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第881回 株式会社KIWAMI 代表取締役 阿波耕平氏
update 22/04/12
株式会社KIWAMI
阿波耕平氏
株式会社KIWAMI 代表取締役 阿波耕平氏
生年月日 1986年5月29日
プロフィール 北海道札幌市生まれ。看板店に勤務する父と専業主婦の母のもと、三歳上の姉と育つ。札幌の調理専門学校で中華を専攻し、卒業後20歳で上京。京王プラザホテル内の有名中華レストラン「南園」にアルバイトとして就職後、契約社員に。4年間の修行後、一度自分の店を持つことを諦め、「ぐるなび」に営業職として入社。「ぐるなび」退社時に500社の挨拶回りをする中、居酒屋にスカウトされて飲食の現場に戻る。2014年、当時開発が進んでいた武蔵小杉に「もつ屋じゅうに12」をオープン。2016年「鮮度の極み 魚もつ 武蔵小杉」、2021年「炭火串焼と旬野菜 きわみ」とオープンさせ、2022年4月現在、武蔵小杉駅周辺に3店舗を経営している。
主な業態 「武蔵小杉のもつ屋 じゅうに12」・「炭火串焼と旬野菜 きわみ」・「鮮度の極み 魚もつ 武蔵小杉」
企業HP https://r.gnavi.co.jp/7s5rf54b0000/

学校の人気者には、負け癖があった。

小学生の頃はクラスで一番目立つ存在で、学芸会の主役や、運動会の応援団長には、すすんで立候補した。「人の上に立つ」のが好きで、学級代表や生徒会長も務めた。
学芸会では西遊記の主役の孫悟空を演じたが、それだけでは満足せず、6年の時には「総監督」として「走れメロス」の演出や演技指導も行ったという。このとき、みんなの前で「話す力」が身に着いたのではないかと振り返る。
サッカー少年団にも所属し、成績は中の上のあたりを行ったり来たり…。
そのまま中学に上がったはいいが、だんだん「目立つ」ことがカッコ悪いと思うようになり、部活のバトミントンに精を出したり、友人宅に遊びに行ってゲームをしたりの普通の中学生男子の生活を送る。
高校に入学してからは、サッカー部に入部。
小学・高校時代のサッカーも、中学時代のバドミントンも、入ったばかりの時はすぐにレギュラーになれるものの、卒業する年には必ず補欠やベンチ要員になっていた。
なんでも器用に出来るがために、努力をせず、練習を怠ったことが原因だと本人が、一番よくわかっているようだ。
「他の子たちに抜かれていく」ことや「負けること」を何とも思わないタイプだった。
当時、TV番組の「情熱大陸」や「プロフェッショナル」が好きで、過去をおいかけられるほどの大物になりたいとかじりついて見れば見るほど、世界に羽ばたいたスポーツ選手を知れば知るほど、自分とはかけ離れた人たちだと感じた。自分のような負け癖のある人は一人もいない…。これが、「仕事で勝つしかない!」と、思わせるきっかけとなり、調理の専門学校に進むことになる。

専門学校から本気出す!?

「仕事で負けない、仕事でベンチはありえない。専門学校から本気出す!」と、高校卒業後、札幌の光塩学園調理製菓専門学校に進学。2年からは専攻を選べるが、家族で食べた高級中華の味が忘れられず、迷わず「中華」を専攻した。
友人になり得る人は周りにたくさんいたが、他の生徒が子どもに見えて仕方なかったと、敢えてこの頃は周囲と距離を取っていた。
「なんでみんな遊んでるの?2年しかないんだよ?2年したら就職だよ?」と、休み時間は「話しかけるなオーラ」を身にまとって一人で過ごし、卒業。すぐにマーケットの大きな東京を目指す。

独立した父から学んだこと。

父親が務める会社は、JRの駅看板や道路標識のような公共性の高い看板を製作する企業で安定しており、家族での外食も多い裕福な家庭だった。
父の知り合いに高級店のシェフが3人いたため、幼い頃から客単価が1万円以上するような店によく連れて行ってもらっていた。
高校生の頃、父が独立し自分の看板製作会社を作った。
子どもを職場に連れていくタイプの父で、阿波氏もよく連れていってもらっていた。
父親は、社長になったからとチヤホヤされても態度が変わることがなく、昔からの人脈を大切にし、たくさんのお客さんに信頼されている姿は、子どもの目から見ても尊敬に値するものだった。
学校の教室の看板など、大量生産できない部分を担う会社だったが、これまでのJRや道路標識の仕事と比べると絶対量が少なかったので、事業は苦戦を強いられた。そんな中、道の駅で売るキーホルダーを作って全国に営業にまわっていた父の背中も見て来た。
そんな姿を見て、自分も将来独立して会社を創ろうと思うようになっていた。
尊敬する父は、53歳の若さで癌で他界。阿波氏、23歳の時だった。

