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第825回 三本珈琲株式会社 代表取締役社長 山本 聡氏
update 20/02/23
三本珈琲株式会社
山本 聡氏
三本珈琲株式会社 代表取締役社長 山本 聡氏
生年月日 1961年8月13日
プロフィール 明治大学商学部卒業後、父親が経営する三本珈琲株式会社に入社。1年間、ニューヨークに留学するが、「YES’89横浜博覧会」へ出展の指揮をとるために帰国。総事業費12億円の指揮をとったことをターニングポイントの一つに挙げる。父親は先々代社長。2代目社長を経て、社長に就任したのは2015年。社内の整備や教育に注力し、社員1人1人の底上げを果たす。
主な業態 「三本珈琲店」「caffe LAT.25°」「MMCオーガニックカフェ」「三本亭」他
企業HP https://www.mmc-coffee.co.jp/

珈琲が、育てた少年。

大学時代は紅茶党だったが、今では日に、7〜8杯は珈琲を飲むそうだ。今回、ご登場いただいた三本珈琲の代表取締役社長、山本聡氏のこと。珈琲をこよなく愛する人だ。
「両親は2人とも(株)木村コーヒー店(キーコーヒー株式会社の前身)で勤務していまして、そこで出会って結婚します。父親が同社を辞め、独立したのは26歳の時だと聞いています。祖父は、小田原の農家。母親は、住職の娘です」。
長男の山本氏が生まれたのは、1961年。兄妹は3人。弟と妹がいる。
「親父はとにかく、厳しかったですね。怖いくらい。ずっと敬語でした。もっとも一番下の妹には、まるで態度が違っていましたが/笑」。
父親が独立し、初出店したのは、1957年。横浜市中区宮川町に、有限会社三本コーヒー店として創業されている。当時は、ラーメン一杯と、珈琲一杯が同じくらいの値段だったそう。
「タクシーの初乗りも同じくらいだったと聞いています。当時は、珈琲が嗜好品の一つとして、嗜まれるようになった時代だったのでしょうね。弊社も、順調に業績を拡大していきます」。
ホームページの沿革を見ると、工場の建設や、名古屋、大阪への進出など、事業拡大の様子がうかがえる。
一方、山本氏のほうもまたスクスクと育つ。「小学校は関東学院です。中・高は浅野学園。大学は明治。本当は同時に合格していた関西学院大学に行きたかったのですが、親に反対されて/笑」。
どんな子ども時代だったのだろうか?
「そうですね。部活はやらない。続かないから/笑。運動も、勉強もそこそこできたほうですね。今振り返るとリーダーシップもあって、割と目立った生徒だった気がしますね。組長なんかもしていましたし。そうそう、中学時代に、親に勧められてですが、1ヵ月アメリカでホームステイします。実は、結婚してからも1年間、ニューヨークで暮らしています」。
入社してからニューヨーク? 中学生のホームステイも斬新だが、ニューヨーク滞在も、ユニーク。目的は、海外の大学を卒業することだったそう。

12億円のパビリオン。

「人生のターニングポイントを一つ挙げるとするなら、ニューヨークでの1年と、そのニューヨークから帰国することになった時のことですね」。
どういうことだろう? 実は、三本珈琲は、1989年に開催された「YES’89(YOKOHAMA EXOTIC SHOWCASE '89)横浜博覧会」に「MMCコーヒー地球体験館」を出展している。山本氏がいう、ニューヨークから1年で帰国することになった理由だ。
「パビリオンをつくるなど、総事業費12億円の事業です。その事業の指揮をとるために帰国します。準備1年、開催1年、計2年。普通はできない体験です」。
12億円とは、相当な額だ。当時、パビリオンを出展した企業を調べてみたが、日本石油や日本IBM、東京ガス、日立や松下の各グループなど、錚々たる顔ぶれ。ちなみに、この時、三本珈琲が出展した「地球体験館」は熱帯雨林や南極、砂漠などを疑似体験できるパビリオンだったそうだ。
「新卒のタイミングで、弊社の東京支社という位置づけでエムエムシー株式会社を設立してもらいます。友人3人と1人番頭をつけてもらって営業を開始しました。その後はニューヨークを経て、横浜博覧会のため、帰国したのが27歳の頃。東海大学さんに監修をお願いするなど、スケールとしても初めて体験することばかりでした」。
むろん、結果は大盛況。子どもたちに、地球という、天体のスケールを教えることができたに違いない。しかし、当時の売上高は20億円程度。12億円の投資は財政にも影響したことだろう。実際、影響は、しばらく尾を引いたそうだ。
それでも、3代目となる山本氏を育てた投資とみれば、どうだろう。当時、山本氏が、わずか1年で帰国させられた理由も理解できる。山本氏は「父から会社を継ぐようにとは言われたことはない」というが、お父様の頭には、もうこの頃から山本氏を社長にする青写真が描かれていたのかもしれない。

機動力は、ショップ事業。

「けっして、いい時ばかりではなかった」と山本氏はいうが、カフェやレストランのショップ事業だけではなく、本業である珈琲豆の卸事業があるぶん、業績の揺らぎは少ない。
その事業の卸先を伺うと、日本はもちろん、外資系の有名なホテルの名も次々と挙がった。ただ、その一方で、機動力となっているのは、店舗事業である。
人材ビジネスの大手企業「リクルート」で勤め、4年前に入社した山本氏の長男は、店舗事業が、この数年で変わったと言う。
「韓国では、当時スターバックスより店舗数の多かったカフェチェーン『カフェベネ』とフランチャイズ契約を結び、日本法人としてスタートします。おかげで、羽田や成田といった空港内好立地に出店できました。最初に出店したのも、羽田と成田、そして赤坂です」。
韓国の俳優も来たということだ。
「当時、弊社の主要ブランドの『三本珈琲店』は、ロケーションは最高だったのですが、メニュー、オペレーション、デザインなど改善の余地が大いにありました。それもまた『カフェベネ』のおかげで、すべて刷新することになりました。残念なことに、『カフェベネ』は韓国の本社が民事再生されてしまいますが、それでは、私たち独自でやろう、と。私が、本格的に店舗事業部に関わることができるようになったタイミングでもありましたので」。
店舗事業が、改めて、機動力となった瞬間。出店にも拍車がかかった。2020年、現在、総店舗数は、34店舗だが、ここ数年の伸びがとくに目覚ましい。羽田に13店舗、成田に4店舗。横浜CAILや小田原ミナカなど商業施設内にも出店してきている。日本の玄関口に、三木珈琲のショップが並んでいる。しかも、おしゃれな。
「事業のターニングポイントを挙げるとすれば、『カフェベネ』のフランチャイズになったこと」。そう分析しているようだ。

次世代へのバトンタッチ、始まる。

社長の山本氏は、もう一つ違った分析をしている。それは、長男がリクルートから戻り、「人材」という視点を持ち込んでくれたことだという分析だ。実際、ここ数年、いい人材が、次々、入社してくれたと目を細める。やはり、事業は人ということなのだろう。
「私自身は、現場に口出しせず、もう少し高いところから、指導やアドバイスをしていきたいですね」。もう、バトンは次世代に渡されはじめている。父が育て、自身も育てた会社と珈琲文化。息子をはじめとした次世代の人たちは、これから、どこへ連れていくのだろうか。
それもまた楽しみという山本氏は、今やまぎれもない珈琲党だ。

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