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第836回 株式会社ジーフェイス 代表取締役 吉邨一仁氏
update 21/05/18
株式会社ジーフェイス
吉邨一仁氏
株式会社ジーフェイス 代表取締役 吉邨一仁氏
生年月日 1970年4月28日
プロフィール 大阪府東大阪市出身。大学入学と同時に鳥貴族1号店でアルバイトを開始。創業者の大倉忠司社長から直接指導を受ける。大学卒業後、大手建設会社に就職。敏腕な営業マンとして活躍するが33歳で退職し、鳥貴族のフランチャイズ店を開業。
主な業態 「鳥貴族」
企業HP http://www.g-faith.net/

サラリーマンは、何をしている?

「カウンターの向こうに大倉さんがいた」というのは、今回ご登場いただいた株式会社ジーフェイスの代表取締役、吉邨氏。義兄に連れていかれたそうだ。
吉邨氏が「大倉さん」というのは、鳥貴族の創業者、大倉忠司社長のこと。「当時は、鳥貴族もまだ3店舗くらいの頃。義兄に連れていかれたのは1号店。大倉社長がまだ店に立っていらした頃の話です」。
鳥貴族の創業は1985年。大学生になったばかりの吉邨氏が、大倉社長と出会ったのは、その3年後の1988年の頃のことだろう。
「義兄は以前から、大倉さんと親しくさせてもらっていたようです。私が店に入ると、いきなりカウンター越しに面接のようなものがスタートして、『じゃぁ、明日から』みたいな/笑」。
吉邨氏が生まれたのは1970年。東大阪市の瓢箪山出身だそう。父親は腕の立つ板金工で、会社を経営されていた。母親も吉邨氏が小学2年生になった頃から鉄板焼のお店をスタート。「自宅の1階がお店だった」と、吉邨氏はなつかしげに呟く。
「親父の板金は魔法みたいでした。親父は、いつか私に継がせたかったんでしょうが、どんなキズでも、凹みでも完璧に直してしまう。あんなのをみせられたら『できっこない』って思っちゃいます/笑」。
「母親は私が小学2年から10年くらい鉄板焼のお店をやっていました。ありがたいことに、常連さんも多かったですね。自宅兼ですから、お客さんの周りをうろちょろしていた気がします」。
当時、吉邨氏はネクタイをしている人が、宇宙人に思えたそうだ。「会社というところに行って、彼らはいったい何をしているんだ?」
子どもの頃のつぶやきだった。

経営者一族。

「父だけじゃなく、母も、いったら経営者ですから、私にもそのDNAが流れていたんでしょうか。先生やともだちから『あいつはいずれ経営者になる』なんて言われていました」。
いまになって思えば、先生やともだちの予想はズバリ的中しているが、本人が、それを意識するのは高校になってからだそう。
「小学校時代は、ソフトボールや野球、中学からはハンドボールにハマっていましたから、将来のことは…。あ!ただ、ハンドボールをやっていた時は、将来、実業団へ、なんて思っていましたね/笑」。
高校になっても、ハンドボールをつづけるが、部の雰囲気と水が合わず、中学時代の先輩にさそわれて水泳に転向。水泳部のほうは、水があったのだろう。キャプテンまで務めている。
「で、大学ですね。大学は大阪経済大学です。東大阪から抜け出したくて/笑」。
で、大倉社長と出会うと?
「そうです。ただ、大学時代は鳥貴族だけではなく、ほかにも運送会社や食品会社などいろんなアルバイトを経験しています」。} 大倉忠司という偉大な経営者も、まだ、社会に知られていない頃。最初の出会いは、すれ違いに終わったといっていいかもしれない。実際、大学を卒業した吉邨氏は大手建設会社に就職している。

