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第82回 株式会社かばはうす 代表取締役 松田幸紀氏
update 09/11/24
株式会社かばはうす
松田幸紀氏
株式会社かばはうす 代表取締役 松田幸紀氏
生年月日 1974年7月6日、鳥取県米子市生まれ。
プロフィール 実家は、祖父の代から和菓子屋を営む、商売一家。父は、洋菓子を取り入れ、「和・洋菓子」店を経営する。将来、店を引き継ぐために、高校卒業後、京都の「調理学校」に進み、その後、洋菓子店で2年間修行する。しかし、祖父と父が店をたたんでしまった。母が経営していた居酒屋の運営を打診されたのは、そんなときだった。洋菓子店から居酒屋に。学んできたこととは違ったが、意外に水が合う。このことがきっかけとなり、やがて山陰地区で有数の、また首都圏でも人気の居酒屋チェーンを築くことになる。
主な業態 「かばはうす」など
企業HP http://www.robata-kaba.jp/

人口4万人、島根県の安来市に生まれる。

「元気」「気配り」「スピード」を重視した経営で、炉端居酒屋「かばはうす」などを首都圏と山陰地方に計17店舗を展開する「株式会社かばはうす」は、若い経営者が率いる元気企業だ。代表取締役社長の松田幸紀。1974年生まれ。まだ35歳。山陰と首都圏。距離でいえば1000キロ近く離れた二つの土地で、いくつもの店舗を成功に導いた、この若き経営者「松田幸紀」にスポットをあて、過去を振り返ってみよう。
松田幸紀は、1974年7月6日、鳥取県米子市に生まれる。米子市は、人口およそ15万人の、東京と比べるともちろん小さな都市だ。育ったのは、島根県の安来市。人口は4万人にすぎない。家族構成は、両親と姉の、4人家族。
松田家は祖父の代から和菓子屋を経営しており、父は洋菓子も取り入れ「和・洋菓子」店を経営していた。やがて両親が別居し、松田と姉は、父と共に暮らすことになる。「当時、父と別居した母親は、小さな居酒屋を営んでいた」と松田。やがてその店を自分が引き継ぐとは想像もしなかったことだろう。「父や母というより祖父の愛情を受けた」と松田が語っている。だから祖父母のお菓子作りも進んで手伝った。家では、父と姉がもっぱら食事を作ってくれたが、松田もまたキッチンに立つことがしばしばあったそうだ。

引き継ぐはずだった店がなくなった。

小・中・高と、野球に明け暮れる。これが松田の記憶だ。「まとめ役を好んでやり、野球ではもちろん、クラスでもリーダー的な存在だった」という。一方で、いずれ「洋菓子店」を引き継ぐだろうと考えていた。高校卒業後、京都の「調理学校 製菓衛生士課」に進学したのも将来、店を引き継ぐための準備だった。この学校でケーキ職人の土台を作った松田は、その後、京都の、ある「ケーキ屋」に入店し2年間、修行する。しかし、彼が2年の修行を終わる頃になって祖父と父が店をたたんでしまった。松田の未来図が崩れていく。
母から「居酒屋」を引き継いでくれないかと誘われたのは、そんなとき。快諾とはいかなかったが、松田は、居酒屋の経営に初めて乗り出すことになった。この店が「かばはうす」の起点になる。引き継ぐといっても、居酒屋のノウハウはない。マスクをかぶりケーキをつくるケーキ職人とは、まるで違うにぎやかな世界だ。だが、むしろこちらのほうが、水があった。
1年ほどは、従来のやり方を踏襲したが、22歳になってカウンターだけしかないその店を150席のお店に変えた。「朝まで営業」や「年中無休」のスタイルも採り入れている。この転換が、転機となる。ちなみに現在も、山陰地方で展開する「かばはうす」はすべてが席数の多い大箱である。一方、山陰地方には魚をメインにするお店が少ないことにも目をつけ、「日本海の魚」を中心にしたメニューに刷新。人気店になっていく。こわいものは何一つなかった、と松田は振り返る。安来市と比較にならない都市の米子に2号店を出店したときも、当初は、苦戦したが、後には、米子でもナンバー1といっていいほどの繁盛店をつくりあげていく。

東京へ。その夢を叶えたのは継続の力。

山陰でことごとくヒットを飛ばした松田は、いよいよ東京に乗り出す。しかし、所詮、田舎モノに過ぎなかった。東京は、思いもよらないほど、排他的な都市だった。「東京で実績のない会社に店を貸すことはできないと、断られ続けるんです。絶対、成功する自信はあったのに、勝負する場所がない。話があれば、山陰から飛んできて説明する。でも結局は大手のハンバーガーチェーン店に決まってしまったり、と。100ヵ所以上は見て回りました」と松田。松田にとっては初めての挫折である。屈辱も味わった。結局、2年間、探し続けた。ようやく契約してくれた物件は新宿3丁目。しかし、いさんで出店したものの、1ヵ月は閑古鳥が鳴き、2ヵ月目になってようやく、上向いた。
この2年間が何であったか、今振り返ると、「東京」を知るうえでの貴重な時間だったといえる。スタッフたちにも、意気込みを十二分に示せたのではないか。社長は本気だと。また、ついに出店までこぎ着けたことでスタッフたちは改めて社長である松田の力を知ることになったのではないか。松田は、「継続は力なり」、この言葉を好んで使う。実際、そう思っているからだ。2年かけ、松田は東京という堅い壁を破ったことになる。これもまた継続は力なりである。

「任すことができるスタッフ」を育てることが、松田の経営術。

さて、東京と山陰、離れたこの両者を一人でコントロールする離れ業はまずない。しかし、術はある。松田は、もとより店をスタッフに任せてきた。マニュアルもない。髪型をはじめスタイルも自由だ。
あるとき、髪を染めた青年が面談に訪れた。松田は意に介さない。ただ、バンダナで隠せるかと聞く。そのスタッフが数年後、昇格するにはどうしたら、いいかと聞きに来た。松田は、そこではじめて「なら髪の毛を黒くしろ」といった。翌日から、彼は、真っ黒な髪で接客にあたっていた。相手を無理に変えようとはしない。強制もしない。だが、気づきは与える。これが、松田流の教育。育った人間は、おのずと独り立ちができている。だから、店を任せても安心できる松田は、首都圏と山陰、店舗が遠く離れていても、安心していられるのだ。
松田はまだ若いこともあってか、自分の将来をしばろうとはしない。「身近な目標は追いかけるが、ビジョンは持たない主義だ」ともいう。今がよければそれでいいというタイプではむろんない。では、なぜか。若いスタッフたちと共に描くこれからの未来図は、一人で考えるよりも、ずっと広く果てしないと信じているからではないだろうか。

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