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第848回 株式会社のぶちゃんマン 代表取締役社長 滝下信夫氏
update 21/08/10
株式会社のぶちゃんマン
滝下信夫氏
株式会社のぶちゃんマン 代表取締役社長 滝下信夫氏
生年月日 1953年4月26日
プロフィール 立命館大学経営学部卒業。愛称は、のぶちゃんマン。父親が始めた家具の露天商を継ぎ、1988年、京都市中京区にタキシタ家具を設立。地元のテレビショッピングに女装して出演し、急激に商品が売れたことをきっかけに、ピーターパンなどインパクトのある格好をするようになり、キャラクター「のぶちゃんマン」が誕生した。
現在では、感動の100円ぱん「京都伊三郎製ぱん」、レトロバー「お酒の美術館」、お酒の買取専門店「ゴールドリカー」、アウトレット家具「家具の宝島」、「のぶちゃんマンのチーズケーキ」など多業種を展開している。
主な業態 「京都伊三郎製ぱん」「お酒の美術館」「ゴールドリカー」「家具の宝島」「のぶちゃんマンのチーズケーキ」
企業HP https://www.nobuchanman.com/

剣道と少年。

偶然だが、インタビューした日は、のぶちゃんマンの68歳の誕生日だった。あとで、Facebookをのぞかせていただくと、バースディの写真がアップされていた。
のぶちゃんマンこと、滝下信夫氏が生まれたのは1953年4月26日。意外なことだが、少年時代は内向的で引きこもりがちな少年だったそう。
「転機の一つは、小学5年生の時に訪れます。母親に剣道の教室に連れていかれたんです」。小学5年生。剣道はけっして楽なスポーツではない。「何度も辞めようと思たんですが、じつはいまもつづけています」。
剣道ではどんなことをマスターしましたか?とうかがうと、「たくさんのことを教えてもらいましたが、身についたといえば、やはり、逆境を跳ね返す精神力ですね」という返答。
「優勝とか華々しい結果はありませんが、それでもつづけられたのは、剣道にそれだけ惹かれていたからでしょう。今思うと、ほんと辞めなくてよかったです/笑」。
「逆境」という表現が正しいかかどうかわからないが、たしかに、滝下氏の人生は波乱万丈。気合と残心がなければ、どうなっていたか、わからない。
剣道に励む少年は、頭も悪くなかった。
高校は堀川高校(現在は、京都でトップクラスの進学校)を卒業したが、この時、大学には進学しなかった。
「高校を卒業して、大阪の家具店に就職します。父親が京都で小さな家具店をやっていましたので、いうならば二代目の修業ですね」。ただ、家業をつぐつもりはなかったとも言っている。「だからね。目的がないっていうか。当時は、パチンコや競艇にどっぷりと」。
なんでも、日々のパチンコ店通いはもちろん、日本中の競艇場をめぐっていたそう。「怠惰な日々だった」と滝下氏も笑っている。
それでも仕事はつづけられたんですよね?
「それは、もちろんです/笑。案外、商売っ気もありましてね。就職した会社には3年勤め、それから実家にもどりますが、小さな店なので、仕入れから値札付け、配達までぜんぶ1人でやっていました。とはいっても、配達の合間にパチンコに寄るみたいな、ね」。
父親は職人気質だったが、私は母譲りの商売人、とのこと。むろん、針はどちらにも傾かず、ただただギャンブラーであったことも事実である。

