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第871回 株式会社ビー・ワイ・オー 代表取締役社長 中野耕志氏
update 22/02/01
株式会社ビー・ワイ・オー
中野耕志氏
株式会社ビー・ワイ・オー 代表取締役社長 中野耕志氏
生年月日 1966年6月21日
プロフィール 東京、赤坂に生まれる。高校卒業後、日本で1年、つぎにドイツに渡り、デュッセルドルフの「日本料理店」で本格的に修業を開始する。2年で帰国。29歳のとき、知人を通じ、創業者となる楊文慶氏に出会う。楊氏との二人三脚で事業を拡大。「和」をコンセプトにした、日本を代表する企業の1社になる。
主な業態 「和食・酒 えん」「KINZA」「おばんざい・炙り焼き・酒 菜な」「おぼんdeごはん」「だし茶漬け えん」他
企業HP https://byo.co.jp/

夜の六本木で、カルチャーに目覚める。

本格的に日本料理を学んだのは、ドイツのデュッセルドルフだった。当時、19歳。「もともとはアメリカに行く予定だったんですが、受け入れ先の問題があって1年間、日本で料理を勉強して、ドイツに渡ります。勤務先はデュッセルドルフにある日本料理店です」。
デュッセルドルフはファッションやアートで知られるドイツ西部の街。ライン川が美しい。風景は優雅でも、日本からきた少年に用意されたのは、刑務所のような住まいだったらしい。
今回、ご登場いただいた株式会社ビー・ワイ・オーの代表、中野氏は1966年生まれ。赤坂で生まれ、神谷町で育った生粋の江戸っ子。父親は兜町の住人で、今はもうないが店頭公開株のマーケットをつくった人らしい。微かな記憶を頼りに思い描くと、いつもだれかと電話している父親の姿が浮かび上がる。
父親と母親は中野氏が小学2年生のときに離婚。中野は母方の姓。
「母が仕事をしていましたので、祖母が親代わりでした。その頃から母に迷惑はかけたくないと思っていました。スポーツですか? スポーツは中学までは野球です」。
「キャッチャーで、キャプテンだった」と、すこし誇らしげに言う。
小学校は2クラス、中学は4クラス。意外に生徒数は少ない。「高校に進学するときに、『アメフトだ』と思って駒場学園に行くつもりだったんですが、ご縁がなく、商業高校に進みます。男子校です」。
アメフト。運動が得意で、からだも小さくない中野氏にとっては格好のスポーツ。「でも、けっきょく高校に進んだら、カルチャーに目覚めて、六本木に出没。夜な夜なディスコに通うような高校生になります」。
ファッションに興味がわく。カルチャーと表現するあたりが、当時の中野氏を正確に表している気がする。時代はカルチャー花盛り。バンカラな時代が終わり、若者たちによって新たな文化が生み落とされようとしていた時代だった。夜が昼より明るくなるのも、この頃からだろう。
ただ中野氏は、前述通り、日本をあとにする。

統一前のドイツへ渡独。

「ろくな大学に行けないのはわかっていましたから。それなら、語学ができないわけじゃなかったし、海外に行くかと思ったんです」。
大胆だ。ろくでもない大学に行けば、遊んで終わるだけ。大学に行けばそれでいいわけではないだろう。大学進学に18歳がモノ申した恰好だ。
「当然ですが、今のような未来はイメージしていません。海外のカルチャーにも惹かれたんだと思います。ただ、当時は渡米も、渡欧も難しい時代。私はけっきょくドイツに渡るんですが、お話をいただいたときには、ドイツ?と思いながら、もうなんとでもなれ、と 笑」。
このコラムで紹介させていただいている経営者には、海外に渡った人も少なくない。アメリカ、オーストラリア、フランス、イタリア、ただ、渡独した人はいない。ドイツに渡って「日本料理店」というのも、ユニークだ。
ただし、あとにも記述するが、当時、その日本料理店のシェフは日本料理界の至宝である伊藤文夫さん。その意味では、日本で修業するよりはるかに恵まれていたといえるかもしれない。
「従業員は30人くらいでしたね。大半が日本人です。言葉の壁はなかったですが、だいたいすべてが日本流。私がいちばん下っ端ですから。そりゃ、無茶苦茶です 笑」。

伊藤文夫氏との出会い。

当時の日本の料理界は「忍耐」が鉄則。「にげだしたかった」と中野氏。ただ、そのたびに、空港で手をふり見送ってくれた母の姿が目に浮かんだそうだ。
「もちろん、いいこともありましたよ。いちばん下ってこともあって、先輩たちに可愛がってもらいましたし、いろんな国の会合に参加させてもらったのもいい経験です。何より伊藤文夫さんにお会いできたのは、最高の財産です」。
ちなみに、中野氏が師と仰ぐ伊藤文夫氏は、1964年に、当時の岸首相の肝いりでオープンしたデュッセルドルフの「日本館」の寿司職人として渡独。ヨーロッパで初めて寿司をにぎった人と言われている。中野氏が勤務したのは、伊藤氏が独立して出した店「㐂かく」。
2013年、伊藤氏は第7回「日本食海外普及功労者」5人のうちの1人に選ばれ、表彰されている。
「ドイツにいたのは2年ですが、濃厚な2年でした。いうまでもなく私のターニングポイントです。帰国してからも、もう一度、渡独する予定でいたんですが、原宿にあったお店を預かったりして時間が経ち、29歳のときに楊に会います」。
知人の紹介だったらしい。
「楊は、台湾出身で、弊社の創業者です。年齢は私とおなじ29歳。同い年ということもあって、最初に会ったときから話が弾みました」。
楊氏はビー・ワイ・オーの土台を築いた、中野氏いわく「稀代の商売人」である。楊氏が社長になり、常務として中野氏が業態開発や商品開発などを担っていたそう。
「役割を分担することで、互いの得意分野を活かせたと思っています。むろん、楊から教わったことは無数にあります。意見が対立したこともあったし、私が、『これをやろう』といっても、『う〜ん』と、なかなか煮え切らないときも少なくなかったですね 笑」。

