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第834回 株式会社Earth Food 代表取締役 小林史和氏
update 21/04/27
株式会社Earth Food
小林史和氏
株式会社Earth Food 代表取締役 小林史和氏
生年月日 1976年10月23日
プロフィール 高校卒業後、電気工事の仕事に就く。5年勤め、退職。もともと興味があった飲食の世界へ。就職先はEarth Food。以来、会社と共に歩みつづけ、2020年11月、社長に就任。2020年はコロナ禍のなかで、業績が低迷し、10億円程度の年商となるが、2021年以降、V字回復を期すと同時に、改めてシェアの拡大を図り、まずは、30億円規模の企業をめざす。
主な業態 「ラーメン我馬」「麺屋台我馬」「RAMEN-STAND GABA」「中華そば我馬」
企業HP https://earth-food.jp/

カーテンは閉めておくこと。

小林氏は1976年10月23日、広島に生まれる。
「父親は、サラリーマン。母親は、1人で食堂をやっていました。親父は、ヤンチャだけど明るくて、一緒にいて楽しい人です。ただ、私が物心がつく頃まで会社を経営していましたが、うまくいかず。そのうえ、知人の借金の肩代わりもしていたようです」。
「裕福じゃないのは、小さな時から薄々わかっていた」と小林氏。
「私が時々、留守番をするんですが、その時、母親が『カーテンを閉めておきなさい』というんです。昔は、用心のためとだと思っていたんですが…/笑」。
兄弟は2つ違いの兄が1人。
「今も仲がいいですよ。最初は一緒に仕事もしていましたからね」。兄とは背格好も似ている。ただし、兄は、どこにいても中心的な存在だった。逆に小林氏は目立つことも少なく、ともだちを進んで作るタイプでもなかったそうだ。
小学校ではサッカー、高校ではバスケットボール。

電気工事士になって、借金返済す。

「借金の額を知ったのは、私が高校を卒業する時です。3000万円はあったかと思います。みんなで返済する計画を立て、私と兄が返済するのは、それぞれ800万円でした」。
高校を卒業して、いきなり800万円の借金を抱えた格好。
「あの時は『やるしかない』わけですから。卒業してすぐにパチンコ店でアルバイトをはじめます。時給がいいですから。1年後に、兄がやっていた電気工事士の仕事をはじめます。手に職がつくことはもちろん、給料も悪くなかったからです」。
当時は、電気工事の仕事が豊富にあった。「これだ」と思ったと、小林氏は、電機業界に先見の明があったことを明かす。技術もあり、人もいい。小林兄弟の名は、業界内で知れるまでになったそうだ。
「借金の、私の持分800万円は3〜4年で返済することができました。当時の月給は27万円程度だったと思いますが、私のお小遣いは2万円です/笑」。
すべて、借金返済に回したと思っていたが、そうでもないそうだ。「返済と同時に少しずつですが、貯蓄もしていました」。堅実なタイプといえばそうだが、欲しかった車も買わずに貯蓄に回したのは、お金の大事さを知っていたからだろう。しかし、こののち、お金ではない選択をする。

退職と結婚、新たな一歩。

電気工事の仕事をはじめて5年。借金を返済したことで、結婚も視野にはいった。仕事でつかっていた1BOXカーのデートも、もうしなくていい。
「でも、そんな時ですね。5年で、電気工事士の仕事を辞めます。業界に先がないというのがわかったからです。案外、古いんです」。
習慣が古い、と小林氏は言う。「古いなかでは、なにもできない」。これが、小林氏の選択。
「じつは、結婚した時には無職です。向こうのお父さんにも、辞めるのは反対されました。ただ、昔からやりたかった飲食の世界に入るなら、いまがラストチャンスだ、と。ええ、奥さんは、理解してくれていましたね」。
旦那は、ハローワーク通い。それでも、奥様は、信じておられたのだろう。その思いが、背中を押した。
「飲食で、どこがいいかっていうのは、食べてみるのが一番じゃないですか。でもね。お金がないから、それはできない。だから、店を見張ってたんです/笑」。
お客さんの流れをウオッチしていたそうだ。これは、と思えば、3時間。その話を聞いて、がんこの現会長、小嶋 淳司氏から聞いたお話を思い浮かべた。小嶋氏も「最初に何をするか」という時に、これはと思う店に張り付き、外から客の流れを観察されていたそうだ。
「私が、寿司をやろうと思ったのは、その結果」といっておられたと記憶している。