殻を破った、スポットライト。

ギャンブラーだったし、アイデアマンでもあった。リスクと対峙することで、想像力も、決断力も育った。「なんたって、〆切まで決断しないといけないでしょ。そういう意味では、私の人生、競艇のおかげってところも、ちょっとはあるような気がするな」。
ともかく、これといった、良いことも、逆に悪いこともなく、ギャンブルと共存できるくらいの日々がつづく。
「ただ、それでも、けっこう注目はされていました。35歳の時、60坪で3億円売り上げたところ、船井総研さんから『坪効率日本一』の称号をいただきました」。
家具店には家具を展示するためのスペースがいるそうで、大型店ともなれば1000坪クラスもあるそう。「だから、うちみたいな小型店はそもそもバリエーションが効かないわけです。1990年代に入ってからは、大型店の出店攻勢はもちろん、ドル箱だった婚礼家具の習慣もなくなり、小型家具店の業績は下降します」。
そんななかで、どう活路を見出されたんですか?
「小スペースだから、上に積み上げたんです/笑」。蛍光灯も外したそうだ。「あのドン・キホーテさんも参考にさせていただきました。チラシもつくりました。『小さなキズだが、どでかい安さ』みたいなキャッチフレーズをつくったりして。だいたいトークも得意だから、口八丁っていうかね。学習机を年間1000台売ったら、みんなびっくりしちゃって、騒いでくれました/笑」。
口がうまいから?か、TVショッピングにもでている。「4回目までは、ぜんぜんダメだったんです。でも、5回目に司会者のアドバイスを聞いて、女装したら」。
女装?
「KBSのTVショッピングだったんですが、とにかく、今のままじゃダメだったことになって。もちろん、目立つのはきらいなほうだし、内向的でしょ。だから、最初は…」。
カメラの前に立つまで、アイデンティティーが揺れまくったそう。
「でも不思議なもので、スポットライトが、パッと当たった瞬間、覚醒しちゃうんですよね。なんだか、いままで私が覆っていた殻が破れて、何でもできるんちゃうかって/笑。で、いざ本番です。司会者がのせてくれて、爆笑の渦です。注文の電話が鳴りやまない。そんな事態は想像もしていなかったから、びっくりです」。
驚異的なセールスを記録する。
誰だ、あれは? 滝下氏の名も、広まったことだろう。むろん、いちばん驚いたのは、滝下氏、自身に違いない。記録的なセールスにではなく、もう一人の滝下という人に出会って、である。

のぶちゃんマン、爆誕。

「マスコミ受けを狙ったわけではないんです」と滝下氏は、のぶちゃんマンが生まれる背景を語る。「TVでは女装でしょ。店でもなにかやろうとなって、今度はピーターパンです。でも、店で動き回っているうちに衣装がボロボロになるんです。家具にひっかかって」。
はぁ、なるほど。
「それでね。専門家にお願いして、はじめてちゃんとしたコスチュームをつくってもらったんです」。
それが、もしかして。
「そうです。2000年のことです」。
ちなみに、現在ののぶちゃんマンはバイキングがモデル。世界中からお宝をさがしだすバイキングという設定だそう。
「まぁ、いたずら半分です。売上も下がってきて、もうどうにでもなれって、半分はやけくそで/笑」。ただ、いたずら半分、やけくそ半分の突き。これが会心の一撃になる。
「雑誌に取り上げてもらって。たしか題名は『着ぐるみ着せたら日本一』だったような」。これをみたマスコミが、ほっとかない。「どれくらいだったかな。関西ローカルだけじゃなく、全国ネットでも。そうそう、ワールドビジネスサテライトにも出演しました。どうでしょうか、月3〜4回は、ブラウン管に登場していたと思いますね」。
「そもそもは、『のぶちゃんマン』の着ぐるみを着て、店頭販売を開始した、そこからです。それが、話題になったというわけです。おかげ様で、4年間で売上が10倍になりました」。
店頭から、全国区のヒーローへ。
「のぶちゃんマンっていう、もう一人の私が、私の窮地を救ってくれたわけで、私にとっても、ヒーローそのものです」。
ただし、着ぐるみを脱げばただの人間。のぶちゃんマンがヒーローなのに、勘違いする。
「浮かれちゃいましたね。家具店は、埼玉から熊本まで18店舗。各店舗のスタッフを『のぶちゃんマンジュニア』なんて言ったりしてね。トラックを買って引越センターもオープンしたし、総合リサイクル事業もはじめました」。
「お困りごと助け隊」という、ユニークな事業も行っている。
「いまメイン事業になっているパン事業も、この時です。とにかく、好調。のぶちゃんマンがいますからね。『2008年には、ヘラクレスに上場だ』って騒いでもいたんです」。
今思えば、ワンマン経営にもなっていた、とつぶやく。