キーワードは「和」。

「中野がつくるのは上品だから」と楊氏はよく言ったそうだ。「楊はもっと大衆的なチェーン店、そういうのをやってみたいと思っていたようです。ただ、ブランドをつくるのは、私の仕事ですから」。
たしかに、中野氏の手にかかれば、ファストフードも上品になる。「だし茶漬け えん」がそれ。「フードコートから出店のオファーをいただいたときに、じゃぁ、うちらしく、今までのイメージ、概念ですね、そういうのをちょっと覆すようなメニューにしようと仕掛けたのが『だし茶漬け えん』です」。
少しご紹介すると、「だし茶漬け」は、すべてセットになっていて、小鉢2品とお漬物がついてくる。ごはんが大、普通、小からチョイスでき、出汁のおかわりも自由。
「鯛だし茶漬け」980円、「炙り明太子と高菜」750円、「小海老・小柱・磯天」830円。値段も手ごろだし、大盛り(約280g)を頼めば、食べごたえも充分すぎるほどある。
「楊と二人三脚でやってきた25年。失敗はむろんありましたが、一度も赤字に陥ることなく、無借金経営をつづけてきました。リーマン・ショックのときも逆に業績がアップしましたので、大変という意味では、今回のコロナが最初です」。
母体が大きいだけに、影響も大きい。「コロナ禍は、だれでもそうでしょうがまったくの計算外です。正直、いまは苦労しています」。
中野氏はコロナ禍の下、2021年の6月に社長に就任。スクラップを進めた。「『コロナが収まっても、もとにはもどらない』を前提に戦略を立てています」。退店するにもお金がかかる。「退店するために、銀行から融資を受けなければならない。おかしいですよね」と呟いている。
2022年2月1日現在、ビー・ワイ・オーは、「和食・酒 えん」をはじめとした和食ブランドを国内に119店舗出店。海外にも進出している。キーワードは「和」。コンセプトは「和の文化を伝承する食の創造」。

再構築と、料理人の矜持。

コロナ禍の下、再構築に向けた戦略を練っている。中野氏の話をうかがっていると、コロナ禍は、むしろ、未来に向け再構築するチャンスに思えてくる。
配膳ロボやQRオーダーシステムなどDX(デジタルトランスフォーメーション)化に向けての動きも既にスタートしているそうだ。
「飲食全体が厳しいなか、外食や中食のクオリティを高めることはもちろんですが、食のメーカーとして内食にも進出していこうと思っています」。
中野氏によれば、もう「店舗数がいくらある」といった時代ではないそうだ。たしかに、バーチャルやゴーストレストランは、店舗そのものがない。
ただし、料理人の矜持は、なくなるわけではない。料理人の思いや志は、どのようなスタイルになろうとも和食においては最強のコンテンツである。
「今度、『だし茶漬け えん』で、野菜だけで取った出汁のお茶漬けをリリースする予定です。このお茶漬けもそうですが、内食という意味では、『えん』でしかできない、プロの味をいかにご家庭で楽しんでいただくかが、カギをにぎります」。
店舗でいえば日本橋にオープンした、「KINZAN」をフラッグシップに挙げる。得意の和食と、NYの街なみにあるようなテラスをひとつにしたジャパニーズレストラン。傾いた夕日に、日本酒が赤く染まるシーンをイメージすると、和の未来図をみているような気がした。
はたして、中野氏は、和の未来をどう描いていくのだろう。
ところで、「どうして料理人をめざすようになったのか」と質問したとき、中野氏は以下のように答えている。
「高校の頃ですね。神谷町にうちがあったんで、友達が遊びに来るんです。彼らに料理をふるまっていたのが、きっかけといえば、きっかけです」。
「うまい」がうれしい。
「また、母が外食好きだったので、外食も多く、こと料理に限っては、英才教育を受けていたのかもしれません笑」。
六本木にあるイタリアレストラン「シシリア 六本木店」で食べたグリーンサラダはいまも記憶に残っている。弧を描く胡瓜のうつくしさが印象的だったそう。
ビジュアルにも、力を注ぐのはそうしたデザイン的なセンスがあるからかもしれない。ただ、それ以上に誰かを喜ばせたいという強い思い。それが、料理人としても、経営者としても、中野氏の矜持だ。

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ホテルキッチンで和食を提供
 

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