日本一大きな中華レストランでの修行。

新卒で受けた京王プラザホテル新宿の中華料理「南園」は不採用…。アルバイトとして入り(後に契約社員となる)修行が始まる。
「南園」の席数は500〜600。日本で一番大きな中華レストランと言われている。OBに周富徳や譚彦彬という有名シェフがいる名店だ。
最初の1年は包丁を握らせてもらうこともなく、物を運んだりホテル側へ食材を発注し引き取り、各部門に納品するのが主な仕事。毎日怒られてばかりだった。
料理の世界に入ったのに、料理ができないことに耐えられず辞める人も多い。同級生と「今どんな仕事しているの?」という話をし、「もう料理を作っている」と聞くと、取り残された気分や焦りを感じた。
「早く上に行って料理を作りたい」。
上に行くために、耐えた阿波氏、2年目も「料理」というレベルの仕事はさせてもらえなかった。
しかし、労働時間や休日についてはホワイト企業だったので、時間はあった。これは同じ業界に進んだ友人達の中では、焦りと引き換えの幸いであった。
仕事の後で点心の包み方を教えてもらったり、食材を切る練習。家では中華鍋を振る練習や飾り切りの練習と、「一番になりたい、部活の時みたいに負けるのは絶対に許されない」という一心で頑張れた。
南園に勤めた4年の間には、「薬膳インストラクター中級」資格の取得もするなど、料理のことしか考えずに過ごした日々だった。最後の1年は「板」として出勤から帰るまで、ずっと何かを切り続けていた。
そこを4年で辞める決断をしたのにはシビアな理由がある。
「自分の2つ上と3つ上に『すごい人』がいたんです。めちゃくちゃ凄くて…」。
その2人の先輩は、技術がある上に勉強もしっかりしていて、中華の部門だけで60人いる社員の中で実力が突出していた。次の料理長はあの二人だと、阿波氏自身も、4年間本気で取り組んだからこそ限界が見えてしまったのだ。
「あの二人がいる限り、自分はナンバーワンになれない」。
24歳で、日本で一番大きな中華料理店「南園」を去る。

営業をやってみよう。

「料理長になる」夢は絶たれた。残るは自分の店を持つことだが、南園時代の先輩5人が独立し、全員が失敗したのをその目で見て来た。料理の腕も良い彼らがなぜ失敗したのか?
「料理の美味しさだけでは経営が成り立たない、他に何かがあるはずだ」。
父が営業していた姿を見て来たこともあり、「美味しさ以外に必要なこと」を探すべく、飲食に関する営業をやってみようと思いついた。
当時、テレビで紹介され話題だった転職アドバイザー・鈴木康弘氏が経営する「転職相談バー」を訪れてみた。すると偶然「今コックがいないから」とその店でアルバイトをすることになる。好きな料理を出して良いと言われ、今までの自分なら2000円と値付けする料理を600円で出すアイデアなどを学んだ。
鈴木氏からは飲食系の営業なら「ホットペッパー」か「食べログ」か「ぐるなび」に入るのが「勝ち組」と言われていたが、料理の経験だけではその3社には入れないので、どこかで営業経験を積もうと思っていたところに、これもまた偶然で、鈴木氏と旧知の仲だった「飲食の戦士たち」を運営する(株)キイストンの細見社長と知り合った。夜は転職バーのコックをしながら、日中はキイストンの営業アシスタントとして、アポとりを4か月ほど経験した。
その後、「ぐるなび」に入社することになるが、それは転職バーでぐるなびの人事担当に会えたことがきっかけだった。

ぐるなび営業のキツイ日々。

配属はぐるなび横浜営業所。ぐるなび掲載の営業で、「飛び込み」「テレアポ」…はじめての経験はキツイことだらけだった。
「今日テレアポ何件やったの?200件はマストで」。
「受注するまで帰って来なくていいよ」。
・・・本当にこの言葉を使う現場があるんだ!?と驚いた(笑)。
ちゃんと毎日詰められ続けた2年間。キツイことだらけのこの時期が、今の阿波氏の8割を作っていると言える。
2年目には年間目標を達成、翌年には昇格も約束されていたところで、入社面接の時から話してあった「自分の店を持ちたい」夢に向かうと決め、ぐるなびを退社。
退職の挨拶でまわった500社の顧客のうち、10社ほどから「ウチに来ないか?」と言っていただいた。その中の1つの居酒屋に、現場感覚を取り戻すべく入社。小さな居酒屋で、キッチンをすべてまかされた。

営業で得たものを武器にして。

ぐるなび営業で得たものは、「繁盛する店、しない店」を判断できる知識。
あの時先輩たちは「自分たちがやりたいことをやった」から失敗したと気づいた。
週に何度も高級中華を食べたいとは思わない…やはり「お客様が求めるものを提供」しないと成功しないのだと。
もう、昔からこだわっていた「中華」へのこだわりは消えていた。
高級中華より週に何度も食べたくなる和食、立地の良し悪しの怖さ…営業で学んだことは武器になる。
営業時代に担当エリアだった武蔵小杉の発展は目を見張るものがあった。売り上げが爆発せずとも失敗している店舗がないエリアだったし、この後もタワーマンションが増えていく情報も得ていた。そこに空き物件が出たのをきっかけに、独立。「売れる店より失敗しない店を作りたい」と、2014年、最初にオープンした「武蔵小杉のもつ屋 じゅうに12」は、12席の小さな店だが赤字を出した月は1度もない。
営業時代に周囲のお店を知り尽くしているからこそ、他の店より「ちょっと安い・ちょっと接客が良い・ちょっと長い時間営業している」それだけのことだが、経験と市場知識に基づいた戦略だ。
社名のKIWAMI(極み)は、どんな業態でも「〇〇のきわみ」とつけられる、今後の展開を意識してのことだ。
社員の独立希望者には、自分の経験を踏まえ、「自分のやりたいことを」ではなく、まずは今の業態で頑張って知識を身に着けてからにして欲しいと望み教育している。社員には押し付けるのではなく、自分の幸せを自分で見つけるためのバックアップをしていくつもりだ。
原価率が低くて品質の良い店をこれからも作り続ける阿波氏。星の数ほどある会社の中で、自社はまだ一番ではないが、一番を目指すのと同時に飲食業界人の社会的価値を高めたいという思いがある。
将来、もう少し落ち着いたら、これまで家事や育児をまかせっきりだった妻が好きな海外旅行に連れて行き、「妻孝行」したいとも密かに思っている。

思い出のアルバム
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4歳。初めての料理。パン作り 19歳、陳健一氏の元で修業時代 もつ屋じゅうに12の開業時
 
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