ピンチのあとに。

「ジェットコースターに例えれば、『上場』って言っていた時が、いちばん上だったんでしょうね」。ガタゴトと急角度を登り切ったジェットコースターは頂点で、パノラマの絶景をみせたあと反転する。
「そう、それといっしょで。リーマン・ショック? そうね。それもあった。でも、それ以上に『のぶちゃんマン』がメディアに飽きられちゃったと思うんです。旬じゃなくなったんですね」。
失礼な言い方だが、いうなら、のぶちゃんマン依存型の経営である。
「社員も育っていない。事業もやたら広げていたから、私にもコントロールできなくなっていた。しかも、のぶちゃんマンが独り歩きしていたでしょ。『のぶちゃんマンが、やばいらしいぞ』ってなるんです。それ自体は、風評の類ですが、いったんそんな噂が立つと仕入れができない。家具店にとっては致命的です。もちろん、銀行も貸してくれなくなる。真っ逆さまです」。
事業をたたむよう進言してくれた友人もいたという。「でも、それだけはね。そんなことしたら、私だけじゃなく、のぶちゃんマンも、なんだったんだってなるでしょ」。
それまで年5000万円以上あった役員報酬を、月10万円にする。むろん、生活はいっぺん。
「あの時ね。奇跡的な風が吹くんです」。
政府が「中小企業金融円滑化法」を定めたことを奇跡という。たしかに、滝下氏の目からみればギリギリのタイミングで救われたことになり、奇跡といってもおかしくない。
「ほかにも、いろいろなことが重なって」。
仕入れができないから、トラックに乗り込み、現金で九州まで買付けに行った。「もう、現金でしか買い付けられへんねんやろな」、陰口も聞こえてくる。しかし、繰り返すうちに、『ただでもいいから』と言って応援してくれる人も現れたそうだ。
「パン屋をオープンしたのは、2015年です。オープンしたのは、久留米市のなかでも辺境です。周りは田圃と畑。でもね。もともとパン屋が少ないエリアたったこともあって、初日から大行列です」。
焼いても、焼いてもすぐなくなるから、「パンがないパン屋」というネーミングまで付けられる。
「西日本新聞が記事にしてくれたり、そうだね、フランチャイズを合わせ5年間でいきなり50店になったかな。あれで、息を吹き返したようなものです」。
それは、すごい。これも、もう一つの奇跡。
「それ以外にも総合リサイクル事業もやっていたでしょ。あれも、だんだん縮小するんですが、最後に残ったリカー事業が、注目されてね」。それが今の「お酒の買取専門店 ゴールドリカー」に繋がっている。
「お酒の美術館」というバーでは、コンビニの中にバーを作るという「コンビニバーR」が好調で、ファミリーマートとのコラボ店舗では、ファミチキに合うように独自にブレンドしたハイボールを提供するなど面白い取り組みも行なっている。
「いまは、コロナの影響でこっちはしんどいけどね」。むろん、コロナくらいではへこたれないというトーンでいう。
コロナ禍の話では、「ピンチを、チャンスに」と鼻息も荒い。ユーチューブも「これからやろうか」と思っているらしい。その一つひとつに、年齢を感じさせないなにかがある。
ちなみに、40歳で、立命館の学生になっている。そのバイタリティーはいまも健在。「のぶちゃんマンのキャラクターをポケモン、マリオに継ぐ、世界の三大キャラにするのが夢なんです」とニヤリと笑う。
「のぶちゃんマンのキャラクターを通して、子供たちに夢や希望を与え、日本だけでなく世界を楽しく平和にするのが、私の大きな野望です」。
それはそれで、面白い。ニューヨークに、突然、のぶちゃんマンが現れたら絵になる。
とにもかくにも、滝下氏という人は、面白い。まだまだお宝探しの冒険の旅は終わらない。滝下氏以外ができることは、滝下氏がみつけるだろう宝物に期待し、冒険のつづきをうながすだけだ。
のぶちゃんマンよ。今日も行け!と。

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