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第878回 霞町 三〇一ノ一 オーナー 渡辺ひと美氏
update 22/03/22
霞町 三〇一ノ一
渡辺ひと美氏
霞町 三〇一ノ一 オーナー 渡辺ひと美氏
プロフィール 東京都町田市出身。大学卒業後、トヨタ自動車株式会社のグループである株式会社トヨタエンタープライズに入社。トヨタ自動車の専属のしゃべり手として、記者発表や表彰式などのMCを務め、役員と共に日本全国を巡る。ニュースキャスターとして、ブラウン管にデビューするのは、このあと。ニュース番組を中心に、料理番組やゴルフ番組も担当。その一方で飲食店のプロデュースを行い、33歳の時、自身初の店舗「霞町 三〇一ノ一」をオープン。経営者としてスタートする。
主な業態 「霞町 三〇一ノ一」
企業HP http://www.301-1.com/

夜明け前まで。

はじめて知ったが、釣った魚をはく製にする人がいるそうだ。「すごい魚が釣れた時には魚拓じゃ物足りないんでしょうね」と笑うのは、今回ご登場いただいた「霞町 三〇一ノ一」のオーナー、渡辺 ひと美氏。
「ただし、魚拓のようにはいきません。だから、父に連絡がきます。私の父は、はく製づくりの名人だったんです」。
渡辺氏の父は秋田県大曲出身。花火で有名な町だ。
「父は建設会社を経営するかたわら趣味が高じて、当時、日本に3人しかいない魚のはく製づくりのマイスターになっちゃったんです」。
釣り雑誌でも度々、紹介されていたらしい。
「毎日のように『はく製にしてください』って立派なお魚が送られてくるんです」。
だから食卓には、いつも新鮮な魚がならんだそうだ。
父親は、はく製づくりも得意だが、料理も十八番。
「はく製をつくるくらいですからね。プロの料理人に負けない位に巧かったんじゃないでしょうか。ただ、なんでも食べちゃう人で、虫とか、そう狸もたべさせられました」。
「注意しておかないと何をたべさせられるかわからない」と渡辺氏は笑う。
はく製づくりは、繊細な作業にちがいないが、「何でもござれ」の食材からはワイルドな性格が浮かび上がる。「そうですね。野性的でアクティブな人でした。家族は毎週のように山、川、海に連れていかれたんです」。
言葉の端々から、当時をなつかしむ響きが伝わってくる。
「おひつに残っているごはんで、おにぎりをむすんで。車で道なき道を行く訳です」。
アスファルトから、砂利道に。いつのまにか、砂利もなくなっている。からだは、上に、下に、右に、左に。
「魚釣りは、夜が明ける前から竿をさすでしょ」。
だから、夜明け前まで。移動は月明かりの下。暗闇のなか、崖を下らされたこともあったそう。
「でも、たのしかったですね」。
ちなみに、渡辺家は4人家族。2人姉妹で、渡辺氏は次女。次女は父親のワイルドさをもろに受け継いだのか、とにかく、昔は運動が大好き。
小学校から始めた卓球では、小・中と都大会で上位入賞している。もっとも本人は、テーブルじゃないほうのテニスで、コートを軽やかに駆けたかったようだが。

南をめざして。

渡辺氏は、卓球で推薦をもらった「東海大相模高校」に進学する。ただし、推薦は蹴り、通常の受験生に混じり試験を受け入学している。
「なんで東海大相模高校かっていうと…、じつは野球部のマネージャーになりたかったんです」と渡辺氏。理由を聞くと、当時、流行っていた漫画の名が挙がる。ヒロインはたしか、南。
「だから、私も甲子園に行ってみたいと思って。東海大相模は常連校でしたから。ただ、私がいけないんですが、当時の野球部は女子禁制。マネージャーも男子だったんです」。
それは、残念というか。
「でしょ。ちゃんと調べておけばいいのにね」といって茶目っ気たっぷりに笑う。
しかし…、卓球部からのお誘いはなかったんだろうか?
「ありましたよ。休み時間毎にしょっちゅう。ただ、こちらも私がいけなかったんです」。
入学早々、球技大会があったそう。
「じゃんけんに負けて私の出場種目が卓球になっちゃったんです。最初は目立たないようにしていました。でも、相手は素人。あれよ、あれよって勝ち上がってしまって」。
ついに、相手は卓球部の選手。勝手にからだが動く。
「現役選手の強烈なスマッシュがきたら、習性なんでしょうね。ついに踏み込んでしまって」。
ラリーが始まる。
ラケットが卓球ボールを打つ乾いた音が観客を集める。結局、勝利してしまう。
渡辺氏の華麗な勝利にいちばん驚いたのは卓球部の部員たちかもしれない。休み時間になるたびにお誘いがあったのもうなずける。だから、「私もいけなかった」と渡辺氏は言っている。
しかし、渡辺氏は頑なに拒みつづけ、結局、茶道部に入部。裏千家の御免除を取得している。
改めて、父親の印象を聞くと「厳しくも優しい。誕生日も同じということもあってか双子の様な存在で理解者でした」という。

