語ったのだろう。眞島という人間を、同類と思っての一言だったのかもしれない。もっとも大学3年生の時に、眞島氏は、夜間から通常の学部に編入。白シャツをめざしたわけではないが、ちゃんと就活もしている。

コネも効果なしだった就活戦線。

「植木屋のバイトもそうなんですが、バイトを通してだんだん社会っていうのも理解できるようになるんですね」。父親に勧められ、はじめたスナックの仕事も、社会勉強になった。
「ついでにいうと、そのスナックに通っていたお客さんが、会社も紹介してくれたんです」。最初に受けたのは、関西電力や中部電力など3〜4社。公務員ほどではないが、安定志向である。
「でも、ぜんぶ落ちちゃって。そしてら、スナックのお客さんらが紹介してくれるんです。えっと、ね。たしか、ライオンとアサヒペイントと、キーエンスだったかな」。
ぜんぶ、落ちた? 
「ええ、そうなんです。当時は、コネがあれば、受かったりしそうなもんなんですが…」。紹介してくれた人に悪いことをした、と眞島は笑う。
「仕方がないので、ともだちがやっていた建築系の会社に就職します」。ダンプを動かしたりもしたそうだ。「植木屋の時もそうなんですが、ものづくりが楽しかったんですね。とはいえ、大卒でしょ。周りからしたら、それだけで気に入らないっていうかね。精神的には、しんどかったです。ただ、3年したら会社が潰れちゃって。仕事も、なくなってしまいました」。
眞島氏、25歳。

青年社長に憧れて。

この時、眞島氏ははじめて本を読んだという。題名は「青年社長」。ワタミフードサービスの創業者、渡邉美樹氏のサクセスストーリーを追ったノンフィクションである。
「衝撃を受けました。でも、その時は、感動しただけで、いつのまにか忘れかけていたんですが」。
偶然だったそう。「2000年の8月です。そろそろ職に就かないと、と、就職情報誌を買ったんです。で、開けたページが。なんだったと思いますか?」
ひょっとして、「和民」の募集のページとか。
「正解です。偶然でしょ。あれ、これどっかできたことがあるなって/笑」。聞いたことがあるな、と眞島氏がいうのも無理もない。当時、奈良はもちろん、関西にまだ「和民」はなかったからだ。
「つまり、あの渡邊さんの会社の関西進出。その1号店の募集だったんです。直接、渡邊さんともお会いできるかもしれないでしょ。青年社長って、どんな人なんだろうって。そりゃ、興味津々です」。
父親がめずらしく猛反対したそう。「夜の仕事でしょ。それに、サービス。そういうのが気に入らなかったんでしょうね」。
しかし、反対を押し切り、入社。最初の配属は、横浜。

ワタミフードサービス、入社。部長に駆け上がる。

先を急ぐと、眞島氏はワタミフードサービスで頭角を現し、あの大所帯で部長職に登り詰めている。
「大阪に帰りたい一心でがんばったのが功を奏したんでしょうか。関西1号店の立ち上げのメンバーに抜擢いただきました」。
部長が店長、課長が副店長を務めるという異例の人事だったそう。「それだけ、ちからを注いだわけですね。もちろん大繁盛です」。「こんなに流行るんや」、はたらきながら、そんな感想を口にしたそう。
「それから、2号店の店長をさせてもらって」。
その当時の仕事ぶりを、評価してもらうと「5点満点で2点」とのこと。何より、初めてのマネジメントに苦労したそう。しかし、それを乗り越え、エリアマネージャーに昇格。こちらを2年つづけ、30店舗を統括する部長に。じつは、九州エリアの立ち上げも、眞島氏が行っている。
しかし、好調だった業績にかげりも生まれ、先輩たちが次々、会社を離れる。独立支援制度を利用した先輩たちも多い。
「それに倣ったわけではないですが、私も最初に店長を務めた関西2号店で、委託の店長を務め、翌年35歳で正式に独立します」。
ホームページの沿革から抜粋すると、<2010年6月1日、語らい処「坐和民」淀屋橋店フランチャイズ契約スタート>ということだ。
「3年でお金貯めて買い取りなさい、というのが会社のスタンスでした。そして、始めたのが『炉暖』です。独立するオーナー向けのパッケージでした。夫婦2人でも独立できる小箱。既存のメニューを6割程度というルールはありましたが、あとは自由だし、店名だって、自由。私は、あったかみのある店名にしたくて、暖炉をひっくり返して店名にしました。そうです。だから、『炉暖』」。

ビッグよりグッドへ。

備長炭で焼く、旨いやきとり。「厨房とホールが分かれていないスタイルのお店をしかった私に、ぴったりでした」。「店舗数を追いかけたこともある」と眞島氏はいう。「5年で10店舗。でも、いま10年なんですが、まだ10店舗にもいっていないです/笑」。
途中で、方向がかわったというわけですか?
「そうですね。いちばん苦労したのは、やはり人です。どう育成するかも含めてですが、人の問題は、飲食にとって永遠のテーマです。私たちの時代と、いまの子らの世代では当然、ギャップもある。『青年社長』でどれだけの若者がいま『これだ!』と思うかも含めてね」。
「彼、彼女がだめだというわけではない」と、眞島氏。時代のちがいだろう。
「だから、私は、ビッグよりグッド。そう、だれにとってもグッドな企業を指標にすることにしたんです」。ビックより、グッド。たしかに今の時代の指標である。しかし、ビッグな会社をつくるより、グッドな会社をつくるのは難しいことかもしれない。
むろん、1人でできるわけでもない。人がいて、仲間がいる。そんな仲間は、同じ目標を追いかけてくれる、「友」と言えるかもしれない。
ともあれ、眞島氏は、そんな仲間を振り向き、いまも語りかけているはずである。
「さぁ、いくで」。
ついてこいよ、と意味合いもあれば、自身の覚悟を語る言葉でもあるのだろう。
ちなみに、設立は2010年の3月19日。「さぁ、いくで」の日から、眞島氏と仲間の物語は、はじまっている。

思い出のアルバム
 

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