大手建設会社退職は、賭けでもなんでもない。

東証一部上場企業である。橋梁やトンネルの大規模な工事がメイン事業の会社。この会社で、吉邨氏は10年間勤務している。
「資格なども取得しました。営業に移ってからは、けっこういい業績だったと思います。仕事は楽しかったですね。たいはんが公共事業ですから、規模も、金額も大きい。がっつり相手のふところにはいって」。
情報戦争。駆け引きも、ネゴシエーションもある。いえば、大人の世界だ。「そういう世界を楽しんでいたんですが、私を鳥貴族に連れていった義兄がいちはやく鳥貴族のフランチャイズになり、それにつづくようなかたちで私も33歳の時に独立します」。
辞めるにあたっては、反対もあったそう。そりゃ、そうだろう。所長に推薦しようと思っていた、という話もあったそうだ。それ以上に、吉邨氏の決断を危ぶむ声が、そこかしこからあがった。
「何しろ、3月に下の子が生まれ、4月に退職ですからね。ただ、そんななかでも、うちの奥さんだけは何もいわないでいてくれました。あ、そうって/笑」。
奥様の「あ、そう」が、背中を押してくれたといってもいいのではないか。
「大倉社長からは、いろいろアドバイスをいただきました。ええ、もちろん、最初から鳥貴族1本です。やるなら、鳥貴族。それ以外は、眼中になかったです」。冷静に自分自身で分析をしたうえで間違いない、と判断したという。
「まとまった資金はもちろんないから、国金にお金を借りに行くわけじゃないですか。当然、事業計画とか説明するでしょ。大倉社長にもアドバイスいただいて仕上げたものなんですが、それをみせると、担当者が私の不思議なものをみるようにして、『上場企業を辞めて、やきとり屋?』って/笑」
「当時は鳥貴族っていってもまだ知られていなかったんでしょうね? 知り合いも、おんなじような反応でした。『280円均一? なにそれ?』って。
とはいえ、下の子が生まれたばかり。いくらなんでも不安がゼロだったはずはないだろう。ただ、それを口にすると「そう思うのは、鳥貴族のスキームや、そのビジネスを知らないからだ」と言われてしまいそうだから、口をつぐんだ。

オープンの初日にダウン寸前? 以来、16年。

「33歳の時、昭和町に1号店を出店し、現在(2021年)で16年目です。店舗数は16店舗。この1年は、どこもいっしょですが、コロナ禍で経営はたいへんでした。時短営業はもちろん休業した店もありましたので、売上的にはきつい。ただ、いつまでもつづくわけでもないでしょうから」。
もう、未来をみすえている。つよがりではないが、「不安」という言葉を口にしない人かもしれない。キャプテンシーにあふれた人は、そういう人が多い。
「この道にはいって、苦労したことですか? う〜ん。忘れちゃったのか、そもそも苦労していないのか/笑」。
とはいえ、1号店オープンの時は、初日に熱をだされたとか?
「あ、そうですよね。あの時はオープンの準備やらで。バイトの面接だけでもたいへんでしたから疲れ切っていたんでしょうね。当日は本部や義兄の店から、助っ人が駆けつけてくれましたので、助かりました。もちろん、私も熱があるのに、ふつうに仕事をしていましたが/笑」。
「出店でいえば、2店舗目をだすまで3年かかっています。そこは苦労の一つですよね。なかなかいい物件がなくて、というのが正直なところです。あ、そうそう、2店舗目を出店する時も金融機関の人から『今のままでも生活できるでしょ。なんで2店舗目をだすの?』なんて言われました。あの時は、『勉強不足だろ』って逆にアドバイスしたかったくらいですね。鳥貴族のことをぜんぜん知らないわけですから」。

満点なんてない。だから、もっと、もっと。

どうも、金融機関の人は、いまだ知らなかったようだが、当時、鳥貴族は破竹の勢いにのるところだった。市井の人々は、280円均一のやきとりに魅了されていく。むろん、吉邨氏もつぎつぎ出店を重ねる。
そのなかで、大事にしてきたことはなんですか? そうたずねると「人柄オンリーの採用」という返答だった。
「うちがここまで進んでこられたのは、『明るくて、マジメで、素直』な人たちといっしょに仕事をしてきたからだと思っています」。建設会社の、当時の後輩も1人、要職につき、勤務している。
「私がみているのは、スタッフ1人1人が前向きに幸せにはたらけているかどうかです。だから、労働時間の管理には煩いですよ。基本、自由度は高い会社ですが、長時間労働だけには煩い。残業だったり、早出だったりしていたら、どうしてだ? なんて詰められちゃいますからね/笑」。
決められた時間内にすべてを終了すること。たしかに、ある意味、きびしい。ただ、そういう会社は一般的にいい会社である。
「私自身が、大手の一般企業にいたこともあって、労務面でもモデルになっているのが、そういう会社なんですね。だから、飲食といってもイケイケ的な風土はないです。もっとも、旅行なんか行くと、みんな、思っている以上にはっちゃけてしまうんですが」。
コロナ禍で、社員旅行もなかなか行けない。でも、下を向くことはない。「いつまでいっても満点なんてないと思うんです。だから、いつだって、もっと、もっとでしょ」。
じつはいま、アルコールをださない業態の開発にも着手しているそう。コロナが収束すれば、それも早晩、スタートするだろう。
1枚のカウンターをへて、2人の経営者が出会った。それも、また飲食の魅力だと思う。飾りもなにもない、リアルな世界。それが飲食の世界だと思うから。

思い出のアルバム
吉邨一仁氏
1店舗目の開業日
妻と、前職の退職時に
お腹にいた二女と。
   
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