ラーメンに恋する。

Earth Foodも、ウオッチされた一つだったのですか?
「そうです。噂は聞いていたんです。すごいラーメン店があると。行列が長すぎて、道路まで出てしまうもんだから、バス会社からクレームが入ったなんてね。人気がある繁盛店なのは、外から観ていてもわかったのですが、決め手になったのは、じつは求人誌のキャッチコピー」。
なんて書いてあったんですか?
「何をやってもいい!です/笑」。
「私は、『居酒屋をつくって独立する』ということを、ラーメン店の面接で言っています。『何をやってもいい』って書いてあったから、言ってもいいでしょ/笑」。
たしかに。
「しかも、大繁盛といっても、当時はまだ2店舗で、従業員も社員5名の零細企業です。将来を託すには、少し不安もある。だから、まさか、その会社にずっといて社長になるなんて思ってもいなかったですね/笑」。
入社されていかがでした?
「最初の3ヵ月は時給です。その後、月給になるんですが、それでも20万円くらい。しかも、朝から晩まで仕事漬けで、その給料です。じつは、飲食に進むとき、妻に『覚悟してくれ』といったんですね。1年後、妻が私に『こんなに覚悟がいるとは思わなかった』ともらしました。
無我夢中。記憶も飛ぶくらいだったそう。しかし、そんななかでも、少しずつラーメンに恋するようになる。「入社して初めてうちのラーメンを食べるんですが、『これは、旨い』と。サイドメニューもとてもおいしい。ええ、だんだん社長(創業者)にも惹かれていきましたね。
社長(創業者)と福岡に出張に行ったことがある。「あの時に、ラーメンのちからを見た気がします。もともと、麺好きだったこともあって、食べることもそうですが、それを事業にすることにも抵抗がなかったですね」。
ビジネスのアンテナも動いたということですか?
「そうですね。福岡のラーメン事情をみて、業界として広がる未来への可能性がある、と。実際、当時、うちはたった2店舗でしたが、月商合計は3400万円でしたからね」。
なかでも1号店は34席で1800万円をたたき出していたそうだ。
このあと、小林氏は、3店舗目で店長になり、その2年後に統括、そして29歳でエリアマネージャー、営業部長を経て、39歳で取締役になり、2020年の11月、現職の社長に就任することになる。

独立よりも大事なこと。

独立は考えかったのか?と直截な質問も投げかけてみた。すると、インタビューの後日、丁寧な説明のメールをいただいたので紹介しよう。
インタビュー時には、『自信がないから』という返答だったが、じつは、別の理由があったという。
「私の思いとしては、Earth Foodという会社や、ともに働くみんなが大好きだということです。私は、たった5名の頃から参加しています。会社が成長するにつれ、たくさんの部下にあたる方々を育ててきたつもりですが大きな勘違いでして、じつは、部下でもある彼、彼女たちから寄せられる信頼や、彼、彼女たちの熱い想いが、私を育ててくれたのだと感謝しています。
そんな想いのなかで、いつしか私自身のことよりも、みんなの人生をより先に考えるようになりました。つまりは、彼、彼女たちの想いを実現することに夢中。といいますか、この会社のメンバーが大好きなんです。大好きなメンバーと大きなチャレンジが出来るなんて幸せじゃないですか!そして、創業者である山崎を経営者の師として、飲食の師として、とてもふざけてて超絶あったかい先輩として心から尊敬してます。
そんなメンバーだったら、沢山挑戦して失敗してお互いに成長できるはず。もしも大きな失敗で倒産しても、このメンバーでならどんな事業ででも這い上がれると思える自慢のチームなんです♪」
むろん、小林氏自身に対する思いも熱い。
「私自身は、『形あるものを求めているというよりは、自分の人生の中で生を受けた自身のちからがどこまで通用するのか? 人生を終える時、私はどこにいて、そこにいることに、充実感と達成感を抱いていられるか?』を問える人生でありたいと願ってきました。
借金問題もあって、若い頃から苦労を少しだけしてきました。それによってハングリー精神が育てられたことや、貧しいことへの反発が、いまも頭のどこかにあるのかもしれません。また、入社してから営業部長に至るまでの間、給与や休暇等々、会社規模に労働環境が追い付いていないこともあって順風ではなかったという経験もあります。
だからこそメンバーのみんなには、やりがいや楽しさは勿論のことですが、成果収入をめざす環境を提供し労働環境でも充実できるような企業をつくること。独立することよりも、会社のメンバーと未来を創ることが大きな目標になったというのが、いちばんの理由です。
メンバーのため、独立とは異なる選択をした小林氏。その小林氏が、創業者に代わり社長になるのは必然だったかもしれない。
その昔、ラーメンに恋したことも含めて。

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