就職は、トヨタ自動車グループ。

大学では、ロシア語を勉強した。
「ロシア語は難しかったですね。あの頃は、1日6時間は机に向かっていたんじゃないかしら。じつはモスクワの大学の交換留学生にも選ばれたんです。ただ、ロシア国内の情勢が不安定で私たちの学年は行くことができませんでした。仕事も本来であればロシア語の通訳としてロシア大使館で、と思っていたんですが、こちらもあきらめなければならなくって。真剣に勉強していたので悔しくて、少しだけやさぐれていた時もありました」。
でも結局、世界のトヨタに就職されたんですよね?
「やりたい事がやれないのであれば、だったらお給料が高いところにしよう!と思って、資料請求を出したトヨタ様からお返事があって。まさか、採用されるなんて思ってなかったです」。
渡辺氏がトヨタ自動車、正確には、トヨタエンタープライズに入社したのは1995年のこと。
「人生のターニングポイントは、3回」と渡辺氏。1回はトヨタに入社したこと。立ち振る舞いなど、様々なことを勉強させてもらったと言っている。
2回目は、むろん、そのあと。
「トヨタは3年半で退職しています。そのあと、セント・フォースというアナウンサーのマネジメント事務所の方に声をかけていただいて、私の、第二の人生の幕が上がります」。

ニュースキャスターと、日本酒と。

最初は、日テレの「お天気お姉さん」でブラウン管デビュー。朝3:30に迎えが来て、朝6:00からオンエア。夕方からはニュースプラスワンの冒頭で今日の主なニュースを読み上げた。
「報道のニュースキャスターです。あの頃は、報道フロアなどに朝から朝までいたような気がします。他にも、様々な料理人や料理家、タレントの方と料理番組も担当していました」。
それが、今につながっているわけですか?
「いえいえ、私がお店をやろうと思ったのは、4歳の頃。その思いを温めて、温めて、33歳の時にやっと念願かなって私のお店をオープンします」。
最初から、ゴッコじゃなかった。だから、4歳の記憶が鮮明に残っているんだろう。
「じつは、最終目標はずっとそれだったんです。トヨタの時も出張で全国に行きました。仕事前に早起きをして各地の朝市に行って食材を勉強したり、アナウンサー時代もロケの前後で蔵元様に伺って日本酒の造りを学びました」。
渡辺氏は唎酒師の資格まで取得している。
それも準備の一環だった?
「いえいえ、もともとお酒はまったく飲めなかったんです。あの頃はトヨタの役員といっしょに日本のいたるところに仕事でご一緒する機会があったのですが、少しでも酔ってしまうと会社を首になってしまうので、接待の席でも絶対お酒はいただかなかったんですが。青森に行った時です。地酒で『田酒』というブランドをお客様にお勧めいただいて。どうしてもとおっしゃるので、じゃあ、お口をつけるだけと言って」。
どうなりましたか?
「ほんの一口、含んだだけなのに、おいし〜ぃってなって。お相手の方も喜んで下さって、コミュニケーションの潤滑油的な役割になる日本酒をもっと知りたくて唎酒師になり、今では日本酒が大好きです」。
このあたりやはり、お父様に似ている。
日本酒の妖精が、お店をはやくやらないの?と、ささやきにきたのかもしれない。

夜明け前。

「私、トヨタの時から、じつは、お店のプロデュースはさせてもらっていたんです。結局、33歳で創業店をオープンするんですが、物件探しは29歳からやっています。創業店は、私がプロデュースしたお店があるビルのオーナーさんから声をかけていただいたんです」。
仕事をしながら、食べ歩きに精を出し、プロデュースも行う。なんと多彩なタレントだろう。スポーツでも、茶道でも、社会人になってからも、渡辺氏の才能は、くるくるとちがった表情をみせる。
むろん、育て方もうまい。渡辺氏が創業した「霞町三〇一ノ一」は飲食店でありながら、まるでスターダムを駆けあがるように人気店となった。
主な客は本当に舌の肥えた食いしん坊をはじめ、大企業の役員や、芸能人、政治家などなど。
キャスターと飲食店オーナーを両立している時代もあった。
「セント・フォースの社長さんも、私がずっとお店をやりたいことを知っていましたから」。
理解は最初からあったようだ。
幸い、キャスター時代は、朝から翌朝まで仕事をしていたので、お金もたまっていたのだろう。スタートから躓くことなく、順風満帆な日々がすぎる。
セント・フォースは、10年くらいで退職し、オーナー業に専念する。
「でも、やっぱりコロナですね。政治が決めないから、どうすればいいのか、進んでいく方向性が見えない」。むろん、黙っていたわけではない。
「いち早く、ドライブスルー&テイクアウトをはじめたんです。霞町三〇一ノ一は3Fですから、事前にお電話でオーダーをお伺いし、タクシーでもいいんですが、到着されたときに1Fまでスタッフがもっていきます。あらかじめ釣銭がないようにしていただいていたので、数秒でお渡しできます」。
反響がすごかったらしい。
「お値段も御弁当としてはけっして安くはなかったのですが、ありがたいことに次々にオーダーをいただき、新聞やテレビにも取り上げていただいて」。
かなり売れたそう。このあたりでは、正確ではないが、テイクアウトの売上だけでいえば群を抜いていたはず。とはいえ、テイクアウトだけではやはり店の運営はきびしい。
「大手企業の方々などは、会社で外食が禁止されてしまうと、いらしていただくのはかなり難しいです」。
やむを得ないといっても、正直、きつい。渡辺氏も言葉を飾らずに「今がいちばんしんどい」という。少なくとも政府には方向を早くだして欲しい、と。その様な中で16周年を前にリニューアルをするそう。しっかり先を見据えている。
この闇はいつか日に照らされるはずだ。その昔、月明かりだけを頼りに、崖を下った時のように。暗闇の向こうからただよう潮の香りに、心を弾ませた時のように。
やがて、夜は明ける。
その時をいま、渡辺氏は、あの時の父親と同じように待っている。

思い出のアルバム
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小学校低学年時代 父の剥製の一部 トヨタ時代
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セント・フォース所属
アナウンサー時代
海外で発売された
日本酒の本に使用された写真
幼少時代からの
趣味の釣